第三十一話 ガルネウス
文字数 4,901文字
(いったい何が起きておる!)
この事態を誰が予測出来ようか。無論、魔女の想像の範疇すら超えていた。
身体から立ち込める、緑色の瘴気。額に存在する、それと等しい色の瞳。そして何より、無駄なく綺麗に断たれた、その者の二つの牙の存在は魔女の記憶にも新しい。
姿は骨となろうが、間違いない。対峙するこの者は、マリーと同じく百六十年前に対峙したキメラの一人、ガルネウスであった。
(何処から湧いてきおった!)
それは余りにも突然。森の木々から覗かせた靄は、雪のものではなく、紛れもなく魔法のそれであった。文字通り"湧いた"という表現が適切であり、兆しなく突如、姿を現したのである。
「くたばれ糞爺!」
再び魔女の咆哮が響き、火球が雪原を照らした。しかし、相手は紛れもなくキメラの一人。それは、少しの眩みを教えただけであった。膝を突く時など、おとなしく与えてはくれるはずもない。
象骨は姿勢を屈ませた。降り積もる雪に、自身の切断された牙が触れるや否や、勢いよく振り上げる。
「くそっ!」
「きゃぁぁぁあ!」
「……くっ!」
雪崩のような雪塊が一同を襲った。魔女の後方にいたリアムとオリビア。あと数歩、馬が足を進ませていたら、その雪の波に薙ぎ倒されていたであろう。
火球を放ちつつも、魔女の片手は手綱をしっかりと捉え、重心をやや後方へと預けていた。思っていたよりも、馬が大きな動作を示し、少し予測とは外れた地であったが、なんとか蹄は平坦な雪を捉えることが出来たようだ。
(……健在という事か。憎たらしいものよ)
傷跡は、この様を見る者たちの心に刻まれたかのようであった。相手のこの動きが、想像の範囲内であったとはいえ、地面をこうも抉られては、たまったものではない。
身が骨と成らば、力も弱まるか。魔女のその淡い期待は、見事に打ち消された。
「……臆するな!進めぇ!」
象骨の背面。ラウラ聖堂院側から蛮声が流れてきた。その主は聖堂院に駐屯を任された、数少ない帝国兵らのものであった。
「……う、うおぉぉぉお!!!」
「待て!早まるな!」
大山脈の中腹。末端の地故に、猛獣も多い。この地を任される者の腕は、低いとは言えないだろう。しかし相手が相手である。結果など、誰もが容易に想像できた。
帝国兵であるという、誇りが彼を動かしたのであろうか。もしくは、このような化け物を対処できずにいた際の叱責を恐れたのであろうか。もはや、先頭にいた兵士が掲げるその理由など、誰にも知る由はない。
「ぐ、ぐぁぁぁぁぁぁあ!」
結果、魔女の警告を無視し、いきり立って飛び出した一人の兵士の槍は、相手に掠ることすら許されなった。
象骨が醸し出す瘴気が、兵士の翳した槍先を伝い、彼の身体に纏わりつき、体を侵食させてゆく。銀の兜から覗いていた白い肌は、たちまち茶褐色に変わり、蒸気を上げて水気を失った。
(……こちらも健在という訳か)
ガルネウスが放つ、緑色の瘴気。これに生物が触れてしまうと、たちまち身体が腐食してしまうのである。以前と変わらぬこの能力を前に、魔女も畏怖の念を抱かずにはいられない。
「う、うわぁぁぁぁあ!!」
兵士が手にしていた槍が静かに雪面に落ちた時、響いたのは、後に続こうと構えていた仲間らの叫びであった。
象骨は既に反転し、自身らを意識している。死を覚悟したに違いない。腰を抜かし、尻を地に着く寸前。今度は大きな爆音が彼らの足元に鳴り響き、後方へと吹き飛ばされた。
兵士が飛び出したのを見るや、魔女は既に、像骨を回り込み彼らの下へと馬を駆けだしていた。迷いこそあった。多少強引ではあるが、命を救ったのであった。
「邪魔だ、どけ!お前らでは話にならんのだ!」
魔女はある種の”過ち”を犯した。こちらの利を考えれば、凡人相手に……ましてや、帝国の者相手に魔法の存在を晒すべきではないからである。
帝国中枢の人間が魔法の存在を知れば、間違いなくその痕跡を辿りに来る。本来の魔女であれば、迷いなくこの者らの命を見捨てていたであろう。
この過失の原因は、長きを重ねた年月か。はたまた些細な”出会い”が彼女に影響を与え始めていたのかもしれない。
魔女が珍しく犯したこの”罪”は、一同の未来に大きく干渉しうる可能性があった。勿論、それが無事に訪れれば……という話ではあるが。
(……くそ)
後悔がよぎったのも束の間。相手は、キメラである。その余韻など与えてはくれない。
象骨は大きく両足を上げ、グリンデの乗る馬目掛けて振り下ろした。
ここはやはり、伝説の魔女である。少しの精神の乱れを見せようとも、隙は突かせない。背後で強い殺気を感じると同時に、手綱を握る手を強く引いていた。
「……くっ!」
間一髪のところで、馬を翻し、再び像骨の背後に回りこんだ。怒声があたりに響きわたる。
「リアム!行け!」
「……は、はい!」
得体のしれない化け物を前に、術なく立ち尽くしていた栗毛の青年も、すぐさま動きを成した。彼は手綱を引き、馬を反転させると、元来た道を引き返してゆく。
青年も薄々と理解していたのである。今、自身が加勢したところで何の力にも成らないという事を。そして、やはりあの槍先を使わずして、この化け物を封ずることはできないという事を。
しかし、魔女自身が扱えないという事は、如何にするか。
(もしもの時は、この身を犠牲にしてでも……)
青年の眉間には、深い谷間が生まれていた。後の事など、考えもない。だが、やるしかないのだ。あの像骨に、柄の折れた槍先を突き刺す他ないのだ。
(……いずれにせよ、時間が惜しい。やはり、ここは……)
「オリビアさん!」
青年はすれ違い様、白馬に跨る、未だ唖然とした表情の少女に声を送った。
「は、はい!」
名前しか呼ばれなかったが、少女も大まかに理解していた。
(あの時と同じ……。私は戦えない。けど……きっと私にしか出来ない事)
少女の馬も反転し、青年のそれを追った。速い、速い。白馬は瞬く間に追いつき、青年と少女の馬は横並びになった。
「リアムさん!オルドの町まで案内して下さい!そこからは独りで屋敷に向かいます!」
効率を考えればそれが正しい。オルドの町から屋敷までの道中も危険だが、爪がある。オルドの町まで案内し、町に着いてからは、ほんの数分でも自身の馬を休ませる。彼女が戻り次第、ここに向かえば良い。
「……分かりました!着いてきてください!」
一体誰に似たものか。窮地を目の当たりにして、少女の意識は水を得た乾地の如く蘇った。”出会い”をきっかけに、影響を受けた者は魔女だけではないのであろう。
相手は、かの白馬である。青年は、自身の馬が転ぶ寸前まで馬を加速させた。
(……小娘も行ったか)
何度この憎たらしい象骨に嚙ましたか。グリンデの手の平では、相変わらずの大きな火球を繰り出されていた。
――魔女、なのか……。魔女。魔女よ。
先程から脳内に、同じ言葉が木霊している。相手はどうやら、自身の存在を認知しており、こちら標的としている。吹き飛ばされた兵士らなど目も暮れず、ひたすらに追いかけてくる。
(時間を稼がねば。……馬が動き易い、広い場所が必要だ)
記憶を辿れば、この先に大きな雪原があるはずであった。槍が届くまでの間、持久戦に持ち込む
とならば、馬の体力を温存しなければならない。継続して同じ速度で走り続けることが出来る場所が必要であった。
空地を求める理由は他にもあった。
幸いにも、相手は象。本来、速度となれば、こちらの馬の方が分がある。だがしかし、どうにも気にかかるのだ。
(……この馬、動きが悪いな)
目の前で、得体のしれない化け物を前にしたら、当然なのかもしれない。むしろよく逃げ出そうとしないものだ。ただやはり、先ほどからどうにも脚の動きが大きく出過ぎる。思えば、自身を乗せてから、一日と経ってはいない。馬からすれば、居心地が悪いに決まっている。
(……下手な動きをするわけにはいかぬな)
魔女は火球を操り出し、再び、こちらを追う象骨の顔面に浴びせた。
(……来い。こっちだ)
挑発に煽られてか、象骨はより速度を上げて、魔女の乗る馬を追いかけ始めた。
(……ここなら時を稼げる)
見渡す限りの白。地吹雪が舞い、すべてを覆い隠している。
視界は奪われてはいるが、今まで遠くに見えていた、木々の輪郭はすっかりと姿を消している。暫くの間、邪魔するものは無さそうである。これからどう戦絵を描こうものか。純白の無地の画布が、魔女の眼前に姿を現した。
まずは槍先が届くまでの間、耐え抜く事だけを考えるのだ。術は後からでもよい。どちらにせよ、槍先がなければ、ガルネウスを鎮めることは出来ないであろう。今出来うる事は、これしかないのだ。
(馬よ。もう暫し、堪えておくれよ)
懸念はあるが、やるしかない。まずは中心地へ。そして円を描くように馬を。グリンデは相変わらず火球をぶつけ、象骨を誘くほかなかった。
――魔女、魔女よ。
(……無駄に名ばかり呼びおって。やかましい)
これは挑発に乗っていると言って良いのだろうか。象骨は導かれるがままに魔女の背を追ってゆく。だがやはり、どうにも様子がおかしい。過去のガルネウスを思い出す度、その疑問は強くなる一方である。戦略や知恵の一つ、持ち合わせている様子もないのだ。
マリーの時と違い、こちらに語り掛けている以上、確実に意識は目覚めている。先ほどの兵士らに向かっていった以上、敵意は持ち合わせているはずなのだが……。
(……なんだ、こやつ。ま、まさか!)
魔女の脳裏に一つの仮説が浮かんだ時、相手もふいに大きな動きを見せた。
象骨は後ろ脚二つで立ち上がり、前脚を上げ大きく仰け反った。
(……くそ。まずい!)
半ば熱が冷めていない平手で馬の尻を叩いたのも、もう遅い。象骨の両足は、今にも雪原に触れようものである。
「臆するな!走れ!走れ!」
慣れないその指示に、馬の首は右往左往。足跡は乱れ、なんの生き物によるそれかわからぬ印章を雪原に落としてゆく。
魔女が声を荒げた瞬間、大きな地響きが辺りに伝った。二つの距離は十分に保たれていた。まして馬を煽り駆けさせ、その距離を少し伸ばそうものであるのに、この威力である。
「ヒヒーン!」
「くそ!」
魔女の懸念は、予想よりも随分と早い形で姿を見せた。馬は強く嘶き、大きく脚を上げ仰け反った。主の存在などお構いなしである。
「……ぐっ」
脳内で火花が弾ける。すぐに魔女は、降り積もった雪の感触と冷たさを知った。”痛み”はそれだけではない。馬は無情にも、主の想いを知らず、地吹雪が成す霞の向こうへと消えていった。
――魔女。魔女よ。
地吹雪に霞む緑色の輪郭は、大きな地鳴り、そして”声”と共に、その濃さを増してゆく。
(……ふ、ふざけるなよ)
グリンデはすぐさま手の平を向け、靄に潜めるその対象に火球を放った。大きな爆音が鳴り響く。しかし拍子が止んだのは一瞬。すぐにその大きな律動は生まれてきた。
――魔女、魔女よ。
最早、愚痴の一つも浮かばない。まだ利き腕でないだけ良かった。どうやら右肩が外れてしまっているようだ。グリンデは、冷えて半ば感覚のない、もう片方の腕を頼りに立ち上がり、振り返り様に再び火球を繰り出す。雪原が一瞬明るみ、再び大きな爆音が鳴り響く。……しかし、これも一瞬。
――魔女よ……。
「ふざけるな!」
まだだ。まだやらなければならない事があるのだ。魔女の咆哮は、地吹雪が成す雪壁を破り、辺りに微かな木霊を産んだ。
しかし哀しきかな。巨体である"象"を前に、余りに無力であった。人が精一杯駆けても、たかが数秒で追いつかれる。ましてや、相手は腐食の瘴気を纏う存在である。
――魔女よ……。
その足音と"声"は強みを増してゆく。霞ももはや意味をなさなくなっている。こちらから数歩迎えば、すぐにその姿を拝むことが出来よう。
――魔女よ……。
到頭、頼りにしていた魔法の靄が意味を為さなくなった。地吹雪に混ざり、瘴気が風に煽られている。声と足音が、魔女の心臓を突いた。
――魔女よ、鎮めてくれ。
もはやグリンデはその巨体を前に、痛む右肩を押さえ、佇むばかりであった。
この事態を誰が予測出来ようか。無論、魔女の想像の範疇すら超えていた。
身体から立ち込める、緑色の瘴気。額に存在する、それと等しい色の瞳。そして何より、無駄なく綺麗に断たれた、その者の二つの牙の存在は魔女の記憶にも新しい。
姿は骨となろうが、間違いない。対峙するこの者は、マリーと同じく百六十年前に対峙したキメラの一人、ガルネウスであった。
(何処から湧いてきおった!)
それは余りにも突然。森の木々から覗かせた靄は、雪のものではなく、紛れもなく魔法のそれであった。文字通り"湧いた"という表現が適切であり、兆しなく突如、姿を現したのである。
「くたばれ糞爺!」
再び魔女の咆哮が響き、火球が雪原を照らした。しかし、相手は紛れもなくキメラの一人。それは、少しの眩みを教えただけであった。膝を突く時など、おとなしく与えてはくれるはずもない。
象骨は姿勢を屈ませた。降り積もる雪に、自身の切断された牙が触れるや否や、勢いよく振り上げる。
「くそっ!」
「きゃぁぁぁあ!」
「……くっ!」
雪崩のような雪塊が一同を襲った。魔女の後方にいたリアムとオリビア。あと数歩、馬が足を進ませていたら、その雪の波に薙ぎ倒されていたであろう。
火球を放ちつつも、魔女の片手は手綱をしっかりと捉え、重心をやや後方へと預けていた。思っていたよりも、馬が大きな動作を示し、少し予測とは外れた地であったが、なんとか蹄は平坦な雪を捉えることが出来たようだ。
(……健在という事か。憎たらしいものよ)
傷跡は、この様を見る者たちの心に刻まれたかのようであった。相手のこの動きが、想像の範囲内であったとはいえ、地面をこうも抉られては、たまったものではない。
身が骨と成らば、力も弱まるか。魔女のその淡い期待は、見事に打ち消された。
「……臆するな!進めぇ!」
象骨の背面。ラウラ聖堂院側から蛮声が流れてきた。その主は聖堂院に駐屯を任された、数少ない帝国兵らのものであった。
「……う、うおぉぉぉお!!!」
「待て!早まるな!」
大山脈の中腹。末端の地故に、猛獣も多い。この地を任される者の腕は、低いとは言えないだろう。しかし相手が相手である。結果など、誰もが容易に想像できた。
帝国兵であるという、誇りが彼を動かしたのであろうか。もしくは、このような化け物を対処できずにいた際の叱責を恐れたのであろうか。もはや、先頭にいた兵士が掲げるその理由など、誰にも知る由はない。
「ぐ、ぐぁぁぁぁぁぁあ!」
結果、魔女の警告を無視し、いきり立って飛び出した一人の兵士の槍は、相手に掠ることすら許されなった。
象骨が醸し出す瘴気が、兵士の翳した槍先を伝い、彼の身体に纏わりつき、体を侵食させてゆく。銀の兜から覗いていた白い肌は、たちまち茶褐色に変わり、蒸気を上げて水気を失った。
(……こちらも健在という訳か)
ガルネウスが放つ、緑色の瘴気。これに生物が触れてしまうと、たちまち身体が腐食してしまうのである。以前と変わらぬこの能力を前に、魔女も畏怖の念を抱かずにはいられない。
「う、うわぁぁぁぁあ!!」
兵士が手にしていた槍が静かに雪面に落ちた時、響いたのは、後に続こうと構えていた仲間らの叫びであった。
象骨は既に反転し、自身らを意識している。死を覚悟したに違いない。腰を抜かし、尻を地に着く寸前。今度は大きな爆音が彼らの足元に鳴り響き、後方へと吹き飛ばされた。
兵士が飛び出したのを見るや、魔女は既に、像骨を回り込み彼らの下へと馬を駆けだしていた。迷いこそあった。多少強引ではあるが、命を救ったのであった。
「邪魔だ、どけ!お前らでは話にならんのだ!」
魔女はある種の”過ち”を犯した。こちらの利を考えれば、凡人相手に……ましてや、帝国の者相手に魔法の存在を晒すべきではないからである。
帝国中枢の人間が魔法の存在を知れば、間違いなくその痕跡を辿りに来る。本来の魔女であれば、迷いなくこの者らの命を見捨てていたであろう。
この過失の原因は、長きを重ねた年月か。はたまた些細な”出会い”が彼女に影響を与え始めていたのかもしれない。
魔女が珍しく犯したこの”罪”は、一同の未来に大きく干渉しうる可能性があった。勿論、それが無事に訪れれば……という話ではあるが。
(……くそ)
後悔がよぎったのも束の間。相手は、キメラである。その余韻など与えてはくれない。
象骨は大きく両足を上げ、グリンデの乗る馬目掛けて振り下ろした。
ここはやはり、伝説の魔女である。少しの精神の乱れを見せようとも、隙は突かせない。背後で強い殺気を感じると同時に、手綱を握る手を強く引いていた。
「……くっ!」
間一髪のところで、馬を翻し、再び像骨の背後に回りこんだ。怒声があたりに響きわたる。
「リアム!行け!」
「……は、はい!」
得体のしれない化け物を前に、術なく立ち尽くしていた栗毛の青年も、すぐさま動きを成した。彼は手綱を引き、馬を反転させると、元来た道を引き返してゆく。
青年も薄々と理解していたのである。今、自身が加勢したところで何の力にも成らないという事を。そして、やはりあの槍先を使わずして、この化け物を封ずることはできないという事を。
しかし、魔女自身が扱えないという事は、如何にするか。
(もしもの時は、この身を犠牲にしてでも……)
青年の眉間には、深い谷間が生まれていた。後の事など、考えもない。だが、やるしかないのだ。あの像骨に、柄の折れた槍先を突き刺す他ないのだ。
(……いずれにせよ、時間が惜しい。やはり、ここは……)
「オリビアさん!」
青年はすれ違い様、白馬に跨る、未だ唖然とした表情の少女に声を送った。
「は、はい!」
名前しか呼ばれなかったが、少女も大まかに理解していた。
(あの時と同じ……。私は戦えない。けど……きっと私にしか出来ない事)
少女の馬も反転し、青年のそれを追った。速い、速い。白馬は瞬く間に追いつき、青年と少女の馬は横並びになった。
「リアムさん!オルドの町まで案内して下さい!そこからは独りで屋敷に向かいます!」
効率を考えればそれが正しい。オルドの町から屋敷までの道中も危険だが、爪がある。オルドの町まで案内し、町に着いてからは、ほんの数分でも自身の馬を休ませる。彼女が戻り次第、ここに向かえば良い。
「……分かりました!着いてきてください!」
一体誰に似たものか。窮地を目の当たりにして、少女の意識は水を得た乾地の如く蘇った。”出会い”をきっかけに、影響を受けた者は魔女だけではないのであろう。
相手は、かの白馬である。青年は、自身の馬が転ぶ寸前まで馬を加速させた。
(……小娘も行ったか)
何度この憎たらしい象骨に嚙ましたか。グリンデの手の平では、相変わらずの大きな火球を繰り出されていた。
――魔女、なのか……。魔女。魔女よ。
先程から脳内に、同じ言葉が木霊している。相手はどうやら、自身の存在を認知しており、こちら標的としている。吹き飛ばされた兵士らなど目も暮れず、ひたすらに追いかけてくる。
(時間を稼がねば。……馬が動き易い、広い場所が必要だ)
記憶を辿れば、この先に大きな雪原があるはずであった。槍が届くまでの間、持久戦に持ち込む
とならば、馬の体力を温存しなければならない。継続して同じ速度で走り続けることが出来る場所が必要であった。
空地を求める理由は他にもあった。
幸いにも、相手は象。本来、速度となれば、こちらの馬の方が分がある。だがしかし、どうにも気にかかるのだ。
(……この馬、動きが悪いな)
目の前で、得体のしれない化け物を前にしたら、当然なのかもしれない。むしろよく逃げ出そうとしないものだ。ただやはり、先ほどからどうにも脚の動きが大きく出過ぎる。思えば、自身を乗せてから、一日と経ってはいない。馬からすれば、居心地が悪いに決まっている。
(……下手な動きをするわけにはいかぬな)
魔女は火球を操り出し、再び、こちらを追う象骨の顔面に浴びせた。
(……来い。こっちだ)
挑発に煽られてか、象骨はより速度を上げて、魔女の乗る馬を追いかけ始めた。
(……ここなら時を稼げる)
見渡す限りの白。地吹雪が舞い、すべてを覆い隠している。
視界は奪われてはいるが、今まで遠くに見えていた、木々の輪郭はすっかりと姿を消している。暫くの間、邪魔するものは無さそうである。これからどう戦絵を描こうものか。純白の無地の画布が、魔女の眼前に姿を現した。
まずは槍先が届くまでの間、耐え抜く事だけを考えるのだ。術は後からでもよい。どちらにせよ、槍先がなければ、ガルネウスを鎮めることは出来ないであろう。今出来うる事は、これしかないのだ。
(馬よ。もう暫し、堪えておくれよ)
懸念はあるが、やるしかない。まずは中心地へ。そして円を描くように馬を。グリンデは相変わらず火球をぶつけ、象骨を誘くほかなかった。
――魔女、魔女よ。
(……無駄に名ばかり呼びおって。やかましい)
これは挑発に乗っていると言って良いのだろうか。象骨は導かれるがままに魔女の背を追ってゆく。だがやはり、どうにも様子がおかしい。過去のガルネウスを思い出す度、その疑問は強くなる一方である。戦略や知恵の一つ、持ち合わせている様子もないのだ。
マリーの時と違い、こちらに語り掛けている以上、確実に意識は目覚めている。先ほどの兵士らに向かっていった以上、敵意は持ち合わせているはずなのだが……。
(……なんだ、こやつ。ま、まさか!)
魔女の脳裏に一つの仮説が浮かんだ時、相手もふいに大きな動きを見せた。
象骨は後ろ脚二つで立ち上がり、前脚を上げ大きく仰け反った。
(……くそ。まずい!)
半ば熱が冷めていない平手で馬の尻を叩いたのも、もう遅い。象骨の両足は、今にも雪原に触れようものである。
「臆するな!走れ!走れ!」
慣れないその指示に、馬の首は右往左往。足跡は乱れ、なんの生き物によるそれかわからぬ印章を雪原に落としてゆく。
魔女が声を荒げた瞬間、大きな地響きが辺りに伝った。二つの距離は十分に保たれていた。まして馬を煽り駆けさせ、その距離を少し伸ばそうものであるのに、この威力である。
「ヒヒーン!」
「くそ!」
魔女の懸念は、予想よりも随分と早い形で姿を見せた。馬は強く嘶き、大きく脚を上げ仰け反った。主の存在などお構いなしである。
「……ぐっ」
脳内で火花が弾ける。すぐに魔女は、降り積もった雪の感触と冷たさを知った。”痛み”はそれだけではない。馬は無情にも、主の想いを知らず、地吹雪が成す霞の向こうへと消えていった。
――魔女。魔女よ。
地吹雪に霞む緑色の輪郭は、大きな地鳴り、そして”声”と共に、その濃さを増してゆく。
(……ふ、ふざけるなよ)
グリンデはすぐさま手の平を向け、靄に潜めるその対象に火球を放った。大きな爆音が鳴り響く。しかし拍子が止んだのは一瞬。すぐにその大きな律動は生まれてきた。
――魔女、魔女よ。
最早、愚痴の一つも浮かばない。まだ利き腕でないだけ良かった。どうやら右肩が外れてしまっているようだ。グリンデは、冷えて半ば感覚のない、もう片方の腕を頼りに立ち上がり、振り返り様に再び火球を繰り出す。雪原が一瞬明るみ、再び大きな爆音が鳴り響く。……しかし、これも一瞬。
――魔女よ……。
「ふざけるな!」
まだだ。まだやらなければならない事があるのだ。魔女の咆哮は、地吹雪が成す雪壁を破り、辺りに微かな木霊を産んだ。
しかし哀しきかな。巨体である"象"を前に、余りに無力であった。人が精一杯駆けても、たかが数秒で追いつかれる。ましてや、相手は腐食の瘴気を纏う存在である。
――魔女よ……。
その足音と"声"は強みを増してゆく。霞ももはや意味をなさなくなっている。こちらから数歩迎えば、すぐにその姿を拝むことが出来よう。
――魔女よ……。
到頭、頼りにしていた魔法の靄が意味を為さなくなった。地吹雪に混ざり、瘴気が風に煽られている。声と足音が、魔女の心臓を突いた。
――魔女よ、鎮めてくれ。
もはやグリンデはその巨体を前に、痛む右肩を押さえ、佇むばかりであった。