第29話◇木下優希の生活(本人視点)

文字数 4,871文字


 寝室に入り、ベッドに横たわる。そのまま右手を見る、微かに潮の匂い。海の匂いが右手の指から香る。右手の中指を舐める、翔子の匂い、翔子の味。そして、心地よい疲労感。

 心地よい? 疲労感が?
 私はそんな感想が浮かぶような、人格、性格だったか? 翔子の期待、望むことに応えた満足感……か?

 どうにも調子が狂う。翔子と付き合うようになってから感じる居心地の悪さ。しかし、それほど嫌じゃない。なんだろうな、これは。

 部屋の隅を見れば、翔子が用意した白い樫の木の棒がある。長さは1メートル20センチほど。わざわざホームセンターで買ってきて、置いてある。

 私は他人と同じ布団では寝られない。ひとりでなければ眠れないだけだ。
 あのとき、翔子がこのマンションに住むようになってからのこと。
 翔子が、私の寝ているベッドに潜りこんできた。いっしょに寝たいというのを断っていたことが不満だったのか。私を驚かせるつもりだったのか。私がぐっすり寝ているところに、こっそりと布団に入ってきた。

 私は反射的に翔子の腕を捻り上げて、右肩を脱臼させた。寝ぼけていたから、うっかり殺していたり、眼球に指を入れて失明させていたりする可能性もあった。無意識での侵入者に対する反撃行動。
 肩の脱臼ですんだのは、幸運だろう。

 そんなことがあったというのに、翔子はいまだにこのマンションで私と暮らしている。
 私を安全に起こすために、木の棒を用意して。朝、私が寝ていたら、翔子は木の棒で私を突っついて起こす。

『これなら、もうケガしないで優希をおこせるよ』

 そう言って笑っていた。バカ、なんだろうか。
 ベッドに横になったまま、手紙を読む。祖母からの手紙だ。中身はつまらない。返事を返す必要も無いだろう。

 私の父が祖母を殴ったり、蹴ったりしている。まとめれば、それだけの文章だ。
 だが、仕事のためならば、家族を犠牲にするのは当たり前という躾を父にしたのは、祖母だ。母や私が、父に殴られていてもなにも言わなかった祖母が、今更己が標的になったからと、助けてくれというのは、どういう了見なのか。

 株式会社の社長というのが、どれだけタイヘンなものかは知らんが、そのストレス発散に家族を殴るのは、あの家では昔から当然のことだ。
 殴られるのが嫌になった母は失踪して、行方不明。今はどこにいるのかも解らない。
 私も父に殴られるのが嫌で反撃した。ガラスの灰皿でこめかみを殴りつけ、倒れたところで鼻を蹴った。
 当時、小学5年生の私の腕力では殺せなかったが、1度の反撃で父は私に怯えるようになった。小学生の娘に怯えて、父は私に背中を見せないようになった。おかげで中学からは、マンションで一人暮らしになった。

 祖母も父に殴られるのが嫌なら、母のように失踪するか、私のように反撃して殴られないようにすればいい。
 便箋3枚分に己の境遇の悲惨さを、同情してほしいという心根が透けて見える文章で書き綴って、孫に送る。それで現状が変わるとでも?

 この手紙を送るのは、私では無く、警察か役所だろう。それでも、死人が出るようなことがなければ、民事不介入で警察は動かないだろうが。
 それに、父の仕事を第一に考える祖母ならば、なにがあっても警察にも役所にも行かないだろう。祖母は歳をとって老いているから、酒に酔ったあの父が力加減を間違えて、いつか祖母を殴り殺すのだろう。
 そして、そのように父を育てたのが祖母だから、死んだとしても自業自得というところか。

 これも私のせいと言えば、そうなのだろう。父も母も祖母も、私に怯えていた。
 母は私を溺愛していると、自己暗示をかけていたようだが、それが途切れたときに失踪した。
 父は怯えていることを認めたくなくて、暴力を振るう側になることで、精神を安定させようとした。
 祖母は直系の長男である父を大切にして、私も母も無視していた。それが今になって頼る相手が居なくなったから、孫の私にこんな手紙を送ってくる。

 人は私に怯える。理由はわからん。怯えた結果に本能で危険を回避しようとする者は、私に関わらないようにする。怯えることを認められない者は、私にちょっかいを出す。

 その中での例外、翔子。私に向かって、好きだとか、愛してるだとか、本気で言う。
 ただ、恋人では無いだろう。翔子は恋人だと思っているのかもしれないが。
 どうにも、私が教祖で翔子は熱心な信者という関係が、近い気がする。翔子が私に向ける視線と行動は、恋愛感情というよりは、崇拝なのではないか。

『優希がそばにいると、安心する。ほっとするの。私は、自信が無くて、いつも縮こまってた。引っ張ってくれる人がいるグループの中に混ざって、それで安心になろうとしてた。だから、優希を見てとても驚いた。優希には怖いものが無いんでしょう? 他人のことだけじゃ無くて、人からの評価も、人の作った常識も法も、どうでもいいなんて突き抜けたひとを初めて見た。そして、放って置けなくなった。自分の身を守るために、自分を襲う相手を殺す。そんな当たり前のことを、当たり前にできてしまう優希が、すごいと思った。でも、心配になった。私は優希に守って欲しいし、優希のことを守ってあげたい』

 これも愛の告白というものだろうか。どうにも、ずれているような気がするが。
 しかし、翔子のおかげで助かっているのは事実だ。高3から同棲を始めて、炊事、洗濯、掃除、家事は全部、翔子任せになった。今では私の服を選ぶのも翔子だ。私服など、丈夫であればいいだけのものだろうに。
 なにより、翔子は私専用の通訳として優秀だ。同じ国の同じ言語を知ってるだけでは、人と人は会話はできない。なにより私に話しかける人物が、まずいないし、私の発言を理解する人はさらに少ない。理解できた数少ない人は、私を不気味に感じるらしい。
 私の思考が異質、というのは解るが、それを直す気も無い。

『優希は、まともすぎるんだよ。生物として当たり前でまともなことは、人の社会では異常になるから。ただひとつの命として生きることは、人の群れの否定になるから、群れの中でしか生きられない人達は、優希が理解できなくて、怖いんだよ』

 私をこう評するのは、翔子だけだ。
 翔子が間にいる、それだけで高校ではさしたることも無く卒業し、今は大学でも上手くいっているようだ。
 私にはどうでもいい、理解しにくい人の感情的なこと、思惑、推察、思い込み、面子、体面、建前、本音、気持ち、自尊心、恐怖心など人の発言に含むものを、翔子は意訳して私に教えてくれる。私の発言を、角が立たないように翻訳して、相手に伝えることができる。
 結果、私は誤解されやすい天然だが、男気がある姉御、という人物評価、らしい。

 私は、私にとって鬱陶しい者に暴力をふるって排除する。邪魔にならなければ無視する。あとは、話しかけられたならば応えているだけなのだが。

 翔子と同級生に絡んできた男、あのときの酔っぱらいを潰したときも、翔子が警察に説明してくれたから、その後の面倒がなかった。その男は側頭部にハイキックを入れると動かなくなった。これを過剰防衛とか言うのはバカバカしい。

 目前の暴力に対抗するには暴力しかない。それも、自分が殺される前に必要だ。無抵抗に殺されてから、人権だなんだと形而上の概念を大事にする考え方の方が、意味不明で気持ち悪い。

 己が生きていくのに障害となるものは排除する。しかし、社会はそれを異常と呼ぶ。まぁ、生きていけなくなれば、死ぬだけだが。

 生きていけるうちは、生きる。生きていけなければ死ぬ。無理をしてまで、生き続ける意味も必要も無い。

 そんな簡単なことを、なぜ解りづらく難しくしているのだろうか。わざと難しいもののようにして、自分達で自分達を騙す。そしてそのことが、人間性であり、人の価値だという。まるで神を否定した、神のいない歪んだ宗教にしか見えない。
 これではまだ原始宗教や祖霊信仰の方が、自然で健全だ。

 自分達の作った社会やシステムを、大切立派と信じたい、思い込みたい。そして、犠牲となる生け贄の存在に、気がつきたくない、見たくない。そのための集団行動は集団催眠のようになり、集団狂信になる。実にくだらない。
 そのために費やす時間も体力も犠牲も、無駄にしか思えないのだが、な。

 しかし、私はなぜ、今も生きているのだろうか。20年も生きれば、世の中のことはだいたいわかる。つまらなく、窮屈で、鬱陶しい世界だ。既に飽きている。
 ただ純粋に生きることができない社会。自然に、世界に相対する己の命、それを見つめて守ろうとすることは、おかしなことだろうか。
 生きていくために、生きていくこととは無関係な雑事を大量にこなして、そのために疲労する人達のほうが気持ち悪い。その気持ち悪いことこそが、人間性や社会性と讃えられても、なぁ。

 翔子が持ってきたパンフレットを見る。
『猟友会のお知らせ』山の中で猟銃を持つ初老の男性が微笑んでいる。

『きっと、優希にはこういうのが合うと思う』

 そう言って笑顔で渡してきた。そして最近、翔子の作る食事には魚料理が多い。頭のついている魚は、その目がにらんできて怖いとか言っていたのに。

『練習しないと』

 魚をさばく練習らしい。努力の甲斐があって、魚の頭も落とせるようになり、ハラワタもとって3枚におろせるようになった。
 その間、ずっと魚料理に付き合わされたが。

 将来的には、私が仕留めた山鳥や鹿、猪などをさばけるようになるのが、目標らしい。
 私に猟銃の免許や使用許可がおりるかどうかも怪しいのだが。
 まぁ、この国がダメなら、銃の規制の甘い国に移住するのもありだろうか。
 
 猟で獲る物と、あとは畑での生活。そんな自然に恵まれた土地など、あるのだろうか。

 昔はそんな暮らしをしている人達がいた。今でもいるのかもしれないが、ほとんどの人達がそんな生活ができない程に、弱く衰えてしまっている。生物として、退化している。それが当たり前のことと、皆、思い込んでいる。本来ならば、生きていけない個体が生きている状況を、不気味に感じている。

 改めてパンフレットを見る。猟だけで生きていけるのなら、可能だろうか。
 翔子と2人で暮らすことは。ふたりきりで生きていくことは。

 山の中、森の中。ログハウスのような家。翔子とふたりの生活。翔子とふたりきりの暮らし。
 猟で獲る物と、足りないものは畑でも作るか。できれば、貨幣の必要の無い暮らし。貨幣経済そのものが、人の暮らしを苦しめて、その破綻が見え始めている。ゆえに、物々交換に回帰する。
 ヨーロッパでは、既に政府支援での物々交換支援市場が広まっている。運送とインターネットが発展すれば、間に現金を挟まない取引からは、消費税を取られることがないからだ。現金での売買にしなければ所得税も取られない。
 日本でも地方から、米、野菜が仮想通貨としての価値を見直されている。

 試してみるのもおもしろいかもしれない。そのためには、獲物の豊富な土地に、私が猟師として優秀でなければならないが。

 幸いにも、父は私を大学卒業まで金は出してくれる。これは、金をやるから近づくな、ということでもある。父はよほど私が怖いらしい。これで学ぶ時間はある。

 私が猪を仕留めて、翔子と血抜きして解体。それを翔子が料理する。
 さて、そんなことが上手くいくのか、少し調べてみるか。
 己の人生に飽きていたが、これはわずかに興味の湧く未来絵図だ。

 まったく翔子は…………おもしろい。ベタベタとくっついてきて、たまに鬱陶しいと感じることもあるが。
 しかし、私に尽くすことのなにが楽しいのだろうか。

 
 
 
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登場人物紹介

シズネ。和国軍人として徴兵された少女。和国再生施設の防衛用人型兵器のパイロット。平成時代の日本人、高校二年生、楠静香。特技、お菓子作り。趣味、映画鑑賞。

ウキネ。和国軍人、乙一級。和国再生施設、軍司令。クローン再生を繰り返し三百年、軍人として務め続ける。シズネの上官。

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