文字数 9,342文字

「プリフィクスで、ごめんね。本当は夜お誘いしたかったんだけど」 
 上野は、恐縮しているのか、えびのムースが真ん中に据えられている前菜が出てくると言った。
「上野さん、今日のランチの代金もバイト代に含まれているのなら、もっと安いのでいいから、その分現金で欲しかったです」
 また皮肉だ。私の心の中には、皮肉生産工場があり、次から次へと生産されるので、早いとこ出荷しないことには、在庫過多になる。皮肉は、このようにして放出される。
 上野は、こういう嫌味を聞き流す方法を会得しているらしい。顔色一つ変えず、まるで私が一切発言などしなかったように、自分のその前の会話と繋げていく。
「プリフィクスと言っても、メインは六つから選べるし、デザートは何種類でも良いから、気に入ってるの」
 会社のすぐ近くにあるフレンチのこの店は。何年も横目で見つつ、通りすぎてきた場所。上野が彼方のことで、どうしてもお礼がしたいと言うので、渋々という表情を作りつつ、ついてきた。本当は、えびのムースの段階で、すでに「来てよかった」と満足できるほど、美味しかった。でも、決して褒めない。口の中は、舌は、大喜びなのに。
「こんなものは、いつでも食べてる」
 というふりをしている。上野は、何度も来たことがあるから、メニューの構成も知っているのだろう。メイン料理の横に、何品か値段が書いてある。他のものより値段が張るので、追加の料金が必要らしい。私は、そんなに好きでもないのに、わざと千円プラスと明記されている子羊のローストを選ぶ。上野の前で、このような態度をとっていると、なんだか自分がものすごく下卑た人間に思えてくるのは、何故だろう。私が子羊を指さした時も、
「あ、それ私も美味しそうだなと思ってた。私も子羊にしよう」
 と声をあげた。二人で、プラス二千円。予算オーバーではないのか。自分がしでかしておきながら、上野の財布が心配になる。彼方にだって、お金はかかるだろうし、保育園代だって、払わなければいけないのに。
 食事中は、当たり障りのない話題を紡ぎ、私はほぼ黙っていた。口を開けば心ない言葉が飛び出してきそうだったからだ。私にだって若干のデリカシーは、ある。ご馳走になっておいて、いくらなんでもそれは失礼。
「そうだ、彼方から渡しておいてって、頼まれていたんだ」
 上野は、小さな封筒に入った紙を差し出してきた。手紙か。彼方が、私に宛てて書いたのか。開けてみるが、読めない。習いたてなのだろう。ひらがなだけで綴られていて、おまけにクレヨン描きなので、判別がなおさらに難しい。さらには、反転している文字もあり、読もうにも無理だった。
「あー、ごめんなさい水上さん、これじゃ読めないわね。私が、代読します」
 上野は、これが読めるのか。どうしてだ。母親と言うものは、そんな超能力も持ち合わせているのか。単純に驚くばかりだ。
 あの女は、私が小学一年生の時に書いた作文を見せた時、
「へたくそな字だね。それに、当たり前のことを当たり前に書いてるよ。なんのことはない」
 と、けなし放題。
 深く傷ついた私は、それ以来一切の作文を見せるのをやめてしまったものだ。多分。あの女には、一生懸命に書いたけれど文字とはほど遠い線を読もうと努力すらしたことなどなかっただろう。
 日々私は、こうしてちょっとしたことがきっかけとなり、過去へ引き戻される。ほぼ全てが辛い時のフラッシュバックだから、もうとうに大人になっているというのに、あの時と同じように震え、落胆し、しばらくは放心状態になってしまう。まるで、少女の私が、大人の私を包囲してしまうかのようだ。
「えーっと、みーやん、このあいだはありがとう。にかいもきてくれて ぼくはほんとうにうれしいです。ままはもうきてくれないっていってるけど、またくるよね。きょうもたかぎせんせいとみーやんかわいいねってはなしてました」
 生まれてこの方、ラブレターなどもらったことはない。この手紙は、だから、それに匹敵する位の衝撃だった。そういえば、単なる手紙でさえ十年位前にクラスメイトが義理でくれた年賀状以来だ。私のことなど、友達とも思っていないくせに白々しい、と思い、返事を出さずにいたら翌年から一枚も来なくなった。
 彼方と高木の顔が、交互に浮かんだ。私のいない所で、私のことを話題にする。それも悪口ではなく、むしろ褒め言葉によって。
 まずい。
 涙が。私にも、涙腺があったのか。退化してなくなったかと思っていたのに、まだ機能しているとは。でも、こんなことで泣くわけにはいかない。上野に弱味を見せることになる。何より、みっともない。ここは、品の良いフレンチレストラン。
「水上さん、大変。涙が表面張力してるわ。うわ。もう、どうやったって無理。決壊させた方がいい」
 決壊。変なことを言う、と気持ちが油断してしまい、両目からはらはらと涙の粒が落ちた。それを見た上野は、何でもないことのように、バッグからハンカチを出して差し出してきた。
 何か二頭身のキャラクターがプリントされている。彼方のを間違えて持って来た、と見た。上野は、出した後に気がつきつつも、動じない。と言うより、そんな事は小さい事として処理しているのだろう。見た目より、相当に大雑把な性格らしい。上野の部屋や、いびつな飛行機のアップリケを思い出していた。
 彼方は、きっとよく泣くのだろう。転んでは涙を流し、まだ眠くないと言ってはべそをかき、お菓子を買って、と泣き叫ぶ。上野にとって、人が泣くのは、毎日のこと。だから、私の感情の昂ぶりを見ても、なんとも思わないのだろうか。
 私は今、自分の一番見られたくはない恥部をさらけ出し、激しく動揺している。取り返しのつかない失敗をしたと、嘆いている。
 しかし、上野はどうだ。そんな私を見ても、あまり気に留めていないようだ。涙などという無用の長物を、不覚にも流してしまった大失態は、上野にとってはどうでも良いことなのか。
 思わず前から聞きたかったことを、尋ねてみる気になった。
「上野さん、どうして私に構うんですか。社内にはもっと親しみやすい部下がいるでしょうに」
 上野は、考えるしぐさも見せず、
「そうかしら、いたかしら」
 と、かわした。
「それに知ってますでしょ、私が社内で嫌われていること」
「そうなの? 気づかなかったわ」
 嘘つけ。
「上野さんだって、私のこと嫌いなはずですよ。彼方くんの迎えにお金要求したりするし」
「え、それ嫌う原因になるの? 迎えに行ってくれて助かったのに」
 この人は、馬鹿なのか。どうして、微妙にはぐらかす。真っ向から嫌いと言ってくれた方が、どれほど気が楽か。
「それに」
 上野は、言葉を切った。
「少なくとも彼方は、水上さんのこと好きよ。この手紙も三日がかり」
「こんな読めもしないものもらっても、迷惑です。後で自分で読もうとしても、判読できないし」
 上野は、急にものすごく悲しい顔つきになった。
「そんなこと言わないで。そんなのは、辛すぎるから」
 なんだ、このありきたりの反応は。なんだかむやみやたらに腹が立ってきた。こんな人生順風満帆にやって来た人間に、何がわかるというのだろう。
 悲しみを、そのカテゴリーに入れることさえ許されず、自分の存在を極力目立たなくさせなくてはいけない。少しでも自己主張すると足蹴にされる日々。私の本当の心は、日銀の金庫に辿り着くドアよりも、堅く堅くロックされて幾重にも閉ざされている。私は、かつて誰にも本心を見せたことが、ない。
 こういう幸せ感に満ちあふれた人種が、一番気に入らない。懲らしめるつもりで、言葉を並べる。
「上野さん、いいですね。幸せすぎて、人を疑うことも知らないし、世の中は悪意に満ちていることすら気づかないんですね、ある種鈍感なんじゃないですか」
 上野は、きょとんとした顔になり、全ての動きを止めた。
 本当に、理解力のない人だ。これで、よく人の上に立っていられる。このように言うことで、私は拒絶しているというサインであることがわからないのか。
 もうこうなったら、言ってやる。言えばいくらなんでも、少しは態度を変えるだろう。
「実は私ですね、母親に邪魔者扱いされて育ってるんですよ。生みたくなかったって。だから、人間全てが信じられないんです」
 沈黙。
 長い。
 長すぎる。計っておけばよかった。上野、いつまで黙っている気なのだろうか。やはり、上司に向かって言うべきではなかったか。いくら勤務時間外と言えど、内容もさながら攻撃的な言い方は、まずかったかもしれない。私の中の胸算用が、動き出す。下手すれば、解雇か。今クビになると、困る。貯金は、ゼロだ。ここは、不本意ながら、下手に出よう。それくらいの社会性は、持ち合わせている。無礼を詫びようとした時、上野の目の奥に変化が生じた。ゆらゆらと所在なげに動いていた二つの瞳は、やがて妙な動きを止めた。
「お父さんは・・・・・」
「知りません、最初からいませんでした。多分あの女が私を身ごもったんで、逃げたんでしょう。たまに何人か男が出入りしていたけど、父親ではなかったと思います」
 上野は、ずっと私の目を見ていた。
「水上さん、あの女って呼んでいるのね、お母さんのこと。私は、MZ」 
 上野、何を言っているのだ。MZって、何? 何の話かわからないが、上野が怒ってしまったのかどうか探るほうが重要だったので、聞き返すタイミングを逸した。
「ふふ、モンスターゾンビの頭文字よ」
「モンスターゾンビ・・・・」
「いつからそう呼ぶようになったんだっけなー。忘れたけど、私にとって母親とは、人間でもなければ女でもなく、この世のものではないモンスターやゾンビと同じ扱いだったから」
 笑っている。しなやかに。
「けれど水上さん、すごいわね」
 何がだ。
 ウェイトレスが、コーヒーのおかわりを注ぎに来る。一瞬の静寂。茶色い液体が、白いカップに流れ落ち、私の心も同じように波紋を作った。肯定的な表現を使われると、とっさに身構える癖は、やめたい。疲れる。けれども、通報直後に急いで防火服を着る消防士のように防御しないと、精神状態が危なくなってしまうのだからしかたがない。
「こうやってちゃんとそのことを、人に言うことができるから」
 反論しようと、息を吸った途端、上野は続きを話し出す。
「私なんて、ひた隠しにしていたわよ。親しい友達以外にはね。今も、水上さんが言ってくれたので、ここまで心を開いてくれたのに、私が何食わぬ顔で聞いていたら、いくらなんでも失礼と思っただけ」
 心を開いて、だと。これ以上入ってくるな、のつもりで口にしたのだ。これを言えば、もう詮索されないと思ってのこと。ただ、上野の見立ては間違っている。このことを人に話したのは、初めて。自分でもどうして言いだしたのか、不可解。
「勝手に決めないでくださいよ。私だってこんなこと話したの、今が初めてですよ」
 上野は、意外そうな表情を見せるが、そのまま黙って私の次の出方を待っている。
「上野さん・・・幸せな子供時代を過ごしたんじゃないんですか。いかにも、そう見えますけど」
 上野は、ぶるんぶるんと笑いながら首を振り、肩までの髪が激しく揺れた。
「違うー。私、虐待サバイバーなのよー」
「嘘でしょう。上野さん、情報に踊らされて、勘違いしてるんじゃないですか。虐待された人間は、子供をまともに育てることなんて不可能ですよ」 
 本当に、無理だと思う。同じことを繰り返してしまう人の話を、よく読む。愛し方を教わっていないのに、一体どうやって慈しめば良いというのか。泣いたらうるさい! と大声で制し、抱きついたらあっちへ行け! と突き飛ばす。
 私に残った最後の良心は、私みたいな悲しくかわいそうな人間を複製しないこと。だから、絶対に子供を生んではならない。
 早く早く閉経して、その可能性をゼロにしたいのだ。
 上野と彼方が一緒にいるところは、あまり見たことがないが、それぞれが語るお互いのことは、愛に満ちているし信頼関係が確立されている。だからこそ私は、愛されている彼方にジェラシーを感じ、幸せに育ち何の迷いも感じずに出産した上野に怒りにも似た妬みを感じていたのだ。
 上野は少し笑いながら、
「そうかもしれない。でも、多分違う。私、彼方を生む時に、すごい覚悟をしたから」
「覚悟?」
「そうよ、絶対に絶対に虐待しないってね。思い切り愛してあげようって」
 そんなことが、できるものなのか。できるわけがない、と思ってしまう。
「それと」
 上野は、窓の外を見つめて言葉を切った。何人かのスーツ姿の男が、上着を脱いで、片手に抱えつつ歩いている。もう、夏はすぐそこまで来ているのだ。
「たとえ虐待されても、明るくやさしく生きられるんだって、証明したかった」
 おめでたい人だ。
 百歩譲って、上野は虐待は受けていたとしよう。けれども、こんなふうに前向きな気持ちを持てるのであれば軽症に違いない。
「うちは父はいたんだけど、母が私をいじめ始めると、怒鳴ったり物を投げたりするので、逃げ出して外に行っちゃったりしたの」
 父親がいても、そんなことがあるのか。私は、父親がいてくれれば、かばってくれるのに、といつも思っていたのだが。いないのと、いるのに機能していない場合。
 どちらが辛いか。寂しいか。やるせないか。切ないか。心細いか。悲しいか。耐えがたいか。
「上野さん、自殺とか考えなかったんですか」
 単純に好奇心で、尋ねてみる。私の場合、何度も試みたが無理だった。ためらい傷だらけの左腕。夏でも、長袖は必須。はずみでめくりあがってしまわないよう、袖口は絶対にゴム入りの服しか着られない。 一度本当に頭に来て、
「もう! 自殺してやる!」
 と叫んだことがある。少しはおののくかと思ったら、ぴしゃり。
「止めてよ! せっかく痛い思いして生んでやったのに」
 と来た。さらに、
「もうこれ以上恥かきも出したくないし」
 とつけ加えた。
 一人目の恥かきは、子供が出来て逃げ出した父親のことだろう。
「一度も考えなかったわよ。だって、あんな人、MZね、あんなののせいで命落とすなんてもったいないと思ったから」 
 そういうものか。
 強いのか。上野は、ものすごく強いのだろうか。私は、最終的に死ぬ勇気さえ持ち合わせていないのだ。どういうことが、強いのか。実は、それもよくわかっていない。
 上野は、この話を中断するのはまずいと判断したのか、会社に連絡して私達の戻りが遅くなる旨伝えた。こういう采配が、振るえる。私と少ししか違わないのに。
 私は。上野の年齢になっても、そんな地位まで上りつめているとはとうてい思えない、とまた考える。
死なないで、細いロープの上を渡るのが、精一杯なのだから。
 上野は、まるで冗談でも言うように、
「すごく不謹慎だけど、実は生まれた時に、なんらかのアクシデントがあって、病院で取り違えられていて、MZと血が繋がっていないといいなと思っているのよ」
 と笑った。
「一生懸命彼方を育てているけれど、いつその血が噴出するか、怖くてたまらなくなることは、あるわね」
 血。抗えないDNA。上野は、そんなふうに思っていたのか。それでも私とは逆に、子供を持つという選択をした。その壮絶な決意は、どこから来るのか。
 私はなぜか、あの女からされたことを、上野に語っていた。それは、安心感。
「そうは言っても、あなたを生んでくれた親なんだから」
 そんな忠告は、絶対に言わないだろう。私は誰にも言ったことはないけれど、インターネットや雑誌の身の上相談の回答で、そのような反応を度々見た。それが、雑誌だった場合、逆上して壁に向かって投げつけたこともある。
 何も、わかっていない。そんなのは、やられたことのない奴のたわごと。やられてみろ。罵られてみろ。そんな悠長なことは、一切言っていられなくなるから。
 黙って聞いてくれた上野は、ただ一言、
「それは辛かったね」
 とだけ言った。私の心のくぼみにスポッとおさまったその言葉。過度に同情するわけでもなく、かと言って変に励ますわけでなく。自然に、そのままに。言葉の意味通り。
 私は、泣いてしまう。ランチタイムのピークが去り、人がまばらになったレストランで。上野が、もう一度キャラクターのハンカチを差し出す。
「主人は、とっても良い人で、主人がいたからこそ彼方を普通に育てられるのだと感謝もしているけれど」
 上野は、話し続ける。
「彼は、幸せに育ったがゆえに、ちょっと無神経なのよね。最近ようやくMZのひどさがわかったみたいで、言い続けてきて良かったーと思ったのも束の間、キミも気をつけたほうがいいよ、同じ血が流れているんだから、と言われた時には、崖から突き落とされた気分だったわ」
 そうか。無神経。無邪気と紙一重の。
 破壊力は大きくとも、言っている本人が悪意のない場合は、反論しにくいかもしれない。私ならもっとひどい切り返しを勢いつけて発射し、一刺ししてしまうだろう。それは、今までに何度も経験済み。けれど、上野にとっては一生を共にしようと思ったパートナーで、彼方の父親でもある。それは、辛いかも。
 人の気持ちに寄り添っている自分に驚く。そんなことは無用で、ばかばかしいとずっと思ってきたし、私の気持ちは誰もわかってくれないのに、それでは不公平だとも思ってきた。それなのに、どうしてこんな感情を抱くのか。混乱。
 私はあの女にきつくつねられて、今でも爪あとの残っている左手の甲を見る。同時に銭湯の戸で挟んで少し変形している中指も。どんなに体調がよく、気分が優れていても、左手を見てしまえば、それが引き金となり、私は幸せになってはいけないのだと深い深い心の闇に落ちて行ってしまう。
 この痣は何のためだ。もう、充分仕打ちは受けてはいないか。そうだ。私には、いいことなんて起こりえないのだ。起こるわけがない。たとえ起こったとしても、あの女が邪魔しに来るに違いない。それが、私の人生。
 今、それを覆しそうなできごとが展開されている。確かに。けれど、ここで心を開いては、ダメだ。危険。上野は、私を騙しているかもしれない。私の生い立ちを聞き出し今後の業務に都合の良いように利用する可能性だってある。
「さっき彼方の手紙を読んだあとの水上さんの言葉に、私、泣きそうになっちゃった」
「どういうことですか」
「水上さんが、こんな手紙読めないって言ったじゃない? それMZがいかにも小さな私に言いそうなことだったの。いえ、実際に言われた。こんなミミズみたいな字書いて、読めやしない。一体誰に似たんだろ、この下手糞な字、だったっけな」
 だからか。少し震えた声で、
「そんなこと言わないで」
 と言ったのか。彼方がかわいそうだから泣きそうになったのかと思っていたのだが、自分と同一視していたのか。
「そういうようなこと言われた時、水上さんどうしてた? 私は唇を噛んで我慢。嵐が過ぎ去るのをひたすら待ってた。よく唇切れちゃった。泣くとまた怒られるからね」
 同じだ。世の中には、どれ位の割合で、こんな悪魔のような親がいるのだろう。
 子供を殺してしまう親の何十倍、何百倍も、心ない言葉を吐く怪物が存在するのかもしれない。まさにモンスターゾンビ。上野のネーミングの妙に、感心してしまう。       
「水上さんも、ずっとずっとそんな気持ちを隠して生きてきたんだね。でも、ちょびっとずつでも、外に出すと良いよ、誰かれ構わず言うのは、私も怖いけど、わかってくれる人は必ずいるから」
 私は、横を向く。そんなことが、あるわけないではないか。そうであったら私はこの年まで、こんな気持ちで生きる必要はない。
 隠して隠して、仮面を二枚、いや三枚位つけて、
「私は何を言われても傷つきません。傷つけられるものならやってみろ」
 というくらいの武装をしなければ、私はまっすぐに立っていることもできない。
「でも、それにはもうちょっとやさしい言葉を使った方がいいけどね」
 さりげなく言った上野の言葉が、私のもう一つの心の窪みにはまった。
 私に欠けていたのは、やさしい言葉使い。そうなのか。
 以前真弓にも、そう言われたような気もする。その時は、本気で頭に来て、さらにひどい罵りをぶつけた。友達のいない長く暗い放課後、私は本ばかりを読んでいたので、ボキャブラリーだけは豊富なのだ。私が放つ言葉の毒矢で、何度相手がくずおれたことだろう。息をのみ絶句するのを見る度に「勝った」と悦に入る。しかしそれは、あの女がいつも私にやっていたこと。勝ち負けの前に、こんなことして何が楽しいのか、という原始的な疑問も同時に抱えていた。
「そうはおっしゃいますけど、上野さん」
 反論してみる。
「ご自分だって隠しているでしょ。いかにも幸せそうにふるまって。私、今まで騙されてた気分です」
「そう言われると、ちょいと辛いけど。でも彼方がいるから、私は前の自分とは違うしMZと同じ道は選ばないって決めたから、すごくラクなの」
「そんなもんですか」
「そうよ、そんなもんなのよ。それに親しいニ、三人の友達は理解してくれるから」
「・・・でも、今の上野さんの言葉信じて子供生んで、やっぱり虐待しちゃったら、どうするんです?」
 上野は、突然座りなおし、私の目を深く覗き込んできた。
「水上さん。今のままで、子供生んじゃダメだよ。それはダメダメ。絶対に連鎖しちゃうから」
 何を言っているのだ、この女。今子供生め、みたいなことを言ったではないか。
「そうじゃなくて、水上さんが愛せる人を見つけて、人から親切にされたらありがとうが言えるくらいの心の余裕が出来て、そして子供を抱いている自分を想像した時、その顔が笑顔になったらね。きっと楽しい毎日になるから」
「じゃ、ダメだ」
 即座に切り返す。その速さに、上野は思わず笑い、
「水上さんがママになるの見てみたいー」
 と加えた。
「水上さんなら、きっといいお母さんになるわよ」
 もしも上野が、こんな通り一辺倒なことを言ったなら、私はもうこの話題は打ち切っただろう。
「見てみたい」
 とは、なんだかそそられる表現。ついぞ思い描いたことのなかった母としての自分の姿。ちょっとだけ、想像してみる。私も、その姿を見てみたい。
 だけど。相手が、いないのである。ここまで毒を撒き散らしてきた私には、そんな男は一人もいないのだ。一人も。
 三杯目のコーヒーも底をつき、店はディナータイムの仕込を始めていた。本来なら追い出されるのだろうが、上野が常連なので、少し甘くされているようだ。私には、そんな店すら一軒もない。
 

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