夢を叶える処

文字数 3,686文字

 金木犀の匂いはどこへ行っても同じだということに、落胆したかった。
 どこか懐かしい匂いに落ち着いてしまって、悔しい。せっかく家から遠く離れた金沢の地へ来たというのに。
 気温は下がり夏の空気も過ぎ去って、季節はすっかり秋へと移行した。空は薄曇りだけれど、この土地ではこれが日常らしい。雨も多いと聞いていたから、降っていないだけましだろう。
 私は駅を出て、香林坊の方へと進む。観光地だからバスを使うのが移動手段として便利だとは知っていたけれど、今日は自分の速度で街を見て歩きたかった。
 車通りの多い道を進み、兼六園を沿うように交差点で曲がる。
 まずは土地の神様へ挨拶に行こうと尾山神社へと向かう道中、金木犀の匂いが鼻腔をくすぐった。
 サンダーバードに乗って二時間と少し。同じ日本で、しかも本州であるのだから、金木犀が咲いていたとしても、ましてやそれが同じ匂いを発していたとしても何らおかしくはないことなのだけれど、今の私の浮いた気分を少し地面へ戻すくらいの効果はあった。
 あー、と嘆くように肺の中の空気の塊を地面に吐き出した。
 別に、金木犀の匂いが嫌いだというわけじゃない。むしろあの甘い匂いは好きだ。だからって、いきなりこの金沢は故郷と地続きの場所だと実感させないで欲しい。
 そうしている内に、目的地へと辿り着く。気分を上げるために鳥居を仰ぎ見れば、向こうにステンドグラスの嵌まった建物が見える。
 鳥居の向こうに、洋風のステンドグラス。そのまた向こうには境内のある社が見える。
 洋と和のコラボした神社は、ミスマッチというわけではなく周囲に馴染んでいて、どこか異世界めいている。
 ここは、故郷とは違うのだ。
 私は気分を取り戻し、鳥居をくぐって石段を上がった。
 平日の午前中だから、人は多くない。観光客であろう外国の方と、修学旅行生か遠足の学生が数人。手水舎で身を清めて、真っ直ぐに石畳を進む。
 小銭ばかりの財布から、十五円を手に取った。私は縁が欲しい。十分な縁が欲しかったから、十五円。もしも願いが叶ったらお礼参りで奮発するので、今はこれでお願いします。
 二度手を叩き、神を呼ぶ。
 目を瞑れば、世界は黒になる。
 輝きと熱ばかりの籠った夢を胸に抱いて、脳裡で発する言葉はまずは礼儀正しく挨拶から。
 はじめまして、私は関西の方から来ました長居一縷と申します。
 次に願いを掛けて、唱えようとしたけれど……言葉が詰まる。
 私には夢がある。
 文字を書き、物語を紡ぐことを生業として生きていきたい。
 けれどその夢は、母親の言葉により幾度か揺らいでいた。
「普通じゃない生き方は、大変よ」
 明確な肯定や否定ではなかったから、反発さえもまともに出来ずにやるせない気持ちだけが胸に残った。ただ、良くは思っていないことだけはひしひしと感じた。
 私の家は、絵に描いたような普通の家だ。父親はサラリーマンで、母親は専業主婦。姉は手堅い大企業でOLをしている。末の娘である私は、高校のときにそう言われたからシナリオを学べる学校ではなく総合大学へと入学した。総合大学ならば、色々なことも学べるし、他にいわゆる《普通》なやりたいことも見付けられるかもしれない。そう思って。
 しかし大学を卒業しどれだけ時間が経っても、私の胸には変わらずくすぶり続ける夢がある。
「普通が一番いいのよ」
 《普通》というものが、私には分からない。
 私は人の言う《普通》に魅力を感じなかった。
 だから、やれるところまでやってみようと思った。《普通》ではないかもしれないけれど。
 ただフリーターでフラフラしている私には、言葉で責められなくとも親の目があると心苦しかったから、故郷を出ることにした。自由になりたかった。言葉は、自由と余裕がないと生まれないから。
 いくつか候補はあったものの、東京という土地は以前行ったときに目まぐるしくて、息もつけなかったから、子どもの頃に旅行できたこともあるここ金沢に落ち着いた。理由は、なんとなく。息がしやすい、気がした。
 願い事は、《夢が叶いますように》がまず頭に浮かんだが違和感があった。次に《才能を下さい》が浮かんだけれど、それも違う。
 きっと願いたいのはそれじゃない。
(私のことを見守っていてください)
 誰も見てくれないから、せめて神様、あなただけは。私の努力を見ていてください。私は私の力で、出来るところまで頑張るから。
 手を合わせて、顔を上げる。
 すると願いに応じるように金木犀の匂いがした。
 今度は、嫌な匂いではなかった。
 ステンドグラスを見て、再び鳥居をくぐる。さて、挨拶は済んだ。ならば次にするのは、腹ごしらえである!……いや、私が、食べることが好きなだけなんだけども。
 そんなわけで、少し駅の方に戻って近江町市場へと足を伸ばす。
 市場には活気があって、店先のおじさんが「一つどう?」とホタテを勧める。心惹かれながらも、まずは市場を一周して食べるものを吟味しよう。
 のどぐろの開き、色んな種類の魚、カニ、野菜やフルーツも置いている。
 海鮮丼に、殻のついたままの生ウニ、焼いたホタテも金沢おでんも食べられるらしい。
 小銭の数を数えて、やはり入り口の店へと戻って二つで七百円の生ホタテをいただくことにする。本当は海鮮丼やおでんも食べたかったが、ここで散財してはいけないのだ。
「おじさーん、一つお願いします!」
 私の顔を覚えていたのであろうおじさんは、「よしきた」と笑顔で頷いて、一際大きなホタテを簡易のテーブルに置いてくれた。
 乳白色で肉厚の身。醤油を垂らして口に入れれば、普段食べるホタテとは違うクリーミーな味に舌鼓をうつ。
 生って、こんなに美味しいんだ。
 二つのホタテを存分に味わって、私は市場を後にする。
 ここ金沢は、食の町であり、文豪の地であり、アートの街でもある。
 室生犀星。
 泉鏡花。
 徳田秋聲。
 数々の文豪の出身地がここであることも、私がここへ決めた理由の一つである。ここならば、書けるに違いないと思ったのだ。
 石川四高記念文化交流館は趣のある木造建築の建物だった。
 ここには、かつて文豪も来たかも知れない。
 歴史と記憶をなぞるように、想像しながら廊下を歩く。
 外へ出ると道中に金箔屋さんを見付け、ソフトクリームを売っていた。
 ……金箔ソフトは、外せないよね!
 迷わず千円札を差し出して、ぺろんと金箔の一枚乗ったソフトクリームをいただくことにした。
 二十一世紀美術館に立ち寄ると、チケットの列がはてしなく長かったから今日は無料スペースだけ楽しむことにする。
 お客さんは多いようだったけれど、タレルの部屋は意外とすいていた。ぽっかりと天井が空いていて、空が切り取られていた。薄曇りの間に、青空が見え隠れする。部屋をくるると一周すると、太陽が見えてその周りに丸く虹が出ていた。
 綺麗なその円に、これからの道行きの明るさが予感されて、胸が高鳴った。スマートフォンを構えて、目の前に切り取られた空を、もう一度切り取るように写真を撮る。
 仕方ないから、家族のLINEに『着いた』という言葉と共にその写真を添えた。
 美術館を出て、今日の最終地点へと向かう。
 アプリで地図を確認しながら進むと、川へと辿り着く。浅野川というらしい。私の住んでいた街にこんな川は無かったから、新鮮だ。
 橋を渡ると、ガラス張りで白い壁紙の建物があった。ガラス越しに、水引に目が留まる。細い水引が幾重にも束ねられて、赤い花の形を作る。
 目に留まってしまったら、一度手に取るしかない。運命とかそういうのがあるなら、これはそういう類いのものだ。今手に入れなければ後悔するし、遅かれ早かれ自らの物になるに違いない。
 きっと、私に必要な物だ。
 ここは工房を兼ねた店らしい。可愛らしい髪留めを迷い無くレジへと持っていく。値段を見ていなかったけれど、そこまで高く無かったから安心した。
 目的地へと着く。小さな十部屋ほどの二階建てのアパートだ。くすんだ壁に年季を感じたが、中はリフォームされているので綺麗だ。
 駅前の不動産で貰っていた鍵を差し、扉を開ける。
 まだ家具のない、殺風景な部屋。引越し屋さんは明日来るはずだから、今日はこの殺風景な部屋と仲良くしよう。
 洗面所でうがい手洗いをして、鏡の前で耳の下で髪をくくり、鏡越しの自分によく見える位置に水引の髪留めをつける。
 よし、かわいい。私じゃなく、水引のこの髪留めが。私の顔は、垢抜けて無くてどこか不安そうだけど、多分大丈夫。髪留めも似合っているし。
 軽い足取りで外に面した窓へ。
 堤防の向こうには、川が広がっている。
 一日回って分かったのは、この土地は故郷のように落ち着くけれど、故郷とは明らかに違う場所で、私の心を満たしてくれる場所だった。
 川の見える小さなアパートの二階の一室。
 私はここで、夢を叶える。
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