第33話 母親の本能

文字数 1,235文字

優和は自分の感情に抗う、もう一つの感情と葛藤していた。
そのもう一つの感情は自分がいい人でいたいという良心ではなかった。
それはまるでいい母親でいたいというような抗いたくても簡単には抗えないものだった。
優和はある意味良心を無視することには慣れていた。
ただこの母性 -母親の本能ともいうべき感情の無視の仕方は分からなかった。



優和はどうしても明美が許せなかった。
許せないはずだった。
でもそれ以上に、母性は優しく気持ちを落ち着かせてきた。
まるで「いま自分がすべきことはもっと他にあるんじゃない?」とでもいうかのようにそれは極めて説得的だった。
しかもそれは「子どもは誰よりもあなたの愛を求めている」とでもいうかのように、誰よりも優和のことを知っていた。


優和は母親になってから、何度もその母性に助けられていることを自覚していた。
そしてまだ一度もその母性に抗えたことがなかった。
目の前にいる明美はこの母性と言う母親の感情を知っているのだろうか。
優和は明美のことを今までとは違った目で見ていたのだった。


母親になってすぐにわかることは、子どもから無償の愛を受けることで、自分の心が愛で満たされることだ。
愛し、どんなに愛しても求めてくれる連鎖に優和は救われた。
でも優和が母親になって受けた恩恵はそれだけじゃなかった。
いい母親でいようという感情が悪意を浄化してくれたのだ。
もしこれに抗ってしまったら、本当にどうなってしまうか分からなかった。
母親になって自分が今までの自分とは違うという自覚はあったが、それだけにこの本能に抗ったら、とんでもないことになってしまうと本能的に気づいていた。
その恐れから、絶対に優和はその禁忌を犯そうとは思わなかった。
そして今回もその恐れを越える程ではなかったといえばそうだった。
自分が自分ではなくなる。
それは母親であるという意味であれば、後悔はしないような気がした。
そうでない場合は、大体後悔するようなことしかないような気がした。



優和は確かに明美に腹は立てていた。
それも勇を傷つけようとしたのだから、到底許せるものではなかった。
ただ実際傷つけたわけではなかった。
優和は目の前にいる同じ母親となる明美を見た。
もう母親として親近感さえも感じていた。





「正人の問題について教えてほしい」





優和は同じ母親として共感さえ覚えていた明美が、急によそよそしく感じられた。
どうしてこんな質問をするのか、その質問の意図が全く分からなかった。
だから優和は先日話したことが全てだと慎重に答えた。
しかしそれで済む話だと思ったのに、明美は食い下がらなかった。



「私はそうは思わない」



優和はそれは明美の意見だと思った。
優和の意見とは違うだけで、それを主張しあうことに何の意味もないと思ったのだ。
いったい明美は何を知りたいのか。
優和は明美の言葉に全く心当たりがなかった。
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