6 住吉

文字数 779文字


 
 春が訪れた。
 心向くまま、業平は和泉の国へと出、住吉の浜を散歩した。
 浮き浮きするような春の日。
 あまりに心が弾むので、とうとう馬から降り、(くつ)も脱ぎ、袴の裾をたくし上げて、渚を裸足で歩いた。
 都人が、奇妙な格好で浜を歩いているとでも話が広まったのか、そのうち人が集まってきて、皆でおしゃべりしながら歩き続けた。
 ある女が「住吉の浜」を題に、歌を詠んでと言った。
 業平は浪の沫を踏み、歩みつつ、すらすらと歌う。
 
  空をゆく雁が鳴き 菊の花が咲く そんな秋もいいけど
  春の海辺に住むならここさ そんな住吉の浜
 
 こう歌うと、周りの者は皆気に入り、それ以上うまく詠めそうな感じもなかった。
 それで、続きの歌は出ず、この場は、業平の歌だけで終わってしまったのだった。
 
 京の西山に戻った業平のもとへ、信からの手紙が届いていた。
  
 大鷹狩での帝の覚えよろしく、行平の口添えもあり、宮仕えの職を得たとのこと。
 文には、折を見て、会いに行きます。業平様も、時には市中へお出でください、とあった。
 読むうちに、自然と笑みがこぼれる。
 このまま都へ飛んでゆこうか、そう、心の想いだけでも。
 業平は、信の手紙を手にしたまま廊下に出、宮殿のある方角、北東の空を見上げて、ひとりごちた。
「私は、しばらくここでいい。静かなのも、いいものさ」
 そして、一人で庭に出ると、花の散ってしまった梅の木を眺めた。
 しかし、彼は孤独ではなかった。
 やわらかな風が、明るい季節を運んできた。
 次の生が、めぐり始める。
 春の桜は、いま花開こうとしていた。
                  
                     終
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