第1話
文字数 9,152文字
「ただいま」
「おかえりなさい」
朝ロングヘアで見送ってくれた妻の佳奈が、夜、ショートヘアで出迎えてくれた。
驚いた。
「髪、切ったんだね」僕が言うと、
「やっと気づいてくれた」と佳奈。
「え?やっと?今、すぐに気づいたじゃない」
「そういう事じゃない」
「え?何?」
「シャワー、浴びてきたら?」
「うん……」
とりあえず、佳奈に言われるままにシャワーを浴びた。
今日は猛暑日だった。
髪を切ったのはそのせいなのか?
賃貸マンションの一室。冷房の効いたダイニング。食卓には、麻婆豆腐や春巻きなどがならんでいる。妻は専業主婦で、僕が帰ってくる頃には、いつもこうしてご飯を作って待っていてくれる。
ダイニングテーブルに向かい合って座った。
改めて佳奈の顔を見る。結婚して三年、僕より二歳年下の妻は今年で28歳だけど、髪を短くすると少年のようにも見える。
正直、長い髪の方が良かったな、と思ったけれど言わなかった。
「ロングの方が良かった、って、思ったでしょ?」
麻婆豆腐をレンゲですくって口に入れながら佳奈が言った。
心を読まれたようで、ドキッとした。
「うん、まぁ……。でも、今日暑かったしね」
僕は、春巻きを食べながら言った。
「暑さは関係ないの」
「え?そうなの?」
「別に、ロングでもアップにしてしまえば涼しいし」
「まぁ、確かに……」
かみ合わない会話が、僕を落ち着かなくさせる。僕は麦茶を飲んだ。
「最初はね、ボブにでもしようかな、と思ったんだけど」
「ああ、うん」
「でも、一回ボブにしたとき、気づいてくれなかった。覚えてないでしょ?」
佳奈が僕の目を見ながら言った。責められているような気がした。僕は、再び麦茶を飲んだ。佳奈と目を合わさないように……。
確かに僕の記憶では三年間、そして結婚前に付き合っていた二年間、トータル五年間、佳奈の髪型はロングヘア、という認識しかなかった。
「なんか、こう、正面から見ると、わりと同じに見えるっていうかね……」
言い訳がましく僕は言った。
「麻婆豆腐食べたら?好きでしょ?」と佳奈。
「うん、そうだね」
言われるままに、僕は麻婆豆腐を食べた。今の状況的に、あまり食べる気がしなかったが、とりあえず食べている間は話さずにすむ。僕は黙々と食べた。
「正面から見ると同じかー。なるほどねー」
誰に言うともなく佳奈が言った。そして
「今度から、並んで座る?このテーブル四人掛けだし」と、今度は僕に向かって。
「そしたらさ、正面以外も見えるじゃない?」
「まぁ、そうだけど……」
僕は食べ終わってしまった。佳奈も食べ終わっている。
「顔が見たいから、やっぱり、今のままがいいかな」おずおずと僕は言った。そして
「今まで髪切っても気付かないでごめん」と素直にあやまった。
「和樹がロング好きなのわかってたから、今までショートにはしなかったんだけど、ショートにしたら気づくかどうか、純粋に知りたかったっていうか、ね」
気づけて良かった……。
「これから、ずっとショートなの?」一応聞いてみた。
「また伸ばそうと思っているけど、ショートって、伸びかけのときに、バランス崩れて変な感じになるから、そしたら美容院行くと思う」と佳奈は言った。
「それって、どれくらい先?」
「う~ん……。二、三か月先かなぁ……」
二、三か月先……。その時には、絶対に変化に気づくようにしよう。僕は固く心に誓った。
そして、二か月半が過ぎた。10月半ば。秋も深まってきた。そして、なんとなくフォルムが微妙になってきた感じがする。そろそろだろうか?
僕は、佳奈の髪型をいつもチェックするようになっていた。
そして、さらに半月が過ぎたある日の朝。
「なんか、まとまらないのよね」佳奈が髪のことを気にしている。
今日かもしれない。帰ってきて、今朝と違っていたら、それは美容院に行ったということだ。
違っていたら、すかさず「髪切った?」と聞く。よし!頑張ろう!
会社にいる間も、なんだか落ち着かない感じで、いよいよ帰宅となった。
「ただいまー!」
「おかえりなさい」
佳奈の髪型をチェック。朝、なんとなくはねていた部分が、おさまっている感じがする。でも、長さは変わっていないような……。けれど、そろえる程度には切った可能性もある……。
「どうしたの?難しい顔して……」妻が怪訝そうに訊いてきた。
「今日、髪、切っ、きれいに、まとまってるね?」切った?と聞こうとしたが、切っていない可能性も捨てきれない。卑怯かもしれないが、一応変化していることに気づければ、なんとかなるのではないか?
切ったのか?切っていないのか?佳奈の答えは?
まるで100万円がかかったクイズの解答者の気分だ。
「あ、わかった?」妻はそう言うと、洗面所からヘアスプレーのような物を持ってきた。
「これがね、結構いいのよ。今日スーパーから買って来たんだけど」
「そ、そうなんだ。良かったね」
良かったー!切ったかどうかはわからなかったけれど、変化には気づけた!誰か、僕に100万円を下さい!
その後も僕は、佳奈の髪型チェックを毎日行った。
そして、それから二週間ほどがたった。
「ただいまー!」
「おかえりなさい」
出迎えてくれた佳奈を見るなり、僕は言った。
「今日、髪、切ったでしょ?」
「う、うん。よくわかったね」
佳奈が若干戸惑ったように言った。
妻の反応が少し気になったけれど、おかまいなしに僕は続けた。
「切ったのは一センチくらい?あと、軽く梳いた?」
「そうだけど……」
「トップが軽い感じになっているよね。前髪もすっきりしてる」
「そ、そうね……」
佳奈は喜ぶというより、おびえているように見えた。
「どうしたの?」
「な、なんかこわい……」
「え?何が?」
「とりあえずお風呂入ってきたら?」
佳奈はそう言うと、キッチンの方に行ってしまった。
どうしたんだろう?よくわからないまま僕は風呂に入った。
湯舟につかりながら思った。「こわい」ってなんで……?全く意味がわからなかった。
ダイニングは、暖房が軽く入っていて適度に暖かかった。
食卓には、ビーフシューやツナサラダなどが並んでいる。
ダイニングテーブルに向かい合って座る。
ビーフシチューを食べながら佳奈が言った。
「和樹さ、ここのところ、ずっと私の髪型気にしてくれてたじゃない?」
「あ、まぁ、そうだけど……」
「だから、今日も髪切ったの、すぐに気づいてくれたんだよね?」
「うん……そうなるのかな?」
「もう、いいよ」
「え?」
「なんか、ちょっと、監視されてるみたいで、しんどいっていうか……」
「監視なんて、そんなつもりないよ!」
「わかってる。でもね、もう、いいの」
「そう……」
うまくいったと思っていた。でも、だめだったんだ。もっと、さりげなく出来ないとだめだったんだ……。
僕達は無言で料理を食べた。
その後佳奈は、皿などを片し、キッチンで洗い始めた。
「僕が洗うよ」
と、あわてて言ったのだけれど
「あ、それもいい。気持ちはうれしいけど、和樹の洗い方って、なんかこう、あれだから……」
と言われてしまった……。
どこがだめなのかな?と訊こうかと思ったけれど、言われてその要望通りにできる自信はなかった。
僕は、リビングに行ってテレビをつけた。クイズ番組をやっていた。トップだったチームが、最後の問題を間違えたせいで、今まで稼いだポイントが0になり、逆に、3位だったチームが逆転勝利ということで喜び合っていた。なぜかクイズ番組は、ラストだけ得点2倍とか、最後間違うとポイント0とか極端な展開になる番組がわりとある。まぁ、番組の終わりまで視聴者の興味を引きたいからというのは、わかるんだけど……。
僕のポイントは今どれくらいなんだろう。そして、これから僕はどうすればいいのだろう……。
クイズ番組が終わってCMが流れた。なぜか忍者の恰好をした人達が踊っている。変なCMだな、と思ったが、これだ!と、僕は思った。僕が忍者になれば、問題は解決するのだ!僕は一筋の光を見た気がした。
翌日から、僕は忍者になることにした。
と言っても、別に会社を辞めたり、修行の旅に出たりするわけではない。
僕は、僕の気配を消すことにしたのだ。そうすれば、佳奈は苦痛に感じることはないだろう。
でも、妻に気づかれないように、髪型チェックは、ひっそりと、でも、しっかりと行う。
そして、佳奈が美容院に行ったときに「あれ?もしかして髪切った?」とさりげなく訊けばミッション成功というわけだ。
そして僕は、会社員兼忍者という生活を続けた。
正直つらい日もあった。あきらめそうにもなった。でも、僕はくじけなかった。
これは全て愛する妻、佳奈のため!そう自分に言い聞かせ、頑張り続けた。
会社員兼忍者を始めて3か月ほどたったある日のこと。2月も中旬になり、寒い日々が続いていた。
出先から直帰した僕は、いつもより、30分ほど早く家に着いた。
忍者はチャイムなど鳴らさない。静かに鍵を開け、室内に入る。
足音を立てずにリビングに近づくと、佳奈の声が聞こえてきた。誰かと話しているようだ。
でも他に人がいる気配はない。ということは、電話をしているということか?
僕は聞き耳を立てた。
「なんかね、おかしいの、和樹さんが」
僕がおかしい?どういうことだ?
「すごい、こそこそしててね、なんかこう、コソ泥みたいな」
コソ泥だって?
「足音も全然立てなくて、いつの間にか側に居たり、あと、なんか視線を感じるんだけど、和樹さんの方を見ると、なんか、特にこっちを見てる感じはなくて……。でも、全てが不自然っていうか、なんか異常な感じがするのよ」
佳奈は、そんな風に思っていたのか。まだ全然修行が足りていない……。
「病院とかに連れて行ったほうがいいのかな?お母さんはどう思う?え?ふざけてるだけ?えー、あの人、そういうキャラじゃないもの。なんか病んでいるっていう風にしか思えない。うん、そう、とにかく普通じゃない感じで……」
佳奈は母親と電話で話しているようだった。そして、僕が狂ってしまっていると思っているらしい。
忍者作戦は大失敗じゃないか。それどころか、もう普通の人ではないという事になってしまっている。
確実に、僕のポイントは0、下手したらマイナスだ。
もう、髪型うんぬん言っている場合ではない。僕が正常であることをわかってもらわないと……。
でも、どうやって?普通って、どういう感じなのだ?もう、僕にはわからなくなっていた。
普通の僕では、佳奈をがっかりさせてしまうということが、もしかしたらトラウマになっていて、深層心理で、普通の僕になることを僕自身が拒んでいるのかもしれなかった。
「まぁ、お母さんがそう言うなら、しばらく様子を見るけど……。また電話するね」
電話は終わったようだ。しかし、僕は、なぜか金縛りにあったようになっていて、その場から立ち去ることが出来なくなっていた。
リビングのドアを開けようとした佳奈は、ドアの所に僕がいることに気づいて悲鳴を上げた。
「キャー!!何?いつからいたの?え?何?何なの?」
佳奈が驚いている。何か言わないと。でも、何も言うことが出来ない。
ふと、お母さんが言ったのであろう、ふざけている、という言葉が頭に浮かんだ。そうだ、僕はふざけていた。そういうことにすれば、笑い話ですむ。
「僕は、会社員兼忍者をやっていただけなんだよ。でも、佳奈には全然受けなかったみたいだね、ははははは」
僕はおどけてみせた。
しかし、佳奈は全く笑っていない。それどころか恐怖におののいている。
「和樹、病院に行こう、大丈夫、私も一緒に行くから」
「ほんとに、何でもないんだよ、僕はいたって正常だよ、信じてくれよ!」
「本人ほどね、気づかないものらしいよ、そういうのって。でも、早くに診断してもらって、適切な治療をすれば、治るらしいから。私の言う通りにして」
「違う!違うんだよ!」
いくら僕が言っても、信じてもらえない。
佳奈はスマホでいろいろ調べ始め、そしてあるところに電話をした。
「はい、あさっての朝10時ですね、はい、わかりました、よろしくお願いします」
どうやら病院に予約を入れられてしまったらしい。もう、これは、医者に誤解を解いてもらうしかなさそうだ。僕は、おとなしく妻に従うことにした。
予約当日。風邪をひいたので今日は休みます、と会社に電話した。大事な会議とかがある日じゃなかったので、まだよかった。
しかし、保険証を使ったら、心療内科に行ったことが会社にばれるのではないか?それはそれでまずい。だって、僕は、別に狂ってなどいないのだから……。でも、自費ならば、結構な額を取られるに違いない。もしも会社に何か問われたら、ちょっと不眠症気味で、とでも言うか……。
なんで、こんな心配までしなくてはならないのか?だんだん腹立たしくもなってきていたが、仕方がない。
クリニックは、家からの最寄り駅のすぐ近くにあった。
小さなビルの三階にあり、中は清潔な感じの心療内科だった。予約制だからか、待合室には患者は一人しかいなかった。
30代後半くらいの優しそうな受付の女性に、問診票に記入するように言われた。
眠れないとか、食欲がないとか、不安な気持ちに襲われるとか、いろいろな項目があったが、どれも当てはまらなかった。
まぁ、違う意味で不安でいっぱいなのだが。
しばらくして名前を呼ばれた。妻は待合室で待つように言われた。
僕一人が診察室に入った。
白髪が交 じった頭、やせ型で眼鏡をかけた50代半ばくらいの男性の医者がいた。
一応「お願いします」と言って、椅子に腰かけた。お願いすることなどないのだが……。
医者は問診票を見て
「特に問題はなさそうですが、今日は、どういったお悩みでいらしたのでしょうか?」
やや不思議そうな顔をして僕に問いかけた。
もしかしたら、この医者にとって、こんな患者は初めてかもしれない。お手数をおかけして、すみませんね。
どうせ診察代を取られるのだ。何も話さないのももったいないし、とにかく妻の誤解をとかねばならない。僕は、正直に事の顛末を話した。妻の髪型の変化に気づかなかったことから始まり、忍者のように僕が行動すれば、妻は喜ぶのではないかと思ったことまで……。
忍者のくだりを話すと、本当に危ない人と思われないかと一瞬危惧したが、まぁ、医者ならば大丈夫だろうと信じて、包み隠さず話した。
僕の話を一通り聞いた医者は
「なるほど。いろいろ苦労されたようですね」
と、一言いった。
その瞬間、僕は、なぜだか泣きたいような気分になった。おかしいな。
「奥さんの期待に100%応えたい、その思いが、小川さんには強いようですね」
「あー、まぁ、そうかもしれないです……」
確かにそうだ。だからこそ、忍者になろうとしたくらいなわけだから……。
「普通の状態がわからなくなったと、さっきおっしゃっていましたね?」
「ああ、はい……」
「普通の自分では、奥さんが受け入れてくれないかもしれないと、そう思ったから、と分析されていたようですが……?」
「まぁ、そうですね……」
「本当にそうなのでしょうかね?奥さんは、どちらかといえば冷たいタイプですか?」
「そんなことないです。でも、僕が髪型のことに気づかないことには、結構傷ついていたみたいで……」
「でも、その件に関しては、もういいと言われた?」
「まぁ、確かに。でも、それは、ある意味、見限ったという感じなんじゃないですかね?この男に期待しても仕方ない、みたいな……」
「奥さんがヘアスプレーを使って髪型を整えたとき、小川さんは気づきましたね。そして奥さんも喜んだ」
「はい」
「その程度でよかったのではないですか?」
「え?」
「そこから更に、もっと気がつく人になりたいと頑張った。でも、そこまでやる必要はなかったかもしれませんね」
「あー……そうなんですかね?」
「もっと喜んでもらいたい。もっと認めてもらいたい。その思いがあなたに無理をさせた。しかし、奥さんには、あなたの思いは通じなかった。ならば、もっと頑張らなくてはならないと自分を追い詰めていった。それが今のあなたです」
僕は何も言えなかった。病んでなどいないと思っていたけれど、病みかけていたのかもしれない。自分でも気づかないうちに……。
「100%相手の期待に応えることはできないし、する必要もないのです。相手の反応が気になるときもあるかもしれませんが、気にしないことです。どうしても気になるようでしたら、お薬をお出しすることもできますが、どうしますか?」
「薬はいいです。眠れていますし、食欲もありますし……」
「そうですか。次回の予約はどうされますか?」
「いや、もう大丈夫だと思います」
「わかりました。では、奥さんを呼んで頂けますか?少し奥さんとお話させて下さい。小川さんは待合室でお待ち下さい」
「わかりました。ありがとうございました」
僕は医者に頭を下げて診察室を出た。そして妻に入ってもらった。
15分ほどして妻は待合室にもどって来た。
僕を見た佳奈は、ホッとしたような、泣きたいような、複雑な顔をしていた。僕も同じような顔をしていたかもしれない。
家に帰ってきて、佳奈がリビングに暖房を入れた。
しばらくして部屋が暖かくなった。
佳奈がミルクティーを入れてくれて、ソファに二人並んで座って飲んだ。
はー……と妻が深いため息をついた。
そして言った。
「私が和樹を追い詰めていたんだね。本当にごめんね」
「佳奈は悪くないよ。僕が勝手に変なことを思いついて、佳奈をびっくりさせただけ。僕の方こそごめん」
「でも、元はと言えば、私が髪型のことで和樹を責めたのが発端だよね。先生にも、男性は、そういうことには鈍いものです、って言われて。女性にとって美容はかなりの関心事でしょうけれど、男性にとってはそうではないことが多いです、って。だから、そういった方面にはあまり期待しない方がいいって言われて」
「そうなんだ」
あの先生、佳奈にそんな事言ったんだ。
「でも、和樹は、すごく期待に応えようとしてくれていたんだよね。なのに、私がそれを気持ち悪がったりしたから……」
「気持ち悪かったんだ……」
「あ!ごめん!言い方が、悪かったね……。先生が、どうしても気づいてもらいたいことがあったら、口に出して言った方がいいって。気づいてもらいたいという気持ちもわかりますが、わからないものはわからないのです、って。だからね、今度美容院に行っても和樹が気づかなかったら、今日美容院行ってきたんだよ!ちゃんと気づいてよ!って言うことにした。それでいい?」
「う、うん。それでいいよ」
「だからもう、髪型チェックとかはしなくていいからね、わかった?」
「はい、わかりました!でも、あのー、なるべくお手柔らかにお願いします。あんまりこわいと、やっぱりチェックしないと怒られるって思っちゃいそうだから……」
「大丈夫だよぉ。そんなに怒ったりしないって!」
「うん……。わかった」
ついでに僕は、気になっている事を佳奈に訊いた。
「僕のお皿の洗い方って変?」
「あー……。洗剤いっぱい使うわりには、汚れが残ってたりするんでね。それなら自分で洗った方がいいかな、って思って」
「そっか。あんまり洗剤たくさん使ってるつもりなかった」
「まぁ、食器洗いは私がやるよ。二人暮らしだから枚数も少ないしね。それほど苦じゃないの、私。それより電球切れたとき、すぐ変えてくれると助かるんだけど」
「わかった。それなら大丈夫。すぐやるよ」
「あと、古新聞束ねるとき、もう少しきっちり紐で結んでほしいんだけど」
「あ、ごめん。それも気をつけるよ」
「あと、ビンと缶、ごっちゃに捨てないでくれる?ゴミ箱ちゃんと二種類あるでしょ?きちんと確認して捨てて?」
「あー、そうだよね、つい、うっかりしてた……」
「あ、それから……」
佳奈の要望は、その後も結構続いた。
ちゃんとやれるのかな?大丈夫かな……。
僕が不安そうにしていると佳奈は言った。
「ま、いろいろ言っちゃったけど、徐々にでいいから。私も、そんなせっかちじゃないし」
「うん、ありがとう」
「なんか、私ばっかりいろいろ言っちゃったけど、和樹からはないの?」
「え?僕?」
佳奈は、家の中の事は、本当にきっちりやってくれていた。きっちりし過ぎるくらいに……。だから僕はためらいつつも言った。
「なんか、ちょっと完璧過ぎるかな、みたいにはちょっと思うかな……」
「完璧?そう?これくらい普通だと思うけど?」
意外そうに佳奈が言った。
「いや、佳奈が無理していないならそれでいいんだけど」
と僕は言った。すると佳奈は
「専業主婦なんだから家の中のことはきちんとやらなきゃ、って思ってたところはあったかも。でも、それで和樹がかえって窮屈に思うなら改めた方がいいよね?パートに出るとか、お金のかからない趣味探すとかしようかな」
と言った。確かに、佳奈はたまに図書館で借りてくる本を読む以外、趣味らしい趣味はしていない感じではあった。でも、パートか……。家事の分担とか、更に要求される事が増えるんだろうか……。
ちょっと僕が深刻そうな顔をしてしまったらしく
「ま、とりあえずは趣味でいいかな。別に今のところ、ちゃんとやりくりできているしね」
と佳奈は言った。ちょっと僕はホッとして
「何か楽しい事が見つかるといいね」
と言った。
「そうだね。なんか新しい事始めるのって楽しいよね」
と佳奈は言った。
今回の件で、僕達は、少し変わろうとしている。果たして上手くいくかどうかわからないけれど、試行錯誤を重ねる事で、より夫婦らしくなっていくのだろう。
こうして僕は、会社員兼忍者からただの会社員に戻った。
「行ってらっしゃい」佳奈が笑顔で言ってくれた。
「行ってきます」僕も笑顔で家を出た。
そろそろ3月。もうすぐ春がやってくる。
今年の春はどんな感じになるんだろう?
楽しみではあるけれど、戸惑いも少し……。
この時期特有の三寒四温、そんな生活になるかもしれない。
そして春が終わっても、そういう日常が、これからも、ずっと続いていく……。
寒い日が続くと、ちょっと落ち込むかもしれないけれど、でも、温かい日は必ず来るのだ。
だから、僕は僕のままで、佳奈も佳奈のままで。
お互いに無理せず、でも、理解しあって生活していけるといいな。
普通の会社員の僕は、しっかりとアスファルトを踏みしめて駅へと向かったのだった。
「おかえりなさい」
朝ロングヘアで見送ってくれた妻の佳奈が、夜、ショートヘアで出迎えてくれた。
驚いた。
「髪、切ったんだね」僕が言うと、
「やっと気づいてくれた」と佳奈。
「え?やっと?今、すぐに気づいたじゃない」
「そういう事じゃない」
「え?何?」
「シャワー、浴びてきたら?」
「うん……」
とりあえず、佳奈に言われるままにシャワーを浴びた。
今日は猛暑日だった。
髪を切ったのはそのせいなのか?
賃貸マンションの一室。冷房の効いたダイニング。食卓には、麻婆豆腐や春巻きなどがならんでいる。妻は専業主婦で、僕が帰ってくる頃には、いつもこうしてご飯を作って待っていてくれる。
ダイニングテーブルに向かい合って座った。
改めて佳奈の顔を見る。結婚して三年、僕より二歳年下の妻は今年で28歳だけど、髪を短くすると少年のようにも見える。
正直、長い髪の方が良かったな、と思ったけれど言わなかった。
「ロングの方が良かった、って、思ったでしょ?」
麻婆豆腐をレンゲですくって口に入れながら佳奈が言った。
心を読まれたようで、ドキッとした。
「うん、まぁ……。でも、今日暑かったしね」
僕は、春巻きを食べながら言った。
「暑さは関係ないの」
「え?そうなの?」
「別に、ロングでもアップにしてしまえば涼しいし」
「まぁ、確かに……」
かみ合わない会話が、僕を落ち着かなくさせる。僕は麦茶を飲んだ。
「最初はね、ボブにでもしようかな、と思ったんだけど」
「ああ、うん」
「でも、一回ボブにしたとき、気づいてくれなかった。覚えてないでしょ?」
佳奈が僕の目を見ながら言った。責められているような気がした。僕は、再び麦茶を飲んだ。佳奈と目を合わさないように……。
確かに僕の記憶では三年間、そして結婚前に付き合っていた二年間、トータル五年間、佳奈の髪型はロングヘア、という認識しかなかった。
「なんか、こう、正面から見ると、わりと同じに見えるっていうかね……」
言い訳がましく僕は言った。
「麻婆豆腐食べたら?好きでしょ?」と佳奈。
「うん、そうだね」
言われるままに、僕は麻婆豆腐を食べた。今の状況的に、あまり食べる気がしなかったが、とりあえず食べている間は話さずにすむ。僕は黙々と食べた。
「正面から見ると同じかー。なるほどねー」
誰に言うともなく佳奈が言った。そして
「今度から、並んで座る?このテーブル四人掛けだし」と、今度は僕に向かって。
「そしたらさ、正面以外も見えるじゃない?」
「まぁ、そうだけど……」
僕は食べ終わってしまった。佳奈も食べ終わっている。
「顔が見たいから、やっぱり、今のままがいいかな」おずおずと僕は言った。そして
「今まで髪切っても気付かないでごめん」と素直にあやまった。
「和樹がロング好きなのわかってたから、今までショートにはしなかったんだけど、ショートにしたら気づくかどうか、純粋に知りたかったっていうか、ね」
気づけて良かった……。
「これから、ずっとショートなの?」一応聞いてみた。
「また伸ばそうと思っているけど、ショートって、伸びかけのときに、バランス崩れて変な感じになるから、そしたら美容院行くと思う」と佳奈は言った。
「それって、どれくらい先?」
「う~ん……。二、三か月先かなぁ……」
二、三か月先……。その時には、絶対に変化に気づくようにしよう。僕は固く心に誓った。
そして、二か月半が過ぎた。10月半ば。秋も深まってきた。そして、なんとなくフォルムが微妙になってきた感じがする。そろそろだろうか?
僕は、佳奈の髪型をいつもチェックするようになっていた。
そして、さらに半月が過ぎたある日の朝。
「なんか、まとまらないのよね」佳奈が髪のことを気にしている。
今日かもしれない。帰ってきて、今朝と違っていたら、それは美容院に行ったということだ。
違っていたら、すかさず「髪切った?」と聞く。よし!頑張ろう!
会社にいる間も、なんだか落ち着かない感じで、いよいよ帰宅となった。
「ただいまー!」
「おかえりなさい」
佳奈の髪型をチェック。朝、なんとなくはねていた部分が、おさまっている感じがする。でも、長さは変わっていないような……。けれど、そろえる程度には切った可能性もある……。
「どうしたの?難しい顔して……」妻が怪訝そうに訊いてきた。
「今日、髪、切っ、きれいに、まとまってるね?」切った?と聞こうとしたが、切っていない可能性も捨てきれない。卑怯かもしれないが、一応変化していることに気づければ、なんとかなるのではないか?
切ったのか?切っていないのか?佳奈の答えは?
まるで100万円がかかったクイズの解答者の気分だ。
「あ、わかった?」妻はそう言うと、洗面所からヘアスプレーのような物を持ってきた。
「これがね、結構いいのよ。今日スーパーから買って来たんだけど」
「そ、そうなんだ。良かったね」
良かったー!切ったかどうかはわからなかったけれど、変化には気づけた!誰か、僕に100万円を下さい!
その後も僕は、佳奈の髪型チェックを毎日行った。
そして、それから二週間ほどがたった。
「ただいまー!」
「おかえりなさい」
出迎えてくれた佳奈を見るなり、僕は言った。
「今日、髪、切ったでしょ?」
「う、うん。よくわかったね」
佳奈が若干戸惑ったように言った。
妻の反応が少し気になったけれど、おかまいなしに僕は続けた。
「切ったのは一センチくらい?あと、軽く梳いた?」
「そうだけど……」
「トップが軽い感じになっているよね。前髪もすっきりしてる」
「そ、そうね……」
佳奈は喜ぶというより、おびえているように見えた。
「どうしたの?」
「な、なんかこわい……」
「え?何が?」
「とりあえずお風呂入ってきたら?」
佳奈はそう言うと、キッチンの方に行ってしまった。
どうしたんだろう?よくわからないまま僕は風呂に入った。
湯舟につかりながら思った。「こわい」ってなんで……?全く意味がわからなかった。
ダイニングは、暖房が軽く入っていて適度に暖かかった。
食卓には、ビーフシューやツナサラダなどが並んでいる。
ダイニングテーブルに向かい合って座る。
ビーフシチューを食べながら佳奈が言った。
「和樹さ、ここのところ、ずっと私の髪型気にしてくれてたじゃない?」
「あ、まぁ、そうだけど……」
「だから、今日も髪切ったの、すぐに気づいてくれたんだよね?」
「うん……そうなるのかな?」
「もう、いいよ」
「え?」
「なんか、ちょっと、監視されてるみたいで、しんどいっていうか……」
「監視なんて、そんなつもりないよ!」
「わかってる。でもね、もう、いいの」
「そう……」
うまくいったと思っていた。でも、だめだったんだ。もっと、さりげなく出来ないとだめだったんだ……。
僕達は無言で料理を食べた。
その後佳奈は、皿などを片し、キッチンで洗い始めた。
「僕が洗うよ」
と、あわてて言ったのだけれど
「あ、それもいい。気持ちはうれしいけど、和樹の洗い方って、なんかこう、あれだから……」
と言われてしまった……。
どこがだめなのかな?と訊こうかと思ったけれど、言われてその要望通りにできる自信はなかった。
僕は、リビングに行ってテレビをつけた。クイズ番組をやっていた。トップだったチームが、最後の問題を間違えたせいで、今まで稼いだポイントが0になり、逆に、3位だったチームが逆転勝利ということで喜び合っていた。なぜかクイズ番組は、ラストだけ得点2倍とか、最後間違うとポイント0とか極端な展開になる番組がわりとある。まぁ、番組の終わりまで視聴者の興味を引きたいからというのは、わかるんだけど……。
僕のポイントは今どれくらいなんだろう。そして、これから僕はどうすればいいのだろう……。
クイズ番組が終わってCMが流れた。なぜか忍者の恰好をした人達が踊っている。変なCMだな、と思ったが、これだ!と、僕は思った。僕が忍者になれば、問題は解決するのだ!僕は一筋の光を見た気がした。
翌日から、僕は忍者になることにした。
と言っても、別に会社を辞めたり、修行の旅に出たりするわけではない。
僕は、僕の気配を消すことにしたのだ。そうすれば、佳奈は苦痛に感じることはないだろう。
でも、妻に気づかれないように、髪型チェックは、ひっそりと、でも、しっかりと行う。
そして、佳奈が美容院に行ったときに「あれ?もしかして髪切った?」とさりげなく訊けばミッション成功というわけだ。
そして僕は、会社員兼忍者という生活を続けた。
正直つらい日もあった。あきらめそうにもなった。でも、僕はくじけなかった。
これは全て愛する妻、佳奈のため!そう自分に言い聞かせ、頑張り続けた。
会社員兼忍者を始めて3か月ほどたったある日のこと。2月も中旬になり、寒い日々が続いていた。
出先から直帰した僕は、いつもより、30分ほど早く家に着いた。
忍者はチャイムなど鳴らさない。静かに鍵を開け、室内に入る。
足音を立てずにリビングに近づくと、佳奈の声が聞こえてきた。誰かと話しているようだ。
でも他に人がいる気配はない。ということは、電話をしているということか?
僕は聞き耳を立てた。
「なんかね、おかしいの、和樹さんが」
僕がおかしい?どういうことだ?
「すごい、こそこそしててね、なんかこう、コソ泥みたいな」
コソ泥だって?
「足音も全然立てなくて、いつの間にか側に居たり、あと、なんか視線を感じるんだけど、和樹さんの方を見ると、なんか、特にこっちを見てる感じはなくて……。でも、全てが不自然っていうか、なんか異常な感じがするのよ」
佳奈は、そんな風に思っていたのか。まだ全然修行が足りていない……。
「病院とかに連れて行ったほうがいいのかな?お母さんはどう思う?え?ふざけてるだけ?えー、あの人、そういうキャラじゃないもの。なんか病んでいるっていう風にしか思えない。うん、そう、とにかく普通じゃない感じで……」
佳奈は母親と電話で話しているようだった。そして、僕が狂ってしまっていると思っているらしい。
忍者作戦は大失敗じゃないか。それどころか、もう普通の人ではないという事になってしまっている。
確実に、僕のポイントは0、下手したらマイナスだ。
もう、髪型うんぬん言っている場合ではない。僕が正常であることをわかってもらわないと……。
でも、どうやって?普通って、どういう感じなのだ?もう、僕にはわからなくなっていた。
普通の僕では、佳奈をがっかりさせてしまうということが、もしかしたらトラウマになっていて、深層心理で、普通の僕になることを僕自身が拒んでいるのかもしれなかった。
「まぁ、お母さんがそう言うなら、しばらく様子を見るけど……。また電話するね」
電話は終わったようだ。しかし、僕は、なぜか金縛りにあったようになっていて、その場から立ち去ることが出来なくなっていた。
リビングのドアを開けようとした佳奈は、ドアの所に僕がいることに気づいて悲鳴を上げた。
「キャー!!何?いつからいたの?え?何?何なの?」
佳奈が驚いている。何か言わないと。でも、何も言うことが出来ない。
ふと、お母さんが言ったのであろう、ふざけている、という言葉が頭に浮かんだ。そうだ、僕はふざけていた。そういうことにすれば、笑い話ですむ。
「僕は、会社員兼忍者をやっていただけなんだよ。でも、佳奈には全然受けなかったみたいだね、ははははは」
僕はおどけてみせた。
しかし、佳奈は全く笑っていない。それどころか恐怖におののいている。
「和樹、病院に行こう、大丈夫、私も一緒に行くから」
「ほんとに、何でもないんだよ、僕はいたって正常だよ、信じてくれよ!」
「本人ほどね、気づかないものらしいよ、そういうのって。でも、早くに診断してもらって、適切な治療をすれば、治るらしいから。私の言う通りにして」
「違う!違うんだよ!」
いくら僕が言っても、信じてもらえない。
佳奈はスマホでいろいろ調べ始め、そしてあるところに電話をした。
「はい、あさっての朝10時ですね、はい、わかりました、よろしくお願いします」
どうやら病院に予約を入れられてしまったらしい。もう、これは、医者に誤解を解いてもらうしかなさそうだ。僕は、おとなしく妻に従うことにした。
予約当日。風邪をひいたので今日は休みます、と会社に電話した。大事な会議とかがある日じゃなかったので、まだよかった。
しかし、保険証を使ったら、心療内科に行ったことが会社にばれるのではないか?それはそれでまずい。だって、僕は、別に狂ってなどいないのだから……。でも、自費ならば、結構な額を取られるに違いない。もしも会社に何か問われたら、ちょっと不眠症気味で、とでも言うか……。
なんで、こんな心配までしなくてはならないのか?だんだん腹立たしくもなってきていたが、仕方がない。
クリニックは、家からの最寄り駅のすぐ近くにあった。
小さなビルの三階にあり、中は清潔な感じの心療内科だった。予約制だからか、待合室には患者は一人しかいなかった。
30代後半くらいの優しそうな受付の女性に、問診票に記入するように言われた。
眠れないとか、食欲がないとか、不安な気持ちに襲われるとか、いろいろな項目があったが、どれも当てはまらなかった。
まぁ、違う意味で不安でいっぱいなのだが。
しばらくして名前を呼ばれた。妻は待合室で待つように言われた。
僕一人が診察室に入った。
白髪が
一応「お願いします」と言って、椅子に腰かけた。お願いすることなどないのだが……。
医者は問診票を見て
「特に問題はなさそうですが、今日は、どういったお悩みでいらしたのでしょうか?」
やや不思議そうな顔をして僕に問いかけた。
もしかしたら、この医者にとって、こんな患者は初めてかもしれない。お手数をおかけして、すみませんね。
どうせ診察代を取られるのだ。何も話さないのももったいないし、とにかく妻の誤解をとかねばならない。僕は、正直に事の顛末を話した。妻の髪型の変化に気づかなかったことから始まり、忍者のように僕が行動すれば、妻は喜ぶのではないかと思ったことまで……。
忍者のくだりを話すと、本当に危ない人と思われないかと一瞬危惧したが、まぁ、医者ならば大丈夫だろうと信じて、包み隠さず話した。
僕の話を一通り聞いた医者は
「なるほど。いろいろ苦労されたようですね」
と、一言いった。
その瞬間、僕は、なぜだか泣きたいような気分になった。おかしいな。
「奥さんの期待に100%応えたい、その思いが、小川さんには強いようですね」
「あー、まぁ、そうかもしれないです……」
確かにそうだ。だからこそ、忍者になろうとしたくらいなわけだから……。
「普通の状態がわからなくなったと、さっきおっしゃっていましたね?」
「ああ、はい……」
「普通の自分では、奥さんが受け入れてくれないかもしれないと、そう思ったから、と分析されていたようですが……?」
「まぁ、そうですね……」
「本当にそうなのでしょうかね?奥さんは、どちらかといえば冷たいタイプですか?」
「そんなことないです。でも、僕が髪型のことに気づかないことには、結構傷ついていたみたいで……」
「でも、その件に関しては、もういいと言われた?」
「まぁ、確かに。でも、それは、ある意味、見限ったという感じなんじゃないですかね?この男に期待しても仕方ない、みたいな……」
「奥さんがヘアスプレーを使って髪型を整えたとき、小川さんは気づきましたね。そして奥さんも喜んだ」
「はい」
「その程度でよかったのではないですか?」
「え?」
「そこから更に、もっと気がつく人になりたいと頑張った。でも、そこまでやる必要はなかったかもしれませんね」
「あー……そうなんですかね?」
「もっと喜んでもらいたい。もっと認めてもらいたい。その思いがあなたに無理をさせた。しかし、奥さんには、あなたの思いは通じなかった。ならば、もっと頑張らなくてはならないと自分を追い詰めていった。それが今のあなたです」
僕は何も言えなかった。病んでなどいないと思っていたけれど、病みかけていたのかもしれない。自分でも気づかないうちに……。
「100%相手の期待に応えることはできないし、する必要もないのです。相手の反応が気になるときもあるかもしれませんが、気にしないことです。どうしても気になるようでしたら、お薬をお出しすることもできますが、どうしますか?」
「薬はいいです。眠れていますし、食欲もありますし……」
「そうですか。次回の予約はどうされますか?」
「いや、もう大丈夫だと思います」
「わかりました。では、奥さんを呼んで頂けますか?少し奥さんとお話させて下さい。小川さんは待合室でお待ち下さい」
「わかりました。ありがとうございました」
僕は医者に頭を下げて診察室を出た。そして妻に入ってもらった。
15分ほどして妻は待合室にもどって来た。
僕を見た佳奈は、ホッとしたような、泣きたいような、複雑な顔をしていた。僕も同じような顔をしていたかもしれない。
家に帰ってきて、佳奈がリビングに暖房を入れた。
しばらくして部屋が暖かくなった。
佳奈がミルクティーを入れてくれて、ソファに二人並んで座って飲んだ。
はー……と妻が深いため息をついた。
そして言った。
「私が和樹を追い詰めていたんだね。本当にごめんね」
「佳奈は悪くないよ。僕が勝手に変なことを思いついて、佳奈をびっくりさせただけ。僕の方こそごめん」
「でも、元はと言えば、私が髪型のことで和樹を責めたのが発端だよね。先生にも、男性は、そういうことには鈍いものです、って言われて。女性にとって美容はかなりの関心事でしょうけれど、男性にとってはそうではないことが多いです、って。だから、そういった方面にはあまり期待しない方がいいって言われて」
「そうなんだ」
あの先生、佳奈にそんな事言ったんだ。
「でも、和樹は、すごく期待に応えようとしてくれていたんだよね。なのに、私がそれを気持ち悪がったりしたから……」
「気持ち悪かったんだ……」
「あ!ごめん!言い方が、悪かったね……。先生が、どうしても気づいてもらいたいことがあったら、口に出して言った方がいいって。気づいてもらいたいという気持ちもわかりますが、わからないものはわからないのです、って。だからね、今度美容院に行っても和樹が気づかなかったら、今日美容院行ってきたんだよ!ちゃんと気づいてよ!って言うことにした。それでいい?」
「う、うん。それでいいよ」
「だからもう、髪型チェックとかはしなくていいからね、わかった?」
「はい、わかりました!でも、あのー、なるべくお手柔らかにお願いします。あんまりこわいと、やっぱりチェックしないと怒られるって思っちゃいそうだから……」
「大丈夫だよぉ。そんなに怒ったりしないって!」
「うん……。わかった」
ついでに僕は、気になっている事を佳奈に訊いた。
「僕のお皿の洗い方って変?」
「あー……。洗剤いっぱい使うわりには、汚れが残ってたりするんでね。それなら自分で洗った方がいいかな、って思って」
「そっか。あんまり洗剤たくさん使ってるつもりなかった」
「まぁ、食器洗いは私がやるよ。二人暮らしだから枚数も少ないしね。それほど苦じゃないの、私。それより電球切れたとき、すぐ変えてくれると助かるんだけど」
「わかった。それなら大丈夫。すぐやるよ」
「あと、古新聞束ねるとき、もう少しきっちり紐で結んでほしいんだけど」
「あ、ごめん。それも気をつけるよ」
「あと、ビンと缶、ごっちゃに捨てないでくれる?ゴミ箱ちゃんと二種類あるでしょ?きちんと確認して捨てて?」
「あー、そうだよね、つい、うっかりしてた……」
「あ、それから……」
佳奈の要望は、その後も結構続いた。
ちゃんとやれるのかな?大丈夫かな……。
僕が不安そうにしていると佳奈は言った。
「ま、いろいろ言っちゃったけど、徐々にでいいから。私も、そんなせっかちじゃないし」
「うん、ありがとう」
「なんか、私ばっかりいろいろ言っちゃったけど、和樹からはないの?」
「え?僕?」
佳奈は、家の中の事は、本当にきっちりやってくれていた。きっちりし過ぎるくらいに……。だから僕はためらいつつも言った。
「なんか、ちょっと完璧過ぎるかな、みたいにはちょっと思うかな……」
「完璧?そう?これくらい普通だと思うけど?」
意外そうに佳奈が言った。
「いや、佳奈が無理していないならそれでいいんだけど」
と僕は言った。すると佳奈は
「専業主婦なんだから家の中のことはきちんとやらなきゃ、って思ってたところはあったかも。でも、それで和樹がかえって窮屈に思うなら改めた方がいいよね?パートに出るとか、お金のかからない趣味探すとかしようかな」
と言った。確かに、佳奈はたまに図書館で借りてくる本を読む以外、趣味らしい趣味はしていない感じではあった。でも、パートか……。家事の分担とか、更に要求される事が増えるんだろうか……。
ちょっと僕が深刻そうな顔をしてしまったらしく
「ま、とりあえずは趣味でいいかな。別に今のところ、ちゃんとやりくりできているしね」
と佳奈は言った。ちょっと僕はホッとして
「何か楽しい事が見つかるといいね」
と言った。
「そうだね。なんか新しい事始めるのって楽しいよね」
と佳奈は言った。
今回の件で、僕達は、少し変わろうとしている。果たして上手くいくかどうかわからないけれど、試行錯誤を重ねる事で、より夫婦らしくなっていくのだろう。
こうして僕は、会社員兼忍者からただの会社員に戻った。
「行ってらっしゃい」佳奈が笑顔で言ってくれた。
「行ってきます」僕も笑顔で家を出た。
そろそろ3月。もうすぐ春がやってくる。
今年の春はどんな感じになるんだろう?
楽しみではあるけれど、戸惑いも少し……。
この時期特有の三寒四温、そんな生活になるかもしれない。
そして春が終わっても、そういう日常が、これからも、ずっと続いていく……。
寒い日が続くと、ちょっと落ち込むかもしれないけれど、でも、温かい日は必ず来るのだ。
だから、僕は僕のままで、佳奈も佳奈のままで。
お互いに無理せず、でも、理解しあって生活していけるといいな。
普通の会社員の僕は、しっかりとアスファルトを踏みしめて駅へと向かったのだった。