第2話 ココス

文字数 3,076文字

 先日の「ガスト」で味を占めた男は、翌週の休日の予定を早々に決めていた。

 執筆環境という目線で改めて見てみると、男の行動範囲にも、多様な選択肢があることがわかった。

 まず、ファミリーレストランは「ガスト」と「ココス」がある。「デニーズ」と「ジョイフル」も少し前まであったが、残念ながら閉店してしまっていた。

 また、ファーストフード店では「マクドナルド」に「モスバーガー」が候補に上がる。「ロッテリア」もあるにはあるが、商業施設内のため、落ち着いて執筆できそうにない。

 珈琲ショップもある。「スターバックス」、「タリーズ」「コメダ珈琲」、「高倉町珈琲」、「星乃珈琲店」と、こちらも種類豊富だ。

 その中で、男が今回選んだのは「ココス」であった。

 貴重なファミレスの選択肢を早くも消費してしまうことに、多少の勿体なさは覚えたが、それよりも食欲が勝った。

 ココスの朝と言えば、そう「朝食バイキング」である。

 ただし、全店で実施しているわけではなく、選ばれし店舗でのみ、楽しめるのである。

 調べてみると、男の家から車で三十分弱の所にあるココスで、土日祝日のみ実施していることがわかった。そう言えば、その店舗の前を通った時に、いつも気になっていたことを思い出す。これは、行ってみるしかない。

 別に朝食バイキングでなくとも執筆はできるのだろうが、通常の開店時間は十時からなので、その時間からの執筆だと、少し興が覚める。

 やはり「朝からバリバリ書いて、疲れて昼食などを食べて、ああ良い休日だった……あれ? まだ昼過ぎか!」という、痛快な体験は魅力的だ。

 とは言え、今回は単純に食欲に負けただけだ。三十路半ばを過ぎて、男はめっきり量を食べられなくなった。外食すると、普通の定食屋などでも、満腹で苦しくなってしまうことも多い。

 それでも、バイキングという響きには心が躍る。好きなものを好きなだけ食べていい。子どもの頃からぽっちゃりさんだった男にとって、食べることは幸福の一つの形であり、それは年を重ねても変わることはなかった。

 たまにストレス喰いをしてしまうことがあるが、それは幸福ではなかった。自己嫌悪に陥り、ただ太るだけで、何も良いことはない。ストレスが消えたように思えるのは、ただ誤魔化しただけにすぎず、良くないこととはわかっていながらも、他にストレス解消の方法を持たない男にとっては、長年の悩みの種でもある。

 しかし、今回は違う。

 バイキングは、ストレスによるヤケ食いではない。

 能動的な「愉しみ」であり、それは確かな幸福につながるのだ。



 かくして、男にとって記念すべき初の「ココスの朝食バイキング」の日がやってきた。

 思ったよりも先客が多かった。それもそうだ。今日は休日。そして、ここは「選ばれしココス」なのだから。

 黒いリュックを背負った小柄なおっさんが一人で朝食バイキングに訪れる。傍から見れば、異様な光景かもしれない。だが、男にそんなことを気にする繊細さはもうなかった。

 リュックに入っているのは、無論ノートパソコンだ。男はまだ、パソコン用のバッグを買っていない。

 お好きな席へ、とのことだったので、前回の失敗を踏まえ、角の席を確保した。バイキングからは遠いが、人も少ない。

 時刻は九時前。バイキングの時間は九十分とのことだった。さあ、勝負開始だ。

 早速、ドリンクバーからホットコーヒーを運び、続いてバイキング場へと向かう。さすがに「朝食」なので種類は多くはないものの、そのごちゃごちゃした感じは男のテンションを上げた。

 気になる料理も、さほどではない料理も、とりあえず皿に取り分け、席に戻る。

 今回は執筆のことは後だ。まずはとにかくバイキングを楽しむ。

 だが、半分ほどの料理を制覇した時点で、あえなく腹はいっぱいになった。時間はまだ半分以上ある。温かいコンソメスープで胃を休めつつ、執筆にかかることにした。

 バイキングだけあって、さすがに前回の「ガスト」よりも賑やかだったが、執筆を開始すると、すぐに没入することができた。

 残りがに十分を切って、少し勿体なくなってきた男は、ノートパソコンを一度仕舞い、またバイキング場に向かった。

 残念ながら、どうしても食べたいものは、その時点でもうなかった。仕方なくワッフルメーカーでワッフルを焼き、さらに、こともあろうに丸パンまでトースターで焼いて、おめおめと席に戻った。このバイキングは、男の敗戦であった。

 それをちまちまと食べ、ドリンクバーのウーロン茶を飲みながら、制限時間は過ぎた。だが、男は続けて執筆を続ける。前もって、店員に確認してあった。九十分経ったらバイキングは終わりだが、退席しなくても良いとのことである。

 執筆はいつまでも順調とはいかない。集中力も途切れ、男の指の運びも遅くなってきた。

 時刻は十時四十五分。朝食バイキングとランチの間の時間で、客はまばらになっている。

 ギアを変えるべく、男はグランドメニューを手に取った。このまま長居するのは申し訳ない。腹は空いていないが、何か軽く食べながら執筆しようと思ったのだ。

 メニューを眺めていると、懐かしい料理が目に入った。「山盛りポテトフライ」である。学生から社会人となって、友人と行く店は「ガスト」から「ココス」にレベルアップした。その当時よく注文していたのが、このメニューだ。

 男は店員を呼び、注文を告げた。同時に、ドリンクバーも改めて注文し直す。朝食バイキングで使っていたグラスでそのまま継続できそうだが、男は真面目だった。

 カリカリのポテトは、あの頃と同じ味がした。マクドナルドのポテトよりももっと細く、食感が軽い。文字通り山盛りだが、どんどん食べられる。腹が減っていたら、一瞬で無くなってしまうだろう。

 しかし、男の腹はほぼ満タンだ。当然その勢いはすぐに止まった。

 ポテトは備え付けの紙ナプキン越しに抓んだので、指はさほど油ぎってはいなかったが、おしぼりで入念に拭いた。

 男は再びキーボードに戻る。

 ポテトを抓みながらなら、気兼ねなく執筆できる。しかもこの量、このペースなら、たっぷり時間が取れるだろう。

 その後ゆったりとだが、執筆はまた進んだ。気分を変えたのは正解だった。

 十一時半近くになると、ランチの客が増え、店内は見るからに混んできた。朝とは客層も違うようで、家族以外と思われるグループが多い。そして何より、みな朝の数倍は元気になっている。言い換えれば、賑やかな客が多かった。

 そろそろ潮時か。男は考え、切りの良いところで筆を止めた。

 リュックに仕舞い、まだ三分の一ほど残っていたポテトに手を伸ばす。冷めてもカリカリだった。

 さて、これからどうしようか。流石にこの状態で、ランチは食べられない。デザートもちょっと、行けそうにない。

 ここは、大人しく退散の道を選択することにした。

 追加で注文したドリンクバーをまだ一杯しか飲んでいないことに気づき、貧乏性の男は、適当にドリンクを持ってきた。

 結局この日男が飲んだドリンクは、四杯だった。前回のガストでも、三杯くらいしか飲んでいない。自分にはドリンクバーは不要なのかもしれない。男はそう思ったが、かと言って水だけは嫌なので、きっと次も注文してしまうだろう。

 店を出て車に戻ると、春の熱気が満ちていた。エンジンをかけ窓を開け、冷房も入れる。パソコンが温まってしまうのは良くない。

 もうすぐ正午。執筆欲もお腹も満たされた。午後どうするかはまだ決めていないが、男の気分は天気同様晴れやかだった。
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