序章

エピソード文字数 1,949文字

 カツ、コ、コツ……、カツ、ココッ、カツ……。
 暗闇に支配されたイースト・エンドの街角に、女性の不規則な足音が響き渡る。
 ここは十九世紀のロンドン。
 霧の都というその名の通り、あたりにはにわかに霧が立ち込め始めていた。
「ったく。なかなかお客が見つからない上に、今度は霧ときたもんだ。ついてないねぇ……」
 厚めの化粧に、ところどころツギハギのついた安っぽいドレス。そして、右手には栓の開いたドライ・ジン。そんないかにも娼婦を絵に描いたような女性が、かくも寒々しい場所で、一人恨めしげにぼやき声を上げていた。
「やってられないよ、まったく……」
 いや、ぼやくのも無理からぬことだろう。
 なにせ季節はすでに秋も深まり、もうすぐ冬が訪れようかという頃合。おかげで夜更けの冷え込みようは殊更厳しいところだった。その上、夜霧まで出始めたともなれば、その冷え込みはなお一層のこと。これで客となるような男でも見つかればまだマシとも思えるのだろうが、その気配もいまだほぼ皆無となれば、憂さも溜まる一方というものである。
 だからこそ次の瞬間には、その溜まった鬱憤を晴らさんとばかりに、手にしていたドライ・ジンの瓶を口元へと運び、ぐいっと傾けていたのだ。
「んっく、んっく、んっく……、プハァーッ!」
 ただ、傾けた過ぎたせいか、口の端からはジンが一筋、顎先を伝って、路上へボタボタとこぼれ落ちていく始末だった。
 しかし、そんなことなどお構いなしの酔っ払い女。さして慌てることもなく、手馴れた調子でその濡れた口元をぐいっと拭うや、
「客になりそうな男でもいないもんかねぇ……」
 酒気とともに愚痴をぶちぶちこぼしながらも、また覚束ない足取りで歩き始めていた。
 カツ、コ、コツ……。
 ガス灯もまばらな夜の路地裏に再び鳴り響き出した、娼婦の千鳥足が奏でる酔いどれのリズム。その変拍子の独奏を、止めるものはなにもなかった。なぜならイースト・エンドの中でも、ここいら一帯は特に寂れたホワイトチャペル地区。こんな夜分にこの女の足音以外、他になにも聞こえてくるものなどなかったからだ。
 おかげで酔いにまかせた女の足取りは、留まることを知らず、人気のない通りもこのまま一気に通り抜けるかに思われた──が、その時、
 カツンッ!
 それまで不規則なリズムを刻んでいたヒールの音が、突如ピタリと止んだ。
 そして、ビルの物陰になにかを見つけたのか、
「そ、そこにいるのは誰だい! ま、まさか、噂の切り裂きジャックじゃないだろうね!?」
 その酔いの勢いを駆った怒鳴り声で、物陰の奥へとがなり散らしていた。
 だが、しばらく反応を見るも、答える者など誰も無し。
 ゆえに、このままだんまりを決め込んでいてもしょうがないと、娼婦もやむなく意を決したのだろう。やがて、ごくり唾を飲み込んで、恐るおそる右足を一歩踏み出していた。
 だんだんと暗闇に慣れる眼。
 ドクドクと、早鐘の如く打つ心臓。
 緊張の糸がピーンと張り詰める。
 しかし物陰の中を確認するや、途端そんな緊張など何処へやら。重っ苦しい空気は、跡形もなく一気に霧散していた。
「なんだい。おどかすんじゃないよ、アイリーン」
 なにしろそこに見つけたのは、見知った同業の顔だったから。
 赤いドレスを身にまとい、酔いつぶれたのか、路上で眠りこけている女性の姿があるだけだった。
 おかげでホッと安堵の溜め息を漏らす娼婦。
「こんなところで寝てると、風邪ひくよ」
 景気づけとばかりに、まだ微かに震える手でジンを無造作にあおった。
 ただ、またもや傾けた勢いが強すぎたのか、はたまた震える手が悪かったのか、女の口元からはジンが無数の筋を立て、顎先からぼたぼたと音を立ててこぼれ落ちていた。
 いや、ジンがこぼれたのは、そのどちらのせいでもなかった。
 微かな震えは、いつしか大きな震えへと変わり、
「ひっ!!」
 短い叫び声を上げて、娼婦が一歩後ずさっていた。
 そう。たしかに物陰でうずくまっていたのは、間違いなく同業の女だった。ただし、その身体は無残にも無数の傷を刻み込まれ、元は白地であったであろう絹のドレスも、ところどころ引き裂かれた挙句、その血で真っ赤に染め上げられていたのだ。
 焦点の定まらぬ眼はしっかと見開かれ、力なく垂れ下がった腕からは、ポタリポタリと血が滴り落ちている。まさしく生気の感じられない、厳然たる死の姿がそこにあった。
 そんな目の前の惨状に、娼婦はぺたんとへたり込まずにはいられなかった。
 そして一瞬の静寂の後、
「きゃぁぁぁぁぁぁあ!!」
 甲高い、絹を引き裂くような叫び声が、闇夜のイースト・エンドに遠く響き渡っていった。
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登場人物紹介

●ニコル・クロムウェル(Nicol=Cromwell)


グレーター・ロンドン庁からスコットランドヤードに嘱託検死医として派遣されている、第二検死課の医師。しかし、派遣以降、ニコルに回ってくる仕事は、第一検死課の手伝いか、最近実験的に導入されたばかりの指紋照合の研究をさせられるぐらいで、後は若手警官が医務室代わりに第二検死課へと来るぐらいのもの。だが、デイヴィッド警部に巻き込まれ、急きょ連続殺人の捜査に駆り出されることになるのだった。

●デイヴィッド・ターナー(David=Turner)


スコットランドヤードの熱血警部。5年前の切り裂きジャック事件で、新米警官として事件にあたった経験から、「今回の一連の事件は、やつのしわざじゃねえ!」と捜査本部の方針に猛反発。しかし、単身捜査をするのには限界があるため、前々から目を付けていたニコルを巻き込むことに。

●マリア・フローレンス(Maria=Florence)


聖ニコラオス孤児院で孤児たちの世話をする修女(シスター)。

もともと彼女自身も捨て子であり、ニコルと同じ聖ニコラオス孤児院で育った過去を持つ。性格は明るく、ニコルに頼まれ、同じシスターのマギーとともに街のうわさを聞きこむことに。なお、マリアに一目ぼれしたデイヴィッド警部から、それとなくアプローチを受けるが、本人はいたって気づいていない。

●スティーヴ・マルサス(Steve=Malthus)


スコットランドヤードのエリート警視で、デイヴィッドの上司。捜査の手法の違いからデイヴィッドと対立することが多い。新たにロンドンを恐怖の渦に巻き込んだ連続殺人犯を、切り裂きジャックの再来と信じて疑わない。

●マギー・フランクリン(Maggie=Franklin)


聖ニコラオス孤児院のベテラン修女。おしゃべり好きで、かつ、うわさ好きな性格なので、今回の事件のこともいろいろとニコルやデイヴィッド警部に聞き込んでくるが、その反面、町で聞き込んだうわさもいろいろと話してくれる、迷惑であり、ありがたい人物。


●ミネルバ・ファーガソン(Minerva=Ferguson)


聖ニコラオス孤児院の筆頭修女。真面目な性格で、厳格なクリスチャン。マリアやマギーが事件に首を突っ込むことをこころよく思っていない。

●ウィリアム・スチュワート(William=Stewart)


聖ニコラオス孤児院のあるイースト・エンド教区に務める優しき老牧師。孤児院に常駐しているのは修女たちで、ウィリアム牧師は週一回礼拝のときに孤児院を訪ねている。

●連続殺人の被害者 case1

アニー・スコット(Annie=Scott)


27歳。第一の被害者で、死因は失血死。

イースト・エンドのセントキャサリン地区で夜明けに死体が発見される。18箇所に及ぶ切り口が見られた。

職業は売春婦。

事件日は十月十四日。

●連続殺人の被害者 case2

ローズマリー・ジョーンズ(Rosemary=Jones)


23歳。第二の被害者で、死因は頚部を掻き切られたことによる窒息死。

イースト・エンドのホワイトチャペル地区で悲鳴を聞きつけた巡査がかけつけるも、事切れた状態で発見された。切り口は、死因となった頚部の一箇所と、腹部の七箇所の刺し傷。

職業は売春婦。

事件日は十一月十五日。

●連続殺人の被害者 case3

アイリーン・コックス(Irene=Cocks)


24歳。第三の被害者で、死因は失血死。

イースト・エンドのホワイトチャペル地区で夜明けに死体が発見される。29箇所に及ぶ切り口が見られ、ずたずたに腹まで割かれていたが、内臓はすべて揃っていた。

職業は売春婦。

事件日は十一月二十九日。


●連続殺人の被害者 case4

メアリー・リトル(Mary=Little)


21歳。第四の被害者で、死因は頚動脈の切断。

テムズ川のほとりで死体が発見される。腹がずたずたに割かれていたが、内臓はかろうじてすべて揃っていた。

職業はメイド。

事件日は十二月四日。


●連続殺人の被害者 case5

マーガレット・ウォルポール(Margaret=Walpole)


22歳。第五の被害者で、死因は失血死。

イースト・エンドのセントキャサリン地区で、夜明けに死体が発見される。腹がずたずたに割かれており、内臓の一部が持ち去られいた。

職業は教師。

事件日は十二月五日。


●連続殺人の被害者 case6(未遂)

フェアリー・コールズ(Fairy=Coles)


第六の被害者になりかけた女性。3件目の被害者アイリーン・コックスと顔見知りであり、その遺体の第一発見者でもある。

職業は売春婦。


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