8-3

文字数 2,191文字

 現世への帰路、ふいに周囲が明るくなった。柔らかな光の中を浮上しながら、麓丸は耳を傾ける。
「麓丸……」
「おや母上、おれの意識があっても出てこれるものなんですか」
「今のあなたは魂だけになっているから干渉しやすいの。そんな姿になってまで追いかけるなんて、()けちゃうわ」
「これは幼なじみ的措置です。勝手に死なれては寝覚めも悪いですしね」
「ふーーーーーーーーーーーーーん」
「そんなに伸ばし棒が連なると、もはやはっきり言うのと同じですね。何がとは言いませんが」
「まあいいけど。いいですけど。早くしないと着いちゃうし」
「そうですね。どうせ気にしても何も出てきません」
「ふんだ。せっかく素敵な報せを持ってきたのに」
 にわかに緊張が走った。母親が持ってくる「素敵な報せ」とは、息子にとってどのようなものだろうか。姿が見えないので、声色で判断するしかない。麓丸は反芻(はんすう)した。母上は今、ちょっとすねている。怒っているとまではいかない。原因は、自分が話に乗らなかったからだ。ならばあの口ぶりは「素敵な報せってなんですか」と聞いてもらうためのものではないか。しかし「持ってきたのに」の続きを考えれば、遠回しの脅しという可能性もある。「せっかく持ってきたのに、いつまでも意地を張ってるとこうだからね」と、万が一現物を突きつけられでもしたら、再起不能になるのは必定。家庭内助平のレッテルを貼られ、言動のすべてが猥褻(わいせつ)な意味へと変換されてしまう。だがそのような事態を母上が望むとは考えにくい。そもそも息子といってもただの息子じゃない。思春期の息子だ。つまりガラスのハート、デリケートの化身、パンドラの男子。性に関する事柄なら、尚のこと触れてはならない。母上がそんな愚を犯すだろうか、いやない。ああ見えて息子に似て聡明だ。よし、ない!
「ああ、もちろんあなたのエロ本の話じゃなくてね」
「ぐぼおっ!」
「どうかした?」
「持病の食道静脈(りゅう)が悪さしただけですのでお気になさらず……」
「男の子だもんね」
「可愛いっぽく言ってますけど瀕死に追い込んでますからね。心は吐血してますからね」
「発見したのは偶然だし、ちょっとパラ見はしたけど、整頓はしてないから安心して」
「暗黙のうちに死んでくれの略でアンシンですか。母上はとんだ悪女ですね。若かりし頃の父上は、これに籠絡(ろうらく)されたのでしょうか」
「あら人聞きの悪い。純粋に愛しあってあなたが生まれたのよ。知ってるでしょ」
「よくそんなことを恥ずかしげもなく言う」
「妻ですもの」
「……なんだか母上があいつと気の合う理由がわかった気がしますよ」
「だって、とっても良い子じゃない。麓丸もそれはわかってるはずなんだけどな」
「どうですかね」
「困った子ねえ。まあいいわ、なんだかタイミングがずれちゃったし、お報せはやっぱり麓丸が帰ってきてからにするわね。だから、あんまり遅くならないように。任務を果たして、プロポーズして、必ず無事に帰ること。いいわね」
「不要な手順は割愛するとして、概ね承知しました。おれにとって良い連絡であることを願っておきます。そちらも気をつけて、梅之助と待っていてください」
「はいはーい」
 すうっと暖かい空間が溶けていくと、闇が辺りを満たしていった。けれど真っ暗というわけではない。次第に広がりゆく世界めがけ、一気に飛び出した。

 後頭部にわずかな弾力を感じた。それから、髪を撫でる手のひらに気付く。(まぶた)の内側へ差し込む、夕映えの木漏れ日。かすみ掛かった視界の中で、長いまつげの下に垣間見えた(かげ)りは、沈みゆくあかね雲が重なると、どこかへ消えた。
「わたしのひざまくらの味はどう?」
「……味ってなんだよ」
 むくりと起き上がった麓丸は、左手の指をひねってみた。いつもの外す感覚がしない。体の内側としっかり繋がっているのがわかる。
「これも愛の成せるわざかしら」
「元はといえばおまえの尻ぬぐいだがな」
「いやだわロクったら。人の尻をぬぐう趣味があるの?」
「言い方!」
 まったく人騒がせなやつだ、と呟いたところで、鼻ちょうちんを膨らませている浮遊霊を発見してずっこけた。
「誤解がないように言っておくと、わたしが起きた時にはもう寝ていたわ」
「色々と逆な気がしてならんが、気にしないでおく。こいつは置き去りにするとして、おまえは……どうせ言っても聞かんのだろ」
「当然。こんな面白いこと、見逃せるはずないじゃない」
「はいはい、もう飛び出しは禁止だからな」
 第二の巻物の示す地、そして決戦の地へ向け、麓丸は駆けだした。不思議と怖くはない。呪いが解けたお陰もあるだろうが、それだけではない気もしている。何が変わったかはわからない。けれど活力が湧いていた。
 二人からの連絡は来ていない。麓丸は歩を早めた。最短距離で山中を突っ切った。そして、走りながらスマートフォンを取り出すと、あるサイトにアクセスした。トップページには、きらびやかな衣装で踊る男たちの写真が掲載されている。顔をしかめながら、麓丸はファンクラブ会員限定ページに入った。
「こんなところをクラスの連中に見られれば、何を言われるやら」
 独りごち、コンサートスケジュールからチケット先行販売日までを確認した。後日行われるであろう、女たちとのすさまじい争奪戦を思えば戦々恐々である。
 だが、もはや天引きする給料はなくとも、賞与は別だ。
 そういうことにしておいた。
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