第1話【ポンヌフの傍らで】

文字数 2,693文字

 オリビエ・ロジェは、セーヌ川に架かる観光名所、新橋(ポンヌフ)の傍らのいつもの場所で、観光客を相手にした「似顔絵描き」の仕事の準備を終え、最初の客を待っていた。生活の為だけに始めた仕事。大した収入にはならないが、慎ましい生活を送るには充分な稼ぎを生み出した。

 一応、オリビエは画家だと自称している。自室を改造したアトリエで、時間の許す限り心象画や抽象画の創作に没頭し、数年に一度は個展も開催している。とは言え、今までに目立った賞歴もなければ、高い評価を得たこともない。
 それでもオリビエは、自身の才能を疑ったことはない。評価されないことは残念だが、自分の新鋭過ぎる作風にまだ世間が付いてきてないだけ……そう解釈していた。そう、時代を先取りし過ぎただけなのだ。いつの時代でもそうだが、早出の天才は、リアルタイムで評価されることはむしろ稀なのだ……そう、自分に言い聞かせていた。
 しかし、いずれは理解される時がくるはず……その時に生きているかどうかは分からないが、自分の作品は必ずや後世に大きな影響を与え、例えばロマン派の幕開けとなったドラクロワのように、或いはキュービズムを生み出したピカソやブラックのように、美術史に名を刻むことになるに違いない……と、根拠のない確信を抱いていた。それが自意識過剰に過ぎないことに気付くこともなく、ピカソやブラックやドラクロワは、その在命中から高い評価を得ていたことさえ忘れ、評価されない原因を社会になすり付け、世の中を敵視していた。

 しかし、やはりと言うべきか、不条理に感じることは否めない。くだらない作品しか描けない画家が評価される一方、自分の作品が見向きもされない現実に。何故これ程の作品が理解出来ないのだろうか、どうして自分の才能が埋もれてしまわなければいけない羽目に合うのか、売れる為に大衆の低レベルな嗜好に迎合し、作品の質を落とすべきなのか……そんな葛藤から眠れぬ夜が続き、酒と創作に明け暮れる毎日を過ごしていた。

 やがて、オリビエは違法とされる薬物にまで手を出してしまった。朦朧とする意識の中、オリビエは見たこともないような風景に包まれていた。それはとても残酷で美しく、冷淡で幻想的な「絵」だった。
 目を覚ましたオリビエは、興奮していた。「何だったんだ、さっきの夢は!」……その色使い、その構成、アナモルフォーズを駆使した幾何学的な集積、タイポグラフィを応用したコラージュ、平面的なのか空間的なのかも判断しかねる構図、具象画なのか抽象画なのかも分からない……ネオダダイズムの延長なのか? シュールレアリズムの発展なのか? それとも、これはアッサンブラージュを進化させたものなのか? ……いや、一種のコンセプチュアルアートには違いないだろうが、そんな既存のカテゴリーに納まるようなものじゃない。何をとっても斬新そのもので、これをキャンパスで表現すれば、今度こそ高い評価を得るに違いない……オリビエは、そう確信した。
 その為にも、もう一度でいい、あの「絵」が見たい。もう少し脳裏に焼き付けたい。自分では考えも付かない色彩の魔術を確認したい。せめて、人類が生み出したとは思えない奇跡的な構図だけでも習得したい……そんな思いから、再び薬物の力を借りることにした。

 しかし、何度試みても、その夢は蘇らなかった。あの「絵」を見てしまってからは、自分の作品のくだらなさ、才能の凡庸さを痛感してしまい、自然と創作意欲も失ってしまった。
 いや、ポジティブに捉えれば、描きたい方向性が明確に示されたとも言えるだろう。しかし、実力が伴っていないことに気付いたのだ。その為にも、せめてもう一度、あの「絵」を見ないといけないのだ。その焦燥と希望と絶望のトライアングルが薬物の量を増やし、ついにオリビエは睡眠と覚醒の判別さえ付かない生活へと陥った。

 もう諦めるしかないのか……ついにそう決断しかけた時、吹っ切れたように長く深い眠りに就いた。そして、その夢の中で、再びあの「絵」の世界に舞い降りたのだ。
 夢と知りつつ、オリビエは神に感謝の祈りを捧げた。そして、その「絵」を隅々まで、心に焼き付けた。目が覚めたら、この「絵」をキャンパスにトレースしてみせる……夢の中でそう決断した。

 明くる日、オリビエは目覚めるなりアトリエに籠り、そのまま3日間不眠不休で描き続け、一気にあの「絵」を完成させた。とても人類が描いたとは思えない、誰も見たこともないような前衛的な作品が仕上がった。
 また、この作品を描き上げたことで、知らず知らずのうちに様々な技法が習得出来たようだ。色彩や構図も過去の作品から大きな変貌を遂げ、具象画と抽象画を混在させた独特の世界観を確立させ、湧き出る創作意欲を次々に作品へ投影させた。

 急激で画期的な作風の大転換により、オリビエの評価も大きく変わることになった。数日後に開催した個展で、新たに生み出した手法での作品群を発表したところ、大きな成功と名声を得ることになり、飛ぶように作品は完売したのだ。このことは、早速ロンドンで刊行されている主要紙「The observer」で《新しい美術の幕開け》と大々的に報じられたことを機に、フランスの「Le Monde」、アメリカの「The New York Times」や「The Washigton Post」、ドイツの「Berliner Morgenpost」、中東の「Al-Jazirah」など、世界の主要メディアでも大きく取り上げられた。

 その結果、世界中から個展の開催依頼が届き、作品の注文が殺到した。どれだけ描いても注文に追い付かなくなり、世界で一番売れている画家と紹介されるようになった。

 それでも、創作のアイデアは絶えることなく湧き出した。あの「絵」をきっかけに確立した独自の手法は、いつしか「ロジェイズム」と呼ばれるようになり、模倣する画家も急増した。世界中からやってくる弟子志願者も後を絶たず、「ロジェイズム」は美術史に於いて、「ドラクロワ以降、アールヌーボーに匹敵する衝撃と転換」と評されるようになった。
 不思議なことに、全く見向きもされなかった過去の作品でさえ、「ロジェイズムの原点」と見直され、高く評価され出したのだ。

 ポンヌフの傍らのいつもの場所で、うたた寝をしていた売れない画家は、そんな長い夢から目が覚めた。

「はぁ~あ、いっそのこと、今の夢をネタに小説でも書いてみるか」
 そう独り言を呟いたオリビエが、数日後に書き上げた短編小説が本作である。
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