第35話 東京大空襲

文字数 2,109文字

「浅草、本所、深川、要するに下町と呼ばれる人口が密集している地区になる。そこに超低空で飛来したB-29が325機だ。江東区・墨田区・台東区にまたがる40平方キロメートルの周囲に長時間燃焼するナパーム製高性能焼夷弾を投下し、火の壁をつくり住民の逃げ道を塞いだ。その後、その内側にM69という新型焼夷弾を含め33万発以上1700トンに上る焼夷弾を投下した。その第一弾は0時8分だった」



「夜中」
「そう、人々が寝静まる頃だ。空襲警報が発令されたのは遅れて0時15分、それからおよそ2時間半にわたって波状絨毯爆撃が続いた。逃げ惑う市民には超低空のB-29から機銃掃射が浴びせられた」

「2時間半もですか」耳を塞ぎたかった。しかし、聞かなければならない。

「東京大空襲は、あらかじめ計画された無差別集団殺戮だったんだよ。それも区域内にいる市民をすべて焼き殺すために綿密に立てられた殺人計画だった。
 通常の作戦であれば、工場などの生産設備や、電力、水道、通信施設などのインフラを狙い定めて破壊する。これであれば市民の被害が少なくてすむからだ」

「いんふらって、ないじゃしか?」
「なんと言えばいいんだろう? たとえば道路もそうだ。要するに基盤、土台になるものだね。いま言ったけど、電気もそうだし、水道もそうだ。
 米軍が使った焼夷弾は日本家屋に火災を発生させるために新たに開発したM69油脂焼夷弾だ」

「そん、いんふらじゃのうて、家を焼っためと?」
「そうだ。その日は風が強かった。折からの風速30メートルの強風に乗って、炎は一気に広がった。炎から逃げ惑う市民には超低空飛行のB-29から機銃掃射が浴びせられ、隅田川に逃げ延びた人たちも、焼夷弾の炎で焼き殺された。犠牲者の屍は炭化し、熱でおなかが炸裂して胎児が露出した妊婦もいた」



「なんちゅうこっを……」
「ハーグ陸戦条約という1899年に制定された条約がある。その第25条に『防守されていない都市、集落、住宅または建物は、いかなる手段によってもこれを攻撃または砲撃することはできない』と定められている。各地の空襲も含めてだけど、東京大空襲はこの国際法に明らかに違反した、まさに戦争犯罪だった。
 東京大空襲は、広島、長崎に落とされた原爆の惨事と並んで、人類史上最大の虐殺だったんだ」

「やっぱい鬼畜米英やったんじゃなあ」
「いや、アメリカだ。この戦争で、これほどの残虐非道を行ったのは米軍をおいて他にない。東京の人たちは、一瞬ではなく、逃げ惑い、機銃掃射に体を蜂の巣にされ、炎に焼かれ、水を求め、死んでいった。その数10万人、罹災者は100万人を超えた」
「10万人──言葉が出らん」


子を背に逃げ惑った姿が痛ましい。背中には子を背負った跡が白く残る。

「もちろん、アメリカ政府のみならず軍部内でも、一般市民を対象にした大々的な空襲を行うことに大きな抵抗があった。そのために嘘をついた。それは、日本では都市の家庭内で軍需品の部品を生産しており、各家庭が軍需品工場の役割も果たしているという大嘘だ。
 開戦時700万人だった東京の人口は、敗戦時には250万人に減った。
 アメリカはこれらの人道に反した行為を真摯(しんし)に受け止め、反省しなければならない。それならいつかはきっと、日本人は赦すに違いない。時代だったんだと。
 しかし僕は、許すべきではないと思っている。なぜなら佐智、米軍は生物兵器や化学兵器の使用まで検討していたのだから。およそ正常な人間の考えつくことではない。
 しかし、恥ずべきは日本政府や大本営でもあるんだよ佐智。東京大空襲の後に小磯首相はラジオ演説でこう言った。敵は、今後ますます空襲を激化してくると考えられるが、敢然として空襲に耐えることこそ勝利の近道である。断じて一時の不幸に屈することなく、国民が聖戦目的の達成に邁進することを切望する、と」

「大空襲ん後にと?」
「そうだよ。佐智は空襲予告ビラを知っているかい」
「知りもはん」
「全国各地で上空から米軍機が散布したものなんだ。日本全国、ほぼ予告通り空襲を受けている。憲兵司令部は火消しに走った。そして、各地の空襲とともに東京大空襲が起きた。
 ここが肝心だよ佐智。東京大空襲の日に信じられない命令が出た。
『敵のビラを届け出ずに所持した者は最大で懲役2ヵ月に処する』というものだ。
 体制に(くみ)する者は体制を守ろうとする。それが人間の愚かさであり、弱さだ。だからこそ佐智、おかしいと思うことには、それは違うんじゃないですか、と声を上げる勇気を忘れないで欲しい。僕は軍人だから上の命令は絶対だ」
 杉浦さんは、ふっとおかしそうに笑った。

「それを日本語で、腰抜けというのだ。だからそれは佐智に託そう」
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