第120話 眼鏡

文字数 780文字

 あるとき、食器を洗っている陸人に尋ねた。
「その眼鏡、近視なの?」
 藍が後片付けを手伝うと言っても、それだけは依然として許してくれない。そんなことをさせるわけにはいかないと言い張るのだ。
「そうです。以前は使い捨てのコンタクトレンズを使っていたんですが」
「そう。救急車の中では、かけていなかったものね」
「はい」

「ねぇ」
 藍は、陸人の横に立って、その顔を見上げる。
「あのときは、それどころじゃなくて、よく見ていないの」
「……はい?」
 陸人が、藍の顔を見下ろす。
「眼鏡を外して、顔を見せて」
「えっ!?
 声を上げたのと同時に、陸人の手から、皿がつるりと滑って落ちて、シンクのステンレスに当たって派手な音を立てた。
 
「なっ……何を急に」
 あわてて皿を拾い上げた陸人が、蛇口のコックを思い切り捻ると、皿に当たった水が盛大に飛び散った。
「きゃっ!」
「あっ、すいません!」
 すぐに陸人が水を止めた。
「あぁ……」
 藍は、自分の体を見下ろす。白いニットを着た藍の胸から下がびしょびしょになってしまった。
 
「タオル!」
 陸人が、叫びながら、タオル掛けからタオルを引き抜き、水滴を拭き取ろうとした手が、藍の胸のふくらみに当たった。
「あっ、すいません!」
 陸人は、あわてて手を引っ込める。
「着替えて来るわ」
 藍は胸を押さえて、逃げるように部屋を後にした。
 
 
 服を着替えた藍は、ベッドに腰を下ろす。なぜだか、ドキドキが止まらない。
 たまたま胸に手が当たったくらい、たいしたことではないし、別に陸人のことが好きなわけでもないのに、自分はいったい、どうしてしまったのだろう……。
 こんなことくらいで、いつまでも部屋に閉じこもっていては、返って陸人に変に思われてしまう。
 真佐がいてくれればいいのだけれど、こんなときに限って外出している。古い友達が入院したとかで、お見舞いに行っているのだ。
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