第2話 堀川汀子

文字数 1,256文字

 堀川汀子は足下を確かめながら自転車を降りると、赤いゴム長に入ってしまった黒いコートのすそを引っぱり出した。赤いニット帽をあえてだらしなくかぶり直し、目蓋を半開きにして口元を緩める。こうすると虚ろな雰囲気になるのだ。それから田代餅店と書かれたガラス張りの引き戸を開けた。
「汀ちゃん、さっきのは危ねえって」
  店に入るなりストーブにあたっていた田代八重子に言われた。その横には崎野トメがいる。ひまさえあれば、いつもこうやって井戸端会議をして、誰彼問わず話題にしてけなすのだ。さっきまで、わたしのことも話していたにしていたに違いない、と汀子は思った。そうすることで、自分たちの人生が他の人より少しだけ良かったと思いたいのだ。
「あれだっけ、市電さ轢かれても文句言えねぇよ。それに、雪で滑っから自転車はよした方がいいんでないかい。おっかないって」
  汀子は矢継ぎばやに話す八重子に、言葉荒く言い返したかったができるだけ無表情に努めた。崎野トメが八重子に囁くのが聞こえる。
「汀ちゃん、うつになってだいぶ経つけど、ずんぶ悪くなってるみたいね」
  二人が憐れむような顔をこちらに向けているのを見て、汀子は小躍りしたくなるのをぐっと堪えた。いつも以上に足取りをたどたどしくすることに注意を集中する。感情が表情に出ないように気を付けながら、抑揚をつけずにくぐもった声で言った。
「べこ餅十個ちょうだい」
「貴ちゃんが来んのかい?」
 八重子が引き出しから紙袋を出して言った。
  汀子がうなずくと、横からトメが「貴ちゃん、ここのべこ餅大好きだもね」と言った。
「うんだ。その日にできたのを食うのが一番うめえって言ってた」
  八重子はべこ餅を紙袋に入れ終えると、その口をテープで閉じながら言った。汀子は無言で、それを受け取る。
  店の外に出た汀子は、紙袋を自転車のかごに入れた。相変わらず猛吹雪だが全く気にならない。皆が自分のことをうつ病だと信じきっている。
  息子の貴昭に言われた通りにしているだけで、生活保護に加えて障害年金も手にできるようになった。
 四十を過ぎても定職に就かず、悪知恵だけは働く息子には困ったものだが、あの子を育てた自分のせいでもあるのだ。だから、これからもわたしが面倒を見なければならない。きっとあの子は、わたしがいなくなったら路頭に迷うことだろう。
  でも大丈夫だ。わたしたち親子は何かに守られている。あの時からずっと……。わたしたちを捨てて夫が出て行ったあの時からずっと……。だから市電の前に飛び出しても、絶対にひかれないのだ。そうだ、わたしたちは守られている……。
  今日は息子が最近買ったオリンピックのような印のついた車でやってくる。毎月の小遣いと好物のべこ餅を用意したから喜んでくれるに違いない。少なくとも殴られることはないだろう。
  汀子はペダルを漕ぐ足に一層力を入れた。凍結した道でも、決して転ばないと言わんばかりに。雪のついた紙袋が、かごの中で小刻みに震えていた。
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