第1話

文字数 1,997文字

 ザ、ザ、ザザ、ザアーッ。
 まるで、勢いよくホームベースにつっ込んだのはいいけれど、アウトになってしまった野球選手のようだった。
 電車は、行ってしまった。
 いつもなら、「なんてことはない。あと、ほんの47分待つだけだ」と思うだけだ。リュクには常に、文庫か新書が一冊入っている。今日は、「世界史を変えた薬」佐藤健太郎(講談社現代新書)だ。昨晩の続き、「第7章 サルファ剤 道を切り拓いた「赤い奇跡」」が楽しみだ。
 しかし。
 今は、そんなゆうちょうなことを言っている場合ではない。
 浴衣軍団から逃げなくては。
 浴衣軍団――。スポーツ新聞のガセネタだと思っていた。記事によると、「都内に神出鬼没にあらわれる浴衣軍団。ロボコップのようなお面をつけ、男性の(古典柄の)浴衣を着た30名程度の集団。目的は不明」だ。
 それが、こんな不便な田舎(コンビニもロクにない)にあらわれるとは。
 田舎は不便だ。「くるりん☆8」のイベントがあっても、上京にイチイチお金と時間がかかる。まあ、田舎に住んでいなくても、チケット自体なかなか当たらない(最近ようやく少しずつ当たるようになってきたけど)から、リアタイの配信で見ることも多い。でも、現地で見るとやっぱりよくて、映像を通しては伝わらない、オーラっていうか、雰囲気があるんだよね。やっぱり生はいい。
 で、現に浴衣軍団に追われ、生体験して、奴らの目的が感じ取れた。奴らは、仲間を増やしたいんだ。奴らに捕まったら最後、僕も浴衣軍団になってしまう。そうなったら、イベントに行けなくなる。せっかく課長に嫌な顔されてもさっさと帰れる職場を選んだのに(どうせ職場では「いるかいないか分からない奴」なんだ。遠慮なく推し活に精を出すさ)。
 ド、ド、ド、ドーーッ。
 どうする? 浴衣軍団はもう、すぐそこまで来ている。
 「こっち!」
 線路上にトロッコがあった。トロッコから僕を呼んだのは――。
 「りなりな?」
 「くるりん☆8」で三番目の人気者。僕の最推し。「自分史を変えた推し」だ。「赤い(りなりなのカラー)奇跡」だ。しかも、なぜか浴衣姿。
 僕は考える間もなく、トロッコに飛び乗った。と、その時、ホームに浴衣軍団があらわれた。このトロッコにはエンジンが付いているらしく、りなりながスイッチを押すと、軽快に動き始めた。浴衣軍団はもの凄いスピードで追いかけてきたが、やがて力尽きた。
 「ケガ、なかった?」
 心配そうに、りなりなが僕の顔を覗き込む。
 「な、な、ないです」
 「よかった」
 りなりなが僕に笑った。もう死んでもいい。
 「一つ、お願いしていい?」
 「何なりと」
 「ねえ、わたし達、どこへ向かっていると思う?」
 推しとファンって、一緒にどこかへ向かっていいんですか。
 「まずは友達から」
 「……ごめんなさい。浴衣軍団の王のところよ。浴衣軍団の王は、」りなりなは言いにくそうだった。「めろりんなの」
 めろりんは、「くるりん☆8」の一番人気(カラーはライトグリーン)で、リーダーだ。
 「どうして……」
 「このところ、『くるりん☆8』の人気が少しずつ落ちてきているの、知っているよね?」
 「僕には関係ありません」
 「ありがとう。でも、めろりんは、リーダーの責任感からとても悩んでいた。その心の隙間に、悪魔浴衣が入り込んで、めろりんの負の感情を増幅させたの。浴衣軍団は、めろりんの、ファンを増やしたい願望がつくった。最初はコアなファンから取り込んで、じょじょに一般人に軍団を広げる計画だった……」
 だから、僕を狙ったのか。
 「でも、どうして僕のピンチが分かったんですか?」
 「千年前から悪魔浴衣と戦ってきた天使浴衣が、わたし達にいろいろと不思議な力を貸してくれたの。めろりんの居場所は、ゆきゆきが足跡を辿って分かっている。今のめろりんには、あなたのような純粋な人が必要なのよ」
 「行こう」
 「ありがとう。その言葉で、わたし、飛べる」と言って、りなりなは僕を抱え、飛んだ。

 ああ、今となっては、いい思い出だ。あれから数年後の解散コンサート(現地で見れてよかった)は、思いっきり泣いたよ。でも、めろりんは、ほっとしたような笑顔だったな。
 めろりんやりなりなだって、がんばったんだ。僕も何か新しいスタートをきらなくちゃ。
 「向こうでも達者でな。息子のように思っていた君がいなくなると、さみしくなるよ」と課長は言った。
 みんな、泣いていた。経理のエリちゃんも泣いていた。解散コンサート並みに泣いていた。みんなから僕は「いるかいないか分からない奴」扱いと思っていたから、意外だった(両親はあっけらかんと「お前の好きにすればいい」だったけど)。
 「都会の夏はでここより暑い。体には気をつけろよ。実家に戻ったときは、顔出せな。これは、ささやかだけど餞別だ」
 古典柄の浴衣だった。
 「大切に着ます」と僕は言った。
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