ここは『月の裏側』だ。

文字数 4,549文字

 重要な箇所の電磁アクチュエータが火花を散らし悲鳴を上げている。
 ただの整備不良、と言ってももはや整備の資材も技術も残されていないので、維持保守なしでの寿命と言っていい。むしろ、今までが奇跡的によく保っていた方なのだろう。
 この居住コロニーは、間もなくバラバラになる。もう駄目なのは可動部の大型アクチュエータだけではない。おそらくほとんどの構成部品が寿命が近く、既に破壊的損傷を受けているものもも多いだろう。ただ、生命維持に致命的ではないので、わたしはまだかろうじて生き延びているだけだ。
 月は環境改造(テラフォーミング)されていない。計画は無数にあったし、幾度かの試行もあったものの、ついにこの衛星に人類が生存出来るだけの大気をまとわせるには至らなかった。
 居住コロニーが損傷し月面環境に放り出されてしまえば、わたしに限らず、人間ならあっさりと死ぬだろう。
 つまりは、わたしは間もなく死ぬ。
 だから、せめて記録を残しておこうと思う。

 月面勤務の辞令が内示されたときは、人口の集中する月面都市勤務と思っていた。月の極に近いシャクルトンクレーター近くの、人口は五万を超える月面随一の大都会コロニーだ。
 ところが蓋をあけてみれば、月に向かう定期シャトル内で告げられた転勤先は、月の裏のど真ん中、赤道上にあるダイダロスクレーター近くの居住コロニーだった。もちろん直行便などはない。
 かつては深宇宙を観察しようと超超弩級望遠鏡が設置された天文台を中心に、エンジニアや研究者の居住地域が広がり一定程度は栄えていたが、今ではほぼ放棄され廃墟となっていた。域内の人口は数人でしかない。
 代替わりを繰り返すたび巨大化し、ついには月のラグランジェ点からも人間が視認できたという巨大な電波望遠鏡は既に使われていないオブジェとなっていた。現在では深宇宙の観察を行うには、重力の影響を排するため、太陽系の天頂方向へ逃れた座標に建造した大型人工構造体から行うようになっている。
 商社の調査員であるわたしの業務は月での希少資源の調査であった。
 月地殻も構成成分としては申し分ない量の希少金属を含んではいるものの、鉱脈のような形で偏在せず広く分布しているため、およそ採掘の採算性に乏しい。
 太陽系の資源採掘史で言うなら、人類が月に常住するようになったのとほぼ同時期に、地球近傍小惑星(ニアアースアステロイド)から、極めて採算性の高い形で資源を採掘できたので、月の資源開発にはほとんどヒト・モノ・カネが投入されず未開発のままであった。
 次の時代である内惑星の間を人類が自在に行き来しはじめた頃には、木星と火星の間の小惑星帯(アステロイドベルト)から資源を採掘するようになり、やはり月は資源の採掘対象としては顧みられることはなかった。
 そして現在。太陽系全域を人類が支配し、海王星以遠のエッジワース・カイパーベルトまで足を伸ばすようになり、再び資源の逼迫が始まっていた。
 外縁天体にも資源は豊富であったし、極めて低廉なコストで採掘可能な小天体も多かったが、要は輸送コストの話になる。地球近傍の資源は既に掘り尽くしていたが、外惑星以遠から資源を輸送するのは割にあわないのである。地球の文明維持には資源が必要なのだ。
 前振りが長くなったが、そこで我が社は、太陽系内交通の要所(ハブ)として重要な地でありながら、資源開発ではほぼ放置であった月の調査に乗り出し、わたしを派遣したのだ。
 とはいえ花形である地球勤務からの異動で月辺境勤務というのは、かなり手酷い左遷であるのは間違いなく、やる気があるかと言うと全くなく、毎月代わり映えしない内容の事実上の進捗皆無を報告するレポートを地球本社に送り、しかしそれでも帰ってこいとは言われないので、ずっとここにいる。

 実は月の生活自体はそれほど苦ではない。いや、むしろ地球よりも居住環境としては間違いなく肌に合っていると思う。
 エネルギー源となるヘリウム3も酸素も地殻内に豊富にあり、試掘をいう名目の自動採掘で個人レベルで利用するならほぼ無限に近い感覚の量が採取できた。
 食事も、放棄された廃墟の中で、かつての入居過程で使われていたであろうレシピデータをよく発見できたので、それを食料合成装置(プラント)に食わせることで様々なバリエーションの食事を楽しむことができている。
 他人と会えないこと以外にはほとんど不満はないのだ。
 つまりは、わたしによく合っていると言える。

 急に、通信が途絶えた。
 自室から通信する相手は、居住するダイタロスコロニー群の管制室、大都市シャクルトンコロニー群の移民管理室、そして地球の本社への直接通信、の三箇所だったが、どれも突然繋がらなくなった。これ自体はたまにあることで、旧式の通信装置が接続不良を起こしており、修理は可能である。こちらへ来てからは数回行っている。
 今は、銀色で縫い目のない、身体に密着したタイプの宇宙服を着て、与圧室にいる。コロニーから外部に出る扉がある部屋だ。
 正直なところ、わたしはこの宇宙服はあまり好きになれない。機能としては十二分であるし、身体の線が露骨に出すぎるのがどうにも嫌だった。かと言って旧式の物々し(ごっつ)いタイプも手足の可動範囲に制限が出て扱いにくく、悩みどころだった。
 とはいえ。この地域では他人と出会う確率はほとんどない。全裸で外部環境に飛び出したとしても、見咎められることはほとんどないだろう。気にする必要もない。
 外に出ると、とても明るかった。
 大気がないぶん、太陽光が減衰することもなく、人工構造物の細部までよく見える。地球よりもくっきりと全てが見える。それだけ人体に有害性の高い環境とも言えたが、装備でそのあたりは充分に守られ問題はないはずだった。
 外部に置かれている通信機器を一通り調べると、特に問題は見られなかった。接続は問題ないし、セルフチェックも通る。
 もとより老朽化著しいのは判っているので、遠からずそう取っ替えする必要はあるだろう。前から予算申請は最優先でしている。

 ふと、天頂を見上げる。
 そこには、ありえない姿があった。
 虚空に浮かぶ赤く染まった地球の姿、だった。
 ここは、『月の裏側』だ。地球の方向は常に足の下の筈――、頭上に見えるはずがない。

 声を上げそうになった。
 海が赤くなった地球の姿は、とても不吉に思えた。

 それから、わたしは、月の各所を巡って人の痕跡を探し回った。あちこちのコロニーで、多くの人間の外傷のない死体を見ることになった。大都市では、僅かな生き残りが地球へ向けて逃げ出そうとし、シャトルが墜落した痕跡をよく見つけた。おそらく太陽風の環境が変わりすぎてまともに飛べなくなっているのだろう。
 もう自分以外の人間はほぼ生き残ってはいない、と結論付けるのに三ヶ月はかからなかった。各地の生きている通信機器で地球はおろか火星まで届く大出力で呼びかけても、返事が戻ってきたことはなかった。人口が集中するところは、ほとんどやられてしまったようだった。
 理由はわからなかった。例えば、大規模な太陽面爆発で放出された高エネルギー荷電粒子で、人類文明は焼き尽くされてしまったのかもしれない。しかし、調査をする時間も方法もない。
 わたしのような、たまたま直接死亡を逃れた極めて数少ない人間はいるのだろうけれども、おそらく、連携も取れないうちにそれぞれ死んでいくことだろう。

 つまりは、人類は滅んだのだ。

 そのとき、わたしがどういう思いを抱えていたかと言うと、
 正直、なんとも思わなかった。
 不思議なくらいどうとも思えなかった。

 月の大都市から細かい基地までめぐり、資源資材を集めて回ったので、もう当面何もしなくても生活自体は可能である。おそらく、一人で細々生活するなら百年くらいは余裕だろう。
 
 面白いことに、人類が滅びても、結局わたしのやることは変わらなかった。
 自動採掘機による資源調査をし、空振りをし、レポートを作成する。
 会社も上司も無くなったので、報告先はなくなったが。

 しばらくの時が経っても、同じ生活を繰り返していた。
 相変わらず、他との連絡は取れていなかった。
 肉体年齢だけは、若いままをずっと維持できていた。企業づとめの給料ではとても維持できなかったであろうが、今は機材でも資源でも使いたい放題だった。
 どっちにしろ生活環境もガタが出始めているし、わたし個体の寿命とどちらかが、先か、という話になるだろう。思いの外、ストレスが少なかったせいか、脳組織はまだまだ持ちそうだ。

 地殻調査に、いつもと違う反応が、かすかにあった。
 採掘物を分析する旧式の分光光度計に、いつもと違う反応があったのだ。それは、いつも見慣れていなければ見落としてしまうような微小な差異でしかなかった。
 しばらく調査を進めると、人類を滅ぼした何かの作用で生まれたのか、特殊な鉱石が月の地殻に見受けられるようになったのが判明した。もとより、偏在しないことが月地殻の資源化の課題であったので、鉱脈化したものを発見できたら、わたしが月へ来た本務を果たせたも同じだ。

 最後のレポートをまとめながらわたしは考える。
 わたしは、あとどのくらい生きられるのだろうか。
 鉱脈の詳細な位置や試掘データを含むこの最後のレポート(ラストレポート)は、金銭的価値でいうなら莫大なものであろう。しかし、今では欲しがるものも、活用するものもいない。 
 これが、こんなものが、わたしの思い出なのか、と思うと少しさびしくも思い、一方で数十年かけて目的を果たした達成感も確かにあった。

 やることを無くしてからは早かった。
 日に日に居住コロニーの稼働異音は大きくなるし、時間経過の体感も短くなっていった。
 次に始めたのは、蟾蜍(ひきがえる)を探すことだった。
 月にうさぎ、というのは太古の昔から月面の模様がそう見えることからの定番モチーフであったが、古い時代のアジアの記録には、月兔(うさぎ)とならび蟾蜍が月に住んでいたとされるものがある。
 もちろん、ほぼ真空の月の表面ににウサギもカエルもいるわけがない。
 時折、月面で動くものを見かけた気がして、その正体を追っているのだ。
 これは、わたしの寿命までには終わらないことが前提の調査だった。
 もちろん、今の段階ではほとんど何も判ってはいない。

 さて、居住コロニーの損傷は進み、もう駄目のようだった。
 わたしは、最後は外に出ようと思う。中にいるのも、もう危険かもしれない。
 そして、宇宙服の酸素が切れたら最後だ。
 地球を見あげながら、最後を迎えようと思う。
 あの、不吉な真っ赤に染まった海も、数十年経て次第に色が薄まってきている。
 また、地球に文明は興るのだろうか。
 また、月に知的生命体はやってくるのだろうか。

 わたしは、人類最後なんか背負わずに、誰の思いも背負わずに、ただ当たり前に死にたい。
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