第1話

文字数 1,940文字

 柔道部朝練以外でも、俺は始発で高校へ通う。
朝5時、東の空に(わず)かにオレンジが(にじ)んでくる。

 電車内ボックスシートの窓側に、鈴木美織(すずきみおり)を見つけた。
制服のシャツ、一番上のボタンを開け、窓ガラスにもたれかかる気怠(けだる)い感じは、「裏鈴木(うらすずき)」だ。

「おはよう」
「おはよう栗原君」
 手招きする裏鈴木。俺は向かいに座る。

「今朝は裏鈴木だね」
「当たり」
 裏鈴木が微笑むと、俺は胸がギュッとなる。痛々しくて。

「大丈夫?」
 口下手の俺はそんなことしか言えない。

「大丈夫」
 裏鈴木は一呼吸おいて、

「お義父(とう)さん、やっているとき、みーちゃんごめんね、ごめんねって謝って、ならやるなよって話だけど、まあ、養ってくれるし、大丈夫だよ。優しいなっ、栗原君は」

 顔をふにゃっとさせて笑う。
「抵抗しなければ割と早く終わるし、学習したのよアタシも」
 鈴木は同級生だけど、裏鈴木はずっと大人にみえる。


 5時23分になり始発電車が出発。
6時近く、朝日が車内に満ちてくると裏鈴木は消える。目の前にいるのは、姿勢を正してシャツのボタンを留めなおす無口な鈴木。(おもて)の鈴木だ。
 鈴木はスマホを取り出し下を向く。

 俺と鈴木は三依市立白羽(しらはね)小中学校からの幼馴染。
そして高校は遠路(えんろ)はるばる野崎農業高校まで、始発で通っている。
 鈴木の部活は食品加工部。調理室を通りかかったとき、林檎ジャムの甘い匂いが漂っていた。


 鈴木とは特別仲がいいという訳ではなかったが、過疎地の小中学校で小さい頃からずっと一緒。なので俺は裏鈴木の出現にすぐに気がついた。

 鈴木の母親が再婚したのは中学3年生のとき。浅川から鈴木に名字が変わった。
母親が夜勤のときを見計らい、義父は入浴中の鈴木を(のぞ)くようになり、次にベッドに潜り込みパジャマの中に手を入れるようになり、そして今に至ると、裏鈴木はひとごとのように語った。
 鈴木が髪をショートにしたのはその頃だ。そしてぽっちゃり体形は見る見る痩せていった。

「ごめんね、ちょっと確認するだけ、ちょっと我慢してねって言いながら。それでアタシがやめてっ!て言ったら、少しぐらい我慢できないのかって急に低い声で人相変わって、あ、これ逆らっちゃダメなやつって」
「でもね、避妊はしてくれるし、生理のときは我慢してくれる」

 俺は何と返したらいいのかわからず黙り込む。

 鈴木が耐えられそうになかったから、義父の行為の最中だけ鈴木を一時的に引っ込めて、裏鈴木が身代わりになっているという。
「これって解離性同一性(かいりせいどういつせい)障害って言うらしいよ。解離性障害の中で一番ヤバいやつみたい」
 裏鈴木はやはり、ひとごとのように。

「大丈夫、そんな顔しないで」
「無理に笑うなよ」
「こんなことはどうってことないって、笑いたいのっ」
 裏鈴木が微笑むと、泣いているように見える。

 裏鈴木は夜に現れ矢面に立ち、傷を負ったまま朝日とともに消えるのだ。



 高校3年の冬、俺は推薦で県外の大学に合格した。
「栗原君、おめでとう」
「鈴木さんも牧場に就職決まってよかったね」
「うん。社員寮があるんだ、就職したらもうここには戻って来ないと思う」
 そうなんだ。

「牧場の朝は早そうだね」
「朝早いのは慣れているし」
「そうだね」
 二人で笑った。

 冬は好きだ。なかなか明けない空と澄んだ空気。雨の日も好きになった。裏鈴木と一緒にいられる時間が、ほんの少し延びるから。
裏鈴木と一緒のとき、お互いスマホは見ない。
二人で車窓を、そして期限付きの二人の時間を静かに眺める。



 卒業式の朝。
裏鈴木は窓にしなだれかかり、流れる景色を見ながら言った。

「栗原君、今までありがとう」
「いや俺は、何の役にも立てなかった」

「ううん、世界中でたった一人、栗原君だけがアタシを知っている。それだけで十分」

 裏鈴木は鞄から茶色い紙袋を取り出した。俺に向き直って、
「これ、あげる」
 中身は林檎ジャムだった。

「美織にバレないようキープしておいたんだ」
「ありがとう」

「泣かないでよ」
「泣くよ、だって今日でさよならなんだろ?」

「明日引越しなの。アタシの役目は今日でおしまい。あとは美織に頑張ってもらう」

「もう会えないの?」

 窓の外、東の空から光が漏れてくる。裏鈴木は鼻の頭をこすりながら、

「あのね、柔道の試合、たまに美織を押しのけて応援していたんだ……栗原君、堂々として強くて、ヒーローみたいだった、かっこよかったな、やっと言えた」

「俺なんの力にもなれなくて」

「そんなことない」

「まだ消えないで」

「顔ぐしゃぐしゃだよ」

「好きなんだ」

 車窓から朝日が差してきた。裏鈴木は一瞬真顔になって、
「アタシも」

 そして光に包まれ溶けていった。



 鈴木は俺の顔をちらっと見た。
「もう泣いているの?」
 怪訝な顔で呟くと、姿勢を正し、シャツのボタンを留め、スマホを取り出した。



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