Episode1:仕組まれた発端

文字数 3,387文字

 シアトル市警に勤めるチャーリー・アバナシーは、その日の朝から妙に胸騒ぎがするような嫌な予感に囚われていた。彼の今までの人生の中でも何度か同じような経験があり、決まってその日は悪い事が起こった。

 両親が交通事故で亡くなった時、5年越しで付き合っていた女性が他の男とベッドで寝ている場面に出くわした時、投資目的で買っていた企業の株が大暴落した時……どれもその日の朝に、今日と同じ胸騒ぎを感じた。

 その為朝から憂鬱であったが、何が起きるかまでは解らないので、それを理由に仕事を休むという訳にも行かなかった。



「おい、マーク! 俺のコーヒーは砂糖を少なめにしろっていつも言ってるだろが! お前、わざとやってるのか?」

「す、すみません、先輩! 淹れ直してきます!」

 そんな不快な胸騒ぎの鬱憤を晴らすために、彼が相棒役となっている新人警官のマーク・L・キートンに難癖を付けて当たり散らす。パトロール中に立ち寄った行きつけのファストフード店の駐車場でチャーリーはパトカーの助手席にふんぞり返って、窓越しに受け取ったマークが買ってきたコーヒーを目の前で地面にぶちまけて買い直させる。勿論代金はマークの自腹だ。

「ふん、愚図が。さっさとしろ!」

 怒鳴り付けると、マークは飛ぶように店に戻っていく。若いくせにいつも卑屈でおどおどとした態度が妙に癇に障る男で、彼の最近の鬱憤晴らし対象であった。


 マークが店でコーヒーを買い直している間に、パトカーの無線機から呼び出しがあった。チャーリーは溜息を吐きつつ無線機を取った。

 商店街の区画にあるリカーショップからの通報だ。店の駐車場の辺りをずっと不審な男がウロウロしており、目線も定まっていなくて明らかにドラッグをやっている節があるとの事。一度声を掛けたが敷地から出ていく様子が無く、何を仕出かすか分からなくて不安なので強制的に退去させるなり何なりして欲しいというのが通報内容だ。

 面倒ではあるが、場所はチャーリー達の巡回区域なので行かない訳にもいかない。チャーリーは了承の返事をして無線を切った。丁度その時、マークが新しいコーヒーを持ってあたふたと駆け付けてきた。

「せ、先輩、今度は砂糖を控えめにしてあります!」

「ふん、コーヒー一つにどれだけ時間掛けてるんだ、愚図が。それよりさっさと車に乗れ! 本部から無線があった。商店街で通報だ。敷地をウロウロしてる酔っ払いだかジャンキーだかを退去させろとよ。下らん仕事だがこれも『市民の安全』を守るためだ」

「つ、通報ですか!? 解りました!」

 チャーリーは皮肉気に鼻を鳴らすが、マークはそんな彼の様子などお構いなしに緊張した様子で運転席に乗り込んだ。

 新人という事もあって、通報現場に駆け付けるという行為自体に慣れていないのだ。まあ最近はジャンキーも銃を所持してたりするので、慣れているからといって油断は禁物だが。

「場所はシアター通り沿いの2番地だ。急げ!」

「はいっ!」

 怒鳴られたマークは慌ててパトカーのアクセルを噴かした。コーヒーを飲みながら相変わらず助手席でふんぞり返っているチャーリーは、無線で不審者の人種(・・)を確認するのを忘れていた事を後々まで後悔する羽目になるが、この時はそれを知る由もなかった…… 




 通報があった店の駐車場に着くと、確かに不審そうで挙動も怪しい感じの男が駐車場を行ったり来たりフラフラと歩いていた。明らかに不審人物だ。だが……

「あいつか。ち……厄介だな」

 チャーリーは舌打ちした。別に男が武装していたり、筋骨隆々だったりした訳ではない。チャーリーが厄介だと思った理由は、その男が黒人(・・)だったからだ。

 今はとかく人種的な問題に敏感な時代だ。特に移民国家で様々な人種の坩堝であるアメリカは、ロス暴動など過去の経緯もあって他の国に増してマイノリティな人種に対しての問題に敏感だ。中でも黒人は被差別の歴史が長く、数も白人に次いで多いだけに殊更に厄介だ。ロス暴動も黒人市民に対する白人警官の暴行殺人が切っ掛けとなっている。

 自分もマークも白人だ。白人警官と黒人の容疑者という取り合わせは正直あまり宜しくない。だがこの仕事をしているとどうしても遭遇するケースでもあり、通報されてきた以上、相手が黒人だから関わりたくありませんという訳にも行かない。


「ち……仕方ない。おい、なるべく穏便に済ませるぞ。お前は絶対俺の言う通りに…………おいっ!」

 チャーリーが相棒に注意を促そうとした矢先、マークは彼の言葉も聞かずに車から降りると、ずかずかとその黒人に近寄っていく。チャーリーが唖然とする暇もあればこそ、マークは何と銃を抜いてその黒人に突き付けた。そして地面に伏せるように強い調子で命令する。

「あの馬鹿、何やってんだ!? クソッタレが……!」

 気を取り直したチャーリーが慌てて車から降りた時には、両手を上げて地面に伏せたその黒人相手に、マークが膝頭で首を上から押さえつけて拘束していた。完全に凶悪犯か何かに対するような扱いだ。

 大都市シアトルの商業地区ともなれば、日中という事もあってかなりの人通りがある。当然ながらこのやり取りは既に周囲を行き交う人々の注目を集め始めており、中にはスマホを向け始めている者もいた。
 
 チャーリーは激しく焦った。自分が見ている物が信じられなかった。そもそもあの気弱な新人警官のはずのマークが唐突にこんな手荒な逮捕劇を演じている事自体信じられない。

「おい、馬鹿野郎! 何してる!? すぐに離れろ! 犯罪者と決まった訳でもないんだぞ! 退去させるだけでいいんだ!」


「こいつはキース・フロイトです! 強盗殺人の前科4犯の凶悪犯罪者ですよ! 偶々昨日手配書を見て顔を覚えていたんです! この店で強盗を企んで下見をしてたに違いありません!」


「……! 何だと……?」

 言われてチャーリーもその黒人の顔にどことなく見覚えがある事に気付いた。キース・フロイトは確かに強盗殺人の常習犯で重度の麻薬中毒者でもあるはずだ。先程までの怪しい動きも麻薬中毒者特有の物だ。

 だが仮にこの男がキースだとしても、こんな押さえ方をしていたら万が一という事もあり得る。

「解ったからとりあえず一旦離れろ。そいつはもう抵抗できん」

「駄目です。離れたら何を仕出かすか解りません。先程僕が近付くときに懐に手を入れたんです。だから銃で制圧するしかなかったんです」

「何言ってるんだ? 懐に手を入れた? 俺も見てたがそんな動きは――」


「――先輩も賛同して頂けますよね? こいつは麻薬常習者で凶悪な殺人犯ですよ?」


「お……」

 マークの目に見つめられたチャーリーの心の中に、何か(・・)がスルッと入り込む気配があった。それが何なのかは解らない。だが妙に思考がぼやけて、論理的に物事を考えられなくなる。

 彼の思考の中から周囲の野次馬や、事後処理についての事柄が消えた。ただ目の前の黒人が凶悪な前科者であるという事実だけがクローズアップされる。

「ああ……そうだな。お前の言う通りだ。そいつは凶悪な犯罪者だ。きちんと押さえつけとかないと何するか解らんしな。そいつの抵抗の意思(・・・・・)が無くなるまで、しっかり押さえつけとけ」

「はい、先輩。勿論です」

 マークは嬉しそうに、キースの首根っこを押さえつけている膝頭に力を込める。

「うぅぅ……! く、苦しい……い、息が出来ない! た、助けて……!!」

 キースが苦し気な声で呻き出したが、勿論マークが力を緩める事は無く、チャーリーもそれを傍観していた。周囲の野次馬が騒めき始める。だがそれでもマークの『安全措置』は止まない。

 やがて野次馬の誰かが別途通報し、その通報で駆け付けた警官達に注意されてマークはやっと『安全措置』を止めた。そしてその時には、ずっと膝頭で押さえつけられていたキースは既に息をしていなかった……



 白昼堂々と行われた白人警官による『黒人市民』への過剰な暴力と、それが原因による『黒人市民』の死亡。この事件は目撃者が多く動画なども撮影されてSNSで拡散され、瞬く間に世界中に波紋を広げる事となった。

 当然ながらアメリカにおいてもこの事件に対する黒人たちの抗議やデモ、果ては暴動などが全国で多発するようになる。

 そしてまたこの事件は意外な形で、DCにいるビアンカを再び死と戦いへと誘うのであった……
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