第5話 悪魔界からの亡命

文字数 5,182文字

 ローゼは夜半の静寂を破り、どやどやと馬車の音が近づいてくる音を察知した。小屋の前で騒々しく一団が止まると、馬車から一人の男が飛び降りてきた。勢いよくドアを叩く音が、森に木霊した。
「母さん!開けてくれ!」
 低い男の声は怒りに震えている。ドアを開き、ローゼが姿を現した。
「ヴィルヘルム?こんな夜中に何事だね」
「ノーラがいないんだ!母さん、知ってるんだろ」
「それは一大事だ。……でも、あたしには見当が」
「探さないでくれ、という手紙を残して……関所も通った形跡がないんだ。匿っているんだろ?皆、探せ!」
 同行させた部下に命令する。彼らは上司の命に従い、遠慮なくローゼの家に上がり込むと、各部屋を捜索した。
 しかし、ヴィルヘルム自身、気づいていた。小屋の中に、娘特有の魔力の波動は感じないことを。
「母さん、ノーラのことで何か知っているんだろう?あの子が何を企んでいるのか。数日後には伯爵との見合いもあるんだ、本人が逃げたなんて、どう言い訳すればいい」
 ローゼは驚いたような素振りを見せつつ、冷静に答える。
「どうして、息子のあんたが苦しんでいるのに、あたしが嘘をつくんだい?」
「嘘だ!ノーラは母さんを慕っていただろう、なにか言っていたはずだ」
 ヴィルヘルムは手紙を握りしめ、怒りに震える手でローゼに突きつける。
 ローゼは静かに首を振った。
「ヴィルヘルム、私は本当に何も知らないのだよ。でも、こう思うのよ、彼女にはきっと、そうするだけの理由があったのだろう。あんたの胸に聞けばわかるんじゃないのかい」
「理由だと?私には全く理解できん!」
「問題はそうゆうところじゃないのかい。ノーラはもう、子供ではないのだよ。自分の人生を自分で決める歳になったのだ。親としては、彼女の決定を信じるしかないのかもしれないよ」
 ヴィルヘルムは膝に手を当て、乱れた息をしながら、ローゼを睨んだ。やがて深いため息をつき、背中を向ける。
「もし母さんが何か知っているなら、必ず白状させてやる。私はノーラを絶対に見つけ出す」
 そう捨て台詞を残して、ヴィルヘルムは馬車に乗り込むと、再び慌ただしく夜の森の中へと消えていった。
 ヴィルヘルムを見送り、小屋の門口に佇むローゼの表情は、闇に隠されて見えない。
「行ったんだねノーラ……あなたの旅路に幸あれ」

 砂塵を巻き上げながら、二頭の馬が夜の荒野を駆け抜けていく。乗っているのは、悪魔の姫ノーラと、その忠実な従者ヘレーネだ。月明かりに照らされた二人の表情は、緊張に硬ばっている。
「ヘレーネ、追手が来る前に急ぐわよ。方角は間違っていない?」ノーラが馬上で尋ねる。
「はい、お嬢様。月を背にして、戦時中に掘られたトンネルを目指すとのことです」ヘレーネが答える。
 やがて、岩肌に掘られた巨大なトンネルの入り口が見えてきた。入り口には板が幾重にも釘で打ち付けられている。二人は馬を止め、トンネル前で身構える。
「誰だ!出てこい!」ヘレーネが暗闇に向かって叫ぶ。
 誰もいないが、月明かりに照らされた地面に伸びる人影、その影の中から、にゅっと男が現れた。乱杭歯に猫背の意地汚そうな卑屈な男だった。
「おっと、人間界に降りるのはあんたらかい?」男が不敵に笑う。
「あなたが祖母様の手配した案内人?」ノーラが問う。
「そうだよ。俺の名はゴメス。よろしく、姫さま」ゴメスが手を伸ばす。
「きさまが触っていい相手ではない!」へレーネは日本刀を突き出す。
「おいおい、ずいぶんじゃねえか」ゴメスが一歩下がる。
「信用していいのでしょうか、お嬢様?」へレーネが構えを崩さずに、主に確認をとる。
「今はこの男に頼るしかないわ」ノーラは覚悟を決めたように言う。
  ゴメスがノーラから距離をとって言葉を続ける。
「そのまま天界に行ったら、すぐに捕まるぜ。この粉を振りかけな」
 そう言って、ゴメスはノーラに小瓶を手渡す。中には真っ白な粉が入っている。
「まずはお前が試してみろ」ヘレーネが命じる。
 ゴメスは苦笑しながら、自分の頭から粉を振りかける。すると、悪魔を示す黒い肌が、見る見る白く変わっていく。黒いカラスのような羽も純白の羽へ。天使の姿に変貌したゴメスを見て、ふたりは笑いそうになったが、なんとかこらえた。
「なるほど理にかなっているわ」
 ノーラたちも自らに粉を振りかける。二人とも、見事に天使に扮することに成功した。もともと美しい二人だ、天使になろうが、その美しさは変わらない。
「この効果は長くは続かない。最初の関門を抜けたら、あとは潜伏あるのみだ」ゴメスが言う。
「わかったわ。案内をお願い」ノーラは頷く。
 入り口をふさぐ板を砕き、ゴメスに従い、一行はトンネルの奥へと進んでいく。トンネルは行き止まりだった。ゴメスは地面に隠された蓋のチェーンを引っ張った。埃が舞い、縦穴が現れる。
「戦時中に掘られた地下道だ。ついてこい」
 ゴメスが梯子を下ると、ノーラとヘレーネもそれに続く。闇に呑まれながら、三人の冒険者は人間界への秘密の道を下り始めるのだった。

 長い梯子を降り切ったノーラとヘレーネの目の前に、予想外の光景が広がっていた。薄暗い地下空間に、巨大な魔方陣が不気味な輝きを放っている。
「これは……」ノーラが息を呑む。
「戦時中に使われた魔方陣だ」ゴメスが説明を始める。「一度に大量の兵士を送り込むために作られたものさ。悪魔だけが通過できて、聖なるものは一切通さない。まさに我ら悪魔のための秘密の抜け道ってわけだ」
「どこに通じているの?敵のど真ん中なんてことないでしょうね」ヘレーネが訝しがる。
 ゴメスは魔方陣の縁に立つと、ノーラとヘレーネを手招いた。
「国境近くに出る。天使が作った自動追尾の戦闘天使が待ち構えているはずだ。できるだけ魔力の出力を抑えるんだ。走ったりせず、自分は天使ですってな顔でな」
 ゴメス、ノーラとヘレーネは魔方陣の中心に立つ。するとゴメスが、古い悪魔語で呪文を唱え始めた。
「Obscla luma, precta animus tenbris!(オブスクラ・ルマ、プレクタ・アニムス・テンブリス!)光を遮り、闇の魂を加護せよ!」
 魔方陣が妖しく輝きを増し、中心から渦が巻き始める。ノーラたちの体が徐々に透明になっていく。
 やがて竜巻が去ると、砂埃と共に三人の姿は消えていた。。
 次の瞬間、目の前に広がったのは見慣れぬ景色だった。彼らは、なだ無き高速道路に似た空に伸びる白い道路に立っていた。上空には黄金色の太陽が輝き、すべてを黄昏色に染め上げ、その合間を極採色の鳥の群れが飛んでいる。天界の国境が、すぐ目の前に見える。
「この偽造許可書を使え。ここを通過して中央広場を目指す。俺の役目はそこまでだ」 
 ゴメスがふたりに国境のゲートを開けるカードを渡す。
「了解」ノーラとヘレーネは頷いた。緊張した面持ちで、国境への道を進み始める。
「お嬢様、大丈夫ですか?」ヘレーネが不安げに尋ねる。
「平気よ、ヘレーネ」ノーラは微笑んだ。「あなたがついていてくれるもの。私たちなら、どんな困難も乗り越えられるわ」
 ヘレーネは感激し、ノーラの手を握った。
「ええ、お嬢様。この命に代えても、お守りいたします」
 ゲートを越えて、天使界に入った。天空には、戦闘天使がハゲタカのように旋回している。こちらにはまだ気づいていないようだ。
 しばらく進んだとき、変身の薬の効果が切れ、悪魔の姿に戻った。焦ったノーラは反射的に魔力を解放してしまった。すぐに天使が察知し、急降下してくる。
「全速力で逃げろ!」ゴメスが叫ぶ。
 天使が放った弓矢がノーラの足元に刺さる。ノーラは振り返ると、腰を低くし、手を銃の形に、人差し指を天使に標準を合わせた。魔力弾が天使の羽を貫き、墜落してゆく。次々と矢が降ってくる。一度は頬をかすめ、血が滲んだ。
「お嬢様!」へレーネが悲鳴を上げる。
「たいしたことないわ!」
 だが、天使の矢である、かすり傷でもかなり痛く、熱を持ち始め、ジンジンした。ノーラはしかめ顔で、全力で走った。
「やつらから、本当の天使に連絡が行く。この格好で街に入るのはかなりまずいぞ」
 
 天使たちの街に足を踏み入れた瞬間、ノーラたちの異質さが際立った。真っ白な羽の海の中で、黒い羽根を持つ彼女らはあまりにも目立つ存在だった。悪魔など見たことのない一般の天使たちは、恐怖に目を見開き、悲鳴を上げながら逃げ惑う。
「そいつらを捕まえろ!」
 遠くから、近衛兵たちの怒号と鎧が走る金属音が響いてくる。ノーラたちは必死で走り続けた。心臓が爆発しそうなほどの速さで鼓動を打つ。
 ようやく、中央広場の噴水が見えてきた。だが、その瞬間、近衛兵たちに囲まれてしまう。天使たちの目は敵意と蔑みに満ちている。
「くそっ!こんなはずじゃ……俺も、行くしかないのか……やだなあ」ゴメスが歯噛みしながら呟く。
「えーい、ままよ!おふたりさん、背後の噴水に飛び込むんだ」と、ゴメスが小さな声で告げる。
「バカなこと言わないで!捕まるに決まってる!」ノーラの声は震えていた。
「違うんだ。この噴水は、人間界への入り口なんだよ。問題は……聖水だから、かなりのダメージは覚悟しときな!」
 ゴメスの言葉に、ノーラとヘレーネは息を呑む。
「……捕まるよりはマシね。やるしかないわ、ヘレーネ!」
 ノーラは不敵な笑みを浮かべるが、青ざめた表情からは、恐怖が隠しきれない。それでもヘレーネは力強く頷いた。
「みなさん、ご協力ありがとうございます!私は実は刑事でして、この凶悪犯を追って天界に来たのです」
 ゴメスが突然演技を始める。近衛兵たちが一瞬、顔を見合わせ、隙を見せる。ノーラとへレーネは手を上げて、降参のポーズをとった。
「今だ!」
 ノーラの合図で、三人は一斉に背後から噴水へ飛び込んだ。
 途端に、全身に焼けつくような激痛が走る。聖なる水が、悪魔の肉体を焼き尽くそうと暴れ狂う。気が遠くなりそうな苦しみに、ノーラは悲鳴を上げそうになる。同時に、兵たちの追尾の矢じりが横を掠める。
 永遠かと思える刹那の時間が過ぎると、噴水の底は終わり、果てしない闇へと変わっていく。不思議と息は可能だった。

 やがて、虹色の色彩の広大な空間へと出た。
「ここが話に聞く、時の迷宮?」
 ノーラは傷ついた羽で浮遊し、脅威の景色を見回した。虹色に輝く神秘的な空間の中で、ノーラたちは言葉を失っていた。まるでオリオン大星雲のような、色とりどりの星雲が渦巻き、絶え間なく形を変えていく。その美しさは、まさに宇宙の星の海そのものだった。ノーラは息を呑んだ。
 しかし、その美しさの裏には、予測不能の危険が潜んでいた。時間の流れが不規則に早くなったり遅くなったり、相対性理論さながらの奇妙な現象が起こった。声も姿も引き伸ばされ、歪められていく。相手を呼んでも、その声はゆっくりと再生されたカセットテープのごとく。
 やがて、一行の前に巨大なブラックホールのような存在が現れた。周囲は超新星のように光り輝いているのに、中心は底知れぬ闇に包まれている。シュバルツシルト半径を超えた特異点だ。
 比べるものがないから気づかなかったが、少しずつブラックホールに体が吸い寄せられている。ノーラとへレーネは必死に羽ばたいた。しかし、小さな羽しか持たないゴメスの体が、ゆっくりとブラックホールに引き伸ばされてゆく。
「ゴメス!こっちよ」
 ノーラが咄嗟にゴメスの手を掴む。するとヘレーネが、ノーラの腰に腕を回して支えた。
 だが、ブラックホールの重力は強大で、このままでは三人とも飲み込まれてしまう。
「お嬢様、手を放してください!このままでは……」
「だめよ!」
 あまりに巨大な暗闇のため、近づいていることさえわからない。ノーラはゴメスを離すまいと必死にしがみついている。
 その時、汗ばんだ手が滑って、ついにゴメスはノーラの手を離れ、ブラックホールの中へと消えていった。
「いやだー!」
 ゴメスの絶叫が、虚空に吸い込まれるように掻き消えていく。
「ゴメス……」
 見た目こそ良くなかったが、最後まで任務を全うした彼に、ノーラは心の中で感謝を捧げた。(あなたのお陰よ、ありがとう)
 そして自分のわがままな行動がひとりの悪魔を犠牲した。ノーラはその事実を胸に刻み込んだ。
 この先に人間界がある。「待ってて、まだ見ぬ友!」ノーラは希望で恐怖を打ち負かし、先を急いだ。
 どのくらいの時間が経っただろうか、ここ時の迷宮では意味を成さない問いである。もし、人間界にたどり着いても千年が経過していたらどうしようか。一抹の不安がよぎる。
 次第に周囲に意味のある風景が見え始めた。皮膜の中にいるかのようにぼやけているが、森や街並みだ。そして、急に重力に囚われ、ノーラとへレーネは落下した。
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