第五十幕!オホーツクの奇跡
文字数 11,793文字
海は思いのほか深く、泳げない俺にとっては酷でしかない。そもそも海に飛び込むまで、自分がカナヅチだと言うことを忘れていた。なんと間抜けな話なのだろうか。
海水が目に染みる。それに耐えながら、目を開けてあたりを見回した。まだ日が昇りきっておらず仄暗い。だけども全く見えないわけではなかった。
ふと上を見上げると、氷が流れてきて水面を覆い始めた。早くサクを助けださねば閉じ込められる。できないクロールを頑張りながら海底へと進んだ。
底までたどり着いたがサクの姿が見当たらない。もしかしたら、自力で脱出したのだろうか。サクであればやれないこともなさそうだ。息も少しずつ苦しくなってくる。とりあえず海面まで上がって呼吸を確保しようとしたその時、岩の隙間にまるで固定されるかのように挟まるサクの姿があった。
もう一度上を確認すると、氷がいつの間にか海面を覆い尽くしている。呼吸を諦め、一気にサクの元まで泳いだ。そして持っていた短刀で彼を縛るロープを切ろうとする。しかし、思うようにロープが切れてくれない。苦戦しているうちに窒息しそうになり、意を決してロープを思い切り引っ張ると短刀を勢いよく振り切った。
人間は必死になった時、予想以上の力を発揮するものである。サクの足を締め付けていた重り付きのロープは、見事に真っ二つに切れた。
俺は、サクを岩場から引きずり出したが、あまりにも強引だったため、彼は多少の切り傷と打撲を負った。申し訳なかったが、そうでもしなくては2人して魚の餌になっていただろう。彼を背負い、海面に向かって泳ごうとする。
しかし、身体が思うように動かない。元々泳げないことに加え、度重なる戦いでの疲弊、それからこの極寒の海の寒気にやられて身体がおかしくなっているのだろう。足がまるで棒であって、機能を果たそうとしてくれないのだ。
息苦しさもピークに達する。もがきにもがいたが、ふとした瞬間に意識を失った。
◇
「ここはどこだ...。」
海の中にいたはずだが、目の前に広がる光景は原っぱである。雪は降っていないけど少しだけ肌寒い。
周囲を見渡してわかったことは、ここが帯広だということである。それにしても、なぜこんなところにいるのだろうか。とりあえず見覚えのある道があったので、AIMの本部まで向かうことに決めた。
歩き始めること数分。隣を一台の自転車が通り過ぎ、学生カップルが仲良さそうに2ケツをしていた。ふと俺は、昔カップルに嫉妬して2ケツしている場面を見つけたら警察に通報して、罰金を取らせて楽しんでいたことを思い出してしまう。今思えば情けない男であった。
そんなことを考えていると、カップルが自転車を止めて土手へと降りていく。俺は、さりげなく横目で彼らを見る。女性の方は、色白で垢抜けていて綺麗系の絶対にモテるタイプの美人。紗宙に瓜二つである。そして男性の方は...。
顔を見た瞬間に驚いた。その男は紛れもなくサクであった。サクも同じく海の中にいたのでは...。
いや、それ以上に彼の顔は、俺の知っているサクの数倍若々しい。それらを眺めていた時、俺の中で何かが繋がった。
きっとこれは、サクの記憶の中なのだ。なぜ俺がここにいるかはわからないが、とりあえず彼の記憶の中にいることは確かだ。どうにかしてここから出なければと考えたが、夢からの覚め方など誰にもわからない。諦めてしばらく彼の記憶を追いかけることにした。
高校生のサクは、紗宙に似た女性と熱いキスを交わしている。多分この女性が例のミナなのだろう。俺は、自分ができなかった制服デートというものを見せつけられて、若干イラつきを覚えていた。
サクは、俺がここにいるのにも関わらず、ミナの制服のボタンを外して中に手を入れ始める。俺は頭にきて、つい声をかけてしまった。
「おいサク!助けに来たぞ!!」
しかし、こちらには気づいていないようだった。思い切って彼らに近づき、そこで再び声をかけたが反応は一切ない。
もしかしたら、俺の姿が見えていないのだろうか。思い切ってサクの肩を叩いた。すると案の定、手はすり抜けてしまい、俺の存在は彼には届かなかった。
そしてすり抜けたと思ったら、今度はどこかの学校の校舎の屋上に来ていた。景色がものすごく綺麗な場所で、帯広の街だけではなく十勝平野まで見渡すことができる。これもサクの記憶の一部なのだろうか。
そうこうしている間に階段へ続くであろう扉が開く。入ってきたのはサクだ。俺の真横を通り過ぎると、フェンスに手をかけて広大な景色を一望している。しかし、その手はなぜか震えていた。
彼に理由を尋ねたいところだが、きっと声は届かないだろう。するとまた扉が開き、今度はミナが入ってきた。相変わらず紗宙そっくりである。
サクは、なんかもじもじしながら彼女と話している。近づいて聞いてみると、どうやらこれは彼がミナに告白した日の記憶だ。時系列が違ったので内容を把握するのが大変だった。
この後も俺は、サクから思い出話を聞かされているかのように彼の記憶を旅した。父であるイソンノアシとの思い出。先生との出会い。ミナと過ごした日々。札幌の夜景を見ながら彼女にプロポーズをした思い出。俺の知らなかった彼をたくさん知ることができた。
そして場面は野山へと移る。サクとミナは成長して大人になっていた。見た目は俺の知っているサクとほぼ同じ。ただ少し違うとすれば、この時の彼の目の色や雰囲気は、今と違って凄く暖かかった。
2人が木陰で楽しそうにお弁当を食べている。本当に仲睦まじく羨ましい限りであり、ひねくれ者の俺でも、彼の記憶に寄り添っているうちに、いつの間にか彼らを応援したくなってしまっていて驚きだ。だが、そんな輝かしい時間も突然終わりを迎えることになった。
AIMの兵士らが彼らを連行して行ったのだ。きっとあれは、彼の叔父であるエシャラの手先だろう。
この後の展開は、紗宙から聞いていたため知っている。あまりにも残酷な結末を思い出し、ここでこの映画を打ち切ってくれと叫びたかった。だが、場面は容赦無く切り替わる。
帯広のAIM司令部。エシャラの前に引きずり出されたサクは、配下の兵隊によってボコボコにされた。それから、憎き松前大坊の登場だ。ミナを人質に取って、サクに無理難題を突きつけていた。
サクは、ミナを守るために民族の誇りを捨てると言った。それに対してミナは激怒。松前の股間を蹴っ飛ばして抵抗の意を示した。結果、松前の配下の手で顔の原型がわからなくなるまで殴る蹴るの暴行を受け、そして松前によって顔を踏みつぶされて命を落とした。
サクが泣いていた。松前は、彼や彼の父、ミナ、アイヌのことを馬鹿にするような発言をしながらあざ笑っている。俺は、当事者でもなんでもないのに目から涙が溢れ出て、松前に対して憎悪の念を抱いた。
記憶を見させられた俺ですらこうなってしまったのだ。サクが松前や和人に対して抱いた恨みや憎悪は計り知れない。俺は目から溢れ出る涙をぬぐい、地面に這いつくばるサクを見た。
そこにいたのは、心に闇を抱き、どこか表情に悪意がにじみ出ていた俺の知っているサクだった。
その後の記憶も壮絶だ。
彼は、ミナを殺された恨みを晴らすかの如く、官軍に対しては時に残忍に、そして時には卑怯な策略も使いながら戦争を戦った。だけども、札幌官軍は強く、次第にAIMは追い詰められていく。
しかし、俺がそれ以上に悲しかったことは、ミナの霊の存在だった。記憶を旅している俺には見える。ミナの霊がサクのそばでいつも彼に語りかけていた。
『サク、もう人殺しはやめて。』
届く筈が無いのに懸命に...。
サクは、相変わらず和人に対しては厳しかった。遠征先で和人を見つけると、スパイの容疑をかけてヒグマの餌にしたり、新兵器を作る時の実験体にしたり、俺顔負けの残忍な行為を連発していた。
ミナが殺されてから、人が変わりはててしまったようだ。そんな彼の姿を見ていると、どこか自分を見ているかのようで悲しくなった。きっと俺の残忍なところも、社会への恨みという部分も大きいのだろうか...。
◇
あっという間に記憶の階段を駆け下り、登場人物に俺や紗宙が出てくる。
サクは、紗宙にミナの姿を投影して好意を抱いていた。それ故に、紗宙と付き合っている俺に対して、まるで和人の代表を見るかのように憎悪を浮かべていた。
いつの間にか、恨むべき相手が官軍ではなく俺になっていたのだ。そして挙げ句の果てに、見栄を張って騎兵隊に敗北。信頼していた部下を自分のせいで死なせてしまう。
己の愚かさに気づいた彼は一騎で北見に戻り、少女や灯恵を助け出した。しかし、彼自身は騎兵隊にされるがままに痛めつけられて拉致された。
そこで記憶の旅は最終局面を迎える。
岬の先端で立たされたサクは、最後まで紗宙を守る為にどうすれば良いのかを考えていた。そして、彼女が殺したように見せかけて自ら海へと身を投げる。彼女と紋別市民の命を守る為に...。
◇
彼が海へ落ちた瞬間、俺の目の前が真っ暗になった。暗闇の中を1人手探りで前へ進む。すると目の前に紗宙が現れた。
いや、違う。ミナである。
「私のことが見えているようね。」
「俺のことがわかるのか。」
「ええ。この記憶の世界にあなたを引き込んだのは私なのだから。」
不思議に思い、彼女に尋ねる。
「なぜあいつの記憶なんて見せたんだ?」
「あなたしか、彼を救えないと考えたから。」
俺は首を横に振る。
「いや、ダメだ。もう動くことすらままならない。きっと死んでしまったから、あんたが見えるんだ。」
ミナは強めの口調で言う。
「まだ死んでない!お願い、サクを助けて!」
「どうやって?」
「あなたはまだ泳げる。一度全身の力を抜いて冷静になるの。そして、ここぞってタイミングで、思い切り海面へ向かって地面を蹴って。あとはがむしゃらにクロールすれば地上へ出れる。」
「しかし、海面は凍りついていて出られない。」
「もう朝日が昇ってきてる。きっと氷が溶けて薄くなっている場所がある筈。そこを狙うのよ。」
「しかし...。」
するとミナは、暖かさのこもる強い口調で言う。
「大切な人と約束したんでしょ?」
そこで俺は、紗宙のことを思い出す。そうだ、彼女に生きて帰ると約束したんだ。限界を超えた精神と肉体に、少しだけ力が湧いたような気がした。
「ミナ、ありがとう。あと少しで彼女との約束を破るところだった。」
するとミナは、首を優しく縦に振った。
「そうと決まれば、泳ぐしか無いね。」
「ああ、わかったよ。俺はまだ死ねない。」
「そうでなくっちゃ。」
すると、ミナの身体が徐々に消失していくのがわかった。
「いなくなるのか?」
「ええ、もう私の役目は終わったみたい。」
「サクのこれからを見届けなくていいのか?」
「大丈夫!彼には、あなた方の革命団やAIMの仲間たちがついてるから!」
俺は、自然と目に涙が溢れていた。この旅を始めてから泣いたのはこれで何回めだろうか。
彼女が付け足すように言う。
「それに、彼は必ず幸せになれる。」
そして彼女は、一呼吸置くとにっこり微笑む。
「だって、私が選んだ婚約者なんだから!」
目に溜まっていた涙が堰を切ったようにこぼれ落ちる。俺は、震えを抑えながらゆっくり言葉を絞り出した。
「そうだな...。俺が必ずサクを助け出すよ。」
彼女の表情から力が抜ける。
「それが聞けて安心した。」
そんな彼女に聞いてみる。
「ミナ。サクへ何か伝えることはあるか?」
彼女は、言葉を選んでいるようだが、少し間を空けてから口を開く。
「そうね。じゃあ一言。」
ミナは、俺の耳元でそれを呟くと、浄化されていくように目の前から姿を消す。最後に目にした彼女の表情は、未練から解き放たれたような安らかなものであった。
彼女がいなくなってから、周りがいつの間にか真っ黒から真っ白に変わっている。俺は、その空間でしばらくサクのことを考えてから、再びオホーツク海からの脱出の決意を固めるのだった。
◇
次第に息が苦しくなってくる。目を開けると、再び厳しい自然という現実が立ちはだかった。ミナに言われた通り、冷静になって身体の力を抜き、ここぞというタイミングで思い切り地面を蹴って海面まで泳ぐ。
窒息死までは時間の問題だ。無我夢中で海面の氷の薄い部分を探す。時間がない。海水で痛む目をこじ開けながら、生にしがみつくかのように血眼になって探す。
そしてついに、明らかに薄そうな氷を発見した。しかし、薄いとは言え、押したくらいでは破れそうにない。俺は、拳を潰す覚悟で何度も氷をぶん殴った。
薄いヒビが入るにまで至ったが、割れる前に拳が壊れてしまい手が思うように動かない。しかし、急がなければ2人して沈没船になってしまう。
俺は、意を決して氷に頭突きをした。おそらく人生で一番死に物狂いで行動をしている。何度も、また何度も頭突きをした。目の前に赤い液体が浮かんでいる。寒さで気付かなかったが額から出血していた。
頭蓋骨が割れてしまったのか、そんなことは関係ない。痛みを堪えて、無我夢中に氷に頭突きを繰り返す。体力も何もかもが限界だった。
そしていつしか、ついに氷を打ち破ることに成功する。あとは這い上がるだけである。持てる限りの力で流氷にしがみつき、顔を海面へと突き上げた。
海の外は、照りつく日差しを遮るように、大陸から南下して来たであろう寒風が吹き荒んでいる。それにしてもあまりに過酷な脱出劇だったからなのか、数分しか潜っていないのに竜宮城から帰ってきた気分だ。
外気は、水の中よりも冷たく感じる。濡れた俺の顔へ、オホーツクの寒風が容赦なく吹きつける。 誰か助けてくれ、そう泣き叫びたいくらいであら。
最後の力を振り絞り、サクを流氷の上に押し上げたが、俺は以前として半身が海の中である。神々しい朝日がオホーツク、それから道東の大地を照らし出しだす。まるで暴虐な神々が滅び、本来の神々が戻ってきたかのようだ。
そんなこと考えてる暇があるなら大丈夫。きっと誰もがそう思うはずだろう。だが、それは違う。そんなことを考えていないと、現実を見た瞬間ショック死してしまうかもしれない。そんな状況なのだ。 せっかく呼吸ができるのに生きた心地が全くしない。腕の力が抜けていき、凍傷による痛みすら曖昧だ。
日差しが俺を照らし上げる。ああ、俺は天国へ行くのだろうか。だが、こんな状況であっても、紗宙のことを考えたら死ぬことなんて考えられない。周りを見渡たすと、海岸までそこそこ距離がある。
こんな時、先生ならどうするのだろうか。まず、泳いで海岸まで向かう力が残っていない。それどころか、氷の上に自分を持ち上げる力すらない。流氷をビート板がわりに泳ぐなんて到底できないだろう。助けを呼ぼうにも寒くて大きな声が出せない。出たとしても海岸に届きそうにない。居場所を知らせる為に旗でも振りたいところだがそんなものは持っていない。
どうすれば良いのか。不安に押しつぶされそうになると、頭の中に紗宙の顔が浮かんでくる。彼女にまた会いたい。そう考えると、死にそうな自分を励ますことができた。
しかし、いくら精神的に頑張ったところで物理的に無理がある。手の力が抜けきった俺は、極寒の海という絶望に飲み込まれそうになる。
でも、神はまだ俺を見捨ててはいなかった。俺の力尽きた腕を誰かが掴むと、流氷の上へと引きずりだされた。太陽が流氷とオホーツク海を照らし出す。
顔を上げるとそこに座っていたのは、ついこの間まで憎んでいた男。そう、イソンノアシの息子、サクだった。
彼は、凍えながらも精一杯の声で言う。
「これでおあいこだな。」
相変わらず皮肉な野郎だ。しかし、俺の顔には自然と笑みが浮かんでいた。そしてそれは、彼も同じのようだ。
「サク、ありがとう。」
「何が??」
「助けてくれて。それに灯恵や紗宙のことも。」
サクは、照れ隠しなのかツンツンしている。
「別にお礼なんていいよ。困ってた人がいたから助けただけだ!」
「身体は大丈夫なのか?」
「おう、大丈夫。多分な。」
俺は、彼といつのまにか普通に会話ができるようになっていた。嫉妬とか怒りの感情が湧かない自然な気持ちで。
しかし、2人とも全身びしょ濡れで凍え死ぬ寸前である。
「なあ蒼。逆に救ってくれてありがとな。お前への恩は一生忘れない。」
俺は、首を横に振る。
「お礼を言うならミナに言え。彼女のおかげで今があるようなもんだろ。」
サクの目が鋭くなる。
「どう言うことだよ?」
「海の中で気を失った時、ミナに会ったんだ。」
「なんだって!どうして?」
「わからん。ただ彼女は、戦いや殺しに明け暮れて心が荒んでいくお前を止めようと、いつも必死に叫んでいた。もしかしたら、その想いに俺が引き寄せられたのかもしれないな。」
サクは、汚れきった自分の拳を見つめる。
「彼女は、サクをよろしく頼むと俺に言った。そして、海底から上がってくる方法を教えてくれた。彼女がいなかったら、俺とお前は今頃魚の餌だ。」
「ミナがお前に...。」
「そして彼女は最後に言った。」
彼が俺の顔を凝視する。
「サクに伝えて欲しい、『今でも大好きです』って。」
彼は俯いていた。そして、極寒の海に浮かぶ流氷の上で号泣しながら、こぼれ出すようにぼやいていた。
「ミナ....ミナ......。本当に....ごめん....。」
俺も腫れ上がる手足の痛みや頭の傷のことなど一切忘れて感傷に浸った。
「蒼、迷惑ばかりかけてごめん。俺が悪かった。ごめん。」
「もう忘れたよ、そんなこと。これからは友達だろ。」
彼は、泣きながら頷いていた。
極寒の世界に差す日差し。この環境は、現実という世界の厳しさと、その中に存在する微かな優しさを映し出しているようだ。
ある程度気持ちが落ち着いた頃、重い腰を上げて立ち上がろうと踏ん張った。
「そろそろ行くか。」
「その身体で、どうやって岸まで行くってんだよ。」
「守りたい約束があるんだ。こんな氷の上で待っていても助かる可能性は低い。だったら無茶してでも泳ぐ。」
「紗宙との約束か?」
「ああ。」
すると、サクがいきなり海に飛び込んだ。
「一緒に泳ごうぜ。2人なら怖くないだろ。」
俺も続けて転げ落ちるように海へと飛び込む。それから、流氷を掴んで水面に顔を出した。
「怖くなんてねえよ。」
サクが笑っている。その顔を見て、彼が変わったことを実感した。彼の目は、ミナが生きていた頃のように優しく、そしてこれまで以上に強さを秘めていた。
俺とサクは、流氷に上手いことつかまりながら、凍りつく寸前の身体を引きずるように海岸へと向かった。
◇
俺たちは、寒さで生きた心地がしなかった。流れる氷に時々押し流されながらも、ようやく砂浜へ到着することができた。
刃物のような寒風が吹きすさぶ砂地に2人して膝をつく。全身の感覚をすでに失い、もう歩く気力すらも失いかけていた。寒さのあまりに震えて声が出ない。俺は、俯きながらその場に倒れこみそうになった。
その時、誰かが俺を優しく包み込む。暖かく、まるで天国に持っていかれるかのようだ。現実世界が極寒であるため、この暖かさを天国と勘違いしても間違ってはないだろう。
「あと...少しだ...。待ってろ...紗宙...。」
俺は、包み込む暖かさに身を任せながら、無意識の中で入らない力を身体に入れようとしていた。
すると、耳元から声が聞こえたきた。
「待ってた...。」
紗宙の声だった。この温かいぬくもりは、彼女だったのだ。俺は、再会できたことが嬉しくて涙が流れた。彼女が俺の背中を優しくさする。
「今回は泣かなかったよ。」
俺は、冗談混じりで聞いてみる。
「なんで?」
すると、優しい声が返ってくる。
「信じてたから。蒼は必ず約束守るって。」
とか言いながらも、涙を堪えているようだ。そんな彼女が可愛くて癒される。
「だろ。俺は言ったことを必ず成し遂げるんだ。隣を見ろ、サクも生きている。」
サクが恥ずかしそうに紗宙から目をそらす。
「サク...。」
その瞬間、堪えていたものが溢れ出したようだ。彼女の涙が俺の頬を濡らした。
「2人が死んだらどうしようって、本当は不安だった...。」
俺は、彼女の懐に顔を埋めながら答える。
「悪かった。不安にさせて。」
サクは、照れ臭そうにそっぽを向き、素っ気なく謝る。
「さ、紗宙。ごめん。」
彼女は、横に首を振った。
「別にもういい。こうしてまた再会できたんだから。」
俺が重い身体を回転させて彼女の顔を見た。彼女は、目が合うと強がって微笑んでいた。
◇
こんな会話をしていると、どこか遠くから結夏、カネスケ、典一の声が近づいてくる。
結夏が息を切らしている。
「あー2人とも無事で良かった!!」
カネスケも同じだ。
「おい、2人とも大丈夫か!!」
典一は、全身に傷を負いながらも、体力的にはまだ余力がありそうだ。
「リーダー!ご無事で何よりです。」
とはいえ相当激しくやり合ったようで、返り血と生傷が目立っていた。
俺は、3人対しての感謝の気持ちで一杯になる。
「みんな...。ありがとう。」
典一がドヤ顔をしている。
「俺たちにかかれば、こんなもんですよ。」
「さすが典一さん、って感じだったね。」
彼は、結夏に褒められてデレデレしているのが丸わかりだ。するとカネスケが言う。
「水を差すようで悪いが報告だ。松前大坊の姿が見当たらなかった。」
典一が拳を振るわせている。
「散々やっておいて逃げ出すとは卑怯な男よ!」
俺が首をサクの方へ向ける。彼の顔は曇っていた。それからカネスケの方へ向き直る。
「拳銃を貸せ。」
カネスケが言われるがままに拳銃を渡した。それを受け取るとサクへ差し出す。
「なんだよ?」
「まだ動けるんだろ?」
「ああ、俺はまだ動ける。」
「松前の足を滅多刺しにした。あいつは遠くまで逃げられないはずだ。」
それを聞いたサクは、俺が言いたいことを察して拳銃を受け取った。
「蒼...、ありがとう。俺の手で決着をつけてくる。」
紗宙が心配そうな表情を浮かべる。
「大丈夫なの?」
サクは、立ち上がると彼女と向き合った。
「平気さ!なんたって今の俺には、信頼できる仲間がいるんだからな!」
俺たちは、顔を見合わせた。そんな彼にカネスケが言う。
「馬に乗れるのか?」
「もちろんだ。スノーモービルよりもそっちの方が付き合い長いぞ。」
カネスケは、そんな明るいサクを見て彼の肩に手を置く。
「あそこの小屋に、騎兵隊が残していった馬が数頭繋いであったぜ!」
サクは、カネスケにお礼を言うとすぐさま馬小屋へと向かう。そして、慣れた手つきで馬にまたがり、颯爽と小屋を出ていった。
松前が落ち延びるルートはあそこしかない。長く北海道で暮らしてきたサクは、自分の感を頼りに北へと馬を走らせる。
◇
松前大坊は、付き人の兵士に担がれて紋別の町から落ち延びていた。川向川を渡りきったあたりで、付き人の兵士が倒れこむ。典一の猛攻から身体を張って松前を守り抜いたからである。今頃になって内臓が破裂したのだろうか。屈強な付き人は、そのまま紋別の土になった。
松前は、なんとしてでも生き延びようと、四つん這いになりながら意地でも北を目指す。沙留まで行けば札幌行きの船が出ている。生きて必ず再起を測ろうとする彼の生命力は、まるでゴキブリのようであった。
そんな彼の前に誰かが立ちはだかる。松前は、顔を上げると奇跡が起きたかのように喜んだ。
「おお、美咲!助けに来てくれたのか!」
しかし、彼の期待とは裏腹に、美咲が冷たく吐き捨てる。
「使えない男だな。」
松前は、喜びから一転して、生意気な彼女への怒りをあらわにした。
「あ?早く助けろよ?」
「助ける気はないさ。」
「んだとこの野郎!俺を見殺しにしたことを知事が知ったら、お前はただじゃ済まされんのだぞ?」
「知事から許可を頂いている。松前大坊を助けるな、助けたらお前を見損なうってね。」
松前が驚愕して何も喋らない。美咲は、彼をなおも詰め続ける。
「お前はやりすぎた。その行動が無駄にAIMを刺激したことも戦争が激化した原因の一つ。北海道の治安をめちゃめちゃにしたのは、紛れもなくお前なんだよ。」
松前がそれを聞いて発狂。
「俺は、お前なんかよりも才能がある!コミュ力も実力も強さも何もかもだ!俺が何をしても悪くはない。そうだろ!?なあ!?」
美咲は、彼を見下すと冷めた目で睨んだ。
「AIMは、私が壊滅させる。お前は用済みだ。」
そう言うと彼女は、極寒の雪原に松前を置き去りにして立ち去ろうとする。背後から、松前の怒号が響く。
「絶対生き延びてやる!そしてお前を拉致して、頭がラリるまで強姦して屈服させてやる!!」
美咲は、立ち止まると高らかに笑う。
「ハハハハ、もう会うことはないさ。なんとでも言え。」
そして彼女は、スノーモービルにまたがり、雪原の果てへと姿を消した。松前は悔しがり、地面を何度もぶん殴った。
◇
彼が再び前へと進み出すと、後方から馬が走る音が聞こえてくる。味方が来た。そう思った彼は、後ろを振り返り手を振った。
「おーい!ここにいるぞ!早く助けるんだ!」
しかし、次の瞬間に銃声が響き渡り、振っていた腕がどこかへと飛んでいった。
「ぐおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
松前がうめき声をあげてのたうち回る。そこへ、1人のアイヌの青年が馬から降りて松前の後ろに立った。
「き、貴様はサク!!!!」
サクは何も言わず、松前の顔を思い切り蹴っ飛ばす。松前は、血を吹き出しながら吹っ飛び雪原へと倒れ込んだ。サクは、松前の身体に馬乗りになると、無我夢中で彼の顔面を殴り続ける。まるで鬼神にでも取り憑かれたかのように10分以上も殴り続けていた。
松前は、片目を潰され、ほとんどの歯が折られた。それでも彼は、不敵な笑みを浮かべる。
「クハハハハ、いくら俺を殴ったところで、あのミナとかいう女は戻ってはこんぞ。」
サクは全ての力を込めて、松前の鼻をへし折る。松前が気持ち悪い叫び声をあげながら鼻血を吹き出す。しかし、サクの拳にも限界がきていた。松前にペンチでへし折られた小指が悲鳴をあげているのだ。
サクは立ち上がり、松前に銃口を向けた。
「死ぬ前に言うことがあんだろ?ミナに、そしてこの北海道を愛した全ての人間に。」
松前が笑みを浮かべる。
「おう、あるぜ。」
サクは怒鳴りつけた。
「言え!!!」
松前は、不気味な目つきを浮かべる。
「あの世でも、徹底的に陵辱してやるよ。」
そして彼は、ニヤニヤと笑った。サクは目を見開く。
「お前に生きる価値はねえ!!!!!!!」
銃声が響く。1発、2発、3発。松前の顔は粉々に砕け散り、ヒグマですら食べたくなくなるような無残な姿で雪原に散った。
サクは、雪が降り積もる大地に座り込む。そして眩い太陽に向かって呟いた。
「ミナ...。お前の仇...、討ったぞ。」
太陽の光は、冷めきったサクの心を眩く温めた。ミナの思いを受け取り、そして仇も取ったサクの顔にもう曇りは一切なくなっていた。
しかし、北海道の戦争はまだ終わったわけではない。彼は馬に跨ると前を向いて走り出す。もう後ろを振り返ることはないだろう。
◇
松前大坊、北広島氷帝が死亡したことで、紋別騎兵隊は完全壊滅となった。紋別の街は、アイトゥレと龍二の軍によって制圧されるが、町の人々の中には、まだ洗脳が解けずに反抗する者もいた。しかし、それらも時間が経つにつれて減っていく。
紋別陥落から間も無くして、網走監獄が白旗を上げる。これにより、道東全ての官軍拠点が陥落。AIMは、道東全土を勢力下に置くことに成功したのだ。
監獄に囚われていた、多くのアイヌ民族やAIM関係者は解放される。彼らは、故郷に戻る者もいたが、AIM軍への加入を志願する者も多かった。
そして、俺、サク、紗宙、カネスケ、結夏、典一の6人は、AIM軍に救出され、すぐに灯恵が入院している美幌の病院へと入院を余儀なくされた。
AIMの本拠地である帯広では、AIM軍があの紋別騎兵隊を打ち破ったこと、そして俺が極寒の海からサクを助け出し2人で生還したことが話題に上がる。
これらの出来事は、『オホーツクの奇跡』として長らく騒がれることになる。
それと同時に、AIM軍は日本最恐の軍隊を打ち破った危険な存在として、今まで以上に日本政府から目をつけられることになった。
◇
帯広に帰る前日の夕方。俺は、西の空に沈む夕日を見つめていた。
そして思うのだ。これから何回夜が来ようとも倒れる訳にはいかない。この国を変えると言う野望を叶えるまではと...。
まるでこの途方もない野心を包み隠すように、夕闇が病室を徐々に覆っていった。
(第五十幕.完)