雨の雫

文字数 1,093文字

 雑木林を抜けた先に、古びた木造の教会がある。白いペンキが所々剥げているその建物の周りには、青や紫に染まった紫陽花たちが、今をさかりと咲いていた。雨上がりの明るい日射しに照らされ、濡れた葉の緑が濃い。
 私は、教会の正面に張られた立入禁止のロープを跨ぎ、寂れた講堂の中へと入った。

 約束の場所に、彼女はいた。腰まで伸びた長い髪はいつものように三つ編みに編まれ、上品な水色のワンピースが彼女の無垢な美しさを際立たせている。伸ばしっぱなしの髪を無造作にひとつに纏め、Tシャツにジーンズという出で立ちの私とは、いつも対照的だ。育ちの違いというやつか。しかし対照的だからこそ、私は彼女に惹かれたのだろう。

 互いの絆を確かめ合うように、二人はしばし見つめ合った。ついに今日、わからず屋の大人達から二人で逃げるのだ。家出と分からないよう最小限の荷物と、アルバイトでコツコツと貯めたありったけのお金を持って、行ける所まで行く。うんと遠くまで行ってしまいたかった。出来れば、暖かい南がいい。
 住むところも、見つかるか分からなかった。仕事も、雇って貰えるか分からなかった。ともすれば警察に通報されて、すぐ親元に連れ戻されてしまうだろう。全くなんの当ても無く、無計画だった。それでも、行きたかった。二人が、この先誰にも引き裂かれることの無い場所まで。

 教会から出ると、暗さに慣れた目に外の光が眩しく射し込む。
「行こう」
 差し伸べた手を、しかし彼女は取らなかった。入り口に立ち止まったまま、涙を浮かべた可憐な瞳を真っ直ぐに見据えて、絞り出すように言った。
「ごめんなさい。私は、私のせいで、あなたの人生まで台無しにしてしまうことなんて、とても出来ないの」
 彼女も分かっていたのだ。自分たちが、どれほど無力であるかという事を。絶望へ向かうと分かっていて、その道を共に歩ませることなど、彼女にはどうしても出来なかった。
「今日は、あなたにそれを直接言いたくて、来たのよ」
 私は声も出せず、呼吸の仕方すら忘れ、ただ彼女の顔を見つめ続けるしかなかった。伝えたい言葉が、想いが、頭の中で次々と溢れては絡み合い、()くことが出来ない。
 誰かが、来た。担任でもある、十歳上の私の姉だ。少し離れたところにずっと居たのだろう。そっと傍まで来ると、私の体を両腕で包み込み、静かに言った。
「帰りましょう。二人共、無事で良かった」

 冷たいものが、頬に落ちた。つられて、姉の肩越しに上を見ると、明るい空のどこからともなく、ポツリ、ポツリと雨粒が落ちてくる。私はそんな不思議な空を見上げながら、ぼんやりと、心の中で呟いた。
「──あ、狐の嫁入り」
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