第36話 火トカゲは舞い戻る
文字数 5,261文字
階段を上がったさきは見慣れた廊下。
私たちの教室がある
廊下の一番手前にある教室、1年5組の引き戸を開けて中に入る。
私のクラスは4組なので、この教室の隣になる。
1年5組に銃は落ちていなかった。
特別教室を使う授業だったのかもしれない。
掲示板の時間割を見た。今日の5限目は芸術となっている。
うちの学校では、美術と書道の選択式の授業を芸術の時間としている。
今は、ちょうどその時間だったようだ。
入口からいちばん近い生徒の椅子に私を座らせ、九条君は窓際に歩いていく。
窓際近くまで進んで、そこから屈むように窓に近づいた。
そして顔だけ出すように、窓ガラスから外を眺める。
爆発した家庭科室は、中庭をはさんだ左下、向かいの特別教室棟1階に見えるはず……
「廊下の煙は、あいかわらずなの?」
背を向けている九条君に、私は話しかける。
「……煙は弱まりつつあるのかもしれない。そもそも爆発の直前、
「じゃあ、いままで何が燃えていたのよ?」
「…………燃えるとしたら、エプロンとかぞうきんかな」
可燃物になるようなものは、少ないということなのだろうか。
その割には、煙がすごかった気がするけど……
どっちにしろ、
窓際にいた九条君が戻ってきて、私の隣の席に座る。
それから大きく息を
「ちょっと、何やってるのよ? 見に行くんじゃなかったの?」
九条君が座って落ち着こうとしていたので、はっぱをかけた。
「いや、ちょっと怖くて……」
「怖いって、さっきまで勇敢に戦ってたじゃない? 今さら何が怖いのよ。……あ、死体を見るのがイヤってこと?」
「死体じゃなくて、えっと……」
「煮え切らないわね。田久井の死体を確認しないことには、この戦闘に
下を向いていた九条君が、私の顔を見て応える。
「怖いのは…………塩素……かな?」
ん? ……エンソ?
「『混ぜるな危険』を混ぜてしまいました……」
九条君の靴下を輪切りにして、それに輪ゴムを取りつけただけのマスク。
それと小さなポリ袋2枚。
ポリ袋は手袋のように取りつけ、手首に輪ゴムをつける。
この手袋状の袋は
目を守るためのゴーグルも欲しいところだけど、無いので省略。
…………いずれも無いよりはマシといったレベルの装備。
これらを与えて、九条君を教室から放り出した。
こんなときネットで調べれば、詳しい対応策も考えられるのだけど、この世界ではあいにく電話は使えても、ネットは使えない。
胸ポケットの通話状態のスマホから、九条君の足音がわずかに聞こえる。
「田久井が家庭科室にいるなら気絶はないとか、黄緑色の気体が見えないかとか言っていたのは、要するに塩素を指していたということなのね……」
「……その通りでございます」
歩きながら話している九条君は、あくまで低姿勢のようだ。
「戦闘に塩素を使っちゃダメでしょ。たしか、そういう条約もあったわよね」
「ハーグ
「どこの国も塩素は使わないでしょ?」
「塩素は使わないけど、放射性物質を拡散するといわれる、
……低姿勢だったのは最初だけ。
反省の色が見えない……
「とにかく塩素はダメ! ゼッタイ!」
「ポスターの
九条君の足音に、土を踏むような音が混じり始めた。
校舎の外から家庭科室に近づこうということなのだろう。
しかし家庭科室に近づくにつれ、九条君がごね始めた。
「でも……あの家庭科室、換気扇一つしかないんだよ。どうやって塩素を外に出すんだよ?」
「だからって塩素がなくなるまで自然に任せてたら、いつになるかわからないでしょ? そもそも階段を昇っているときに、面倒だけど見にいくって言ってたのは、あなたじゃない」
「いや……明るい所から暗い夜道を見た時、行くのやめとこうかなと思うのは、心の
…………あまりにグチグチいうので、私は思わず声を上げた。
「うっさいわね。やらかしたんなら、お尻も
スマホから大きな
私はその溜息を聞きながら、教室の引き戸を開けた。
廊下をキョロキョロと確認する。
それから外に出た。
学校での戦闘なんて、
こちらの世界の自分の教室が見たくて、痛む足を引きずり、隣にある私のクラス1年4組の引き戸を開けた。
つい数時間前、私はこの自分の教室で目を覚ました。
その時は前回と同じく、今回の戦闘相手も九条君だと思った。
だからすぐに教室を出て九条君のクラス、3組に行ったはずだ。
そのあとコンピューター室に瞬間移動したので、この自分のクラスを見る暇はほとんどなかった。
私が教室で目を覚ましたときは、先生や他の生徒たちはフリーズしていた。
マネキンのように動かなかった。
でも今、この教室には誰もいない。
みんな銃に替わってしまっている。
ほとんどの生徒は授業の始まりに合わせてノートと教科書を開いたようだが、後ろの席の何人かの机の上にはスマホが載っている。
昼休みにスマホをいじっていて、授業が始まっても使い続けたんだろう。
その一つのスマホの電源ボタンを押すと、フェイスIDを要求する画面になった。
フェイスIDを求められても、本人は椅子の上のハンドガンになってしまっている。
一通り教室を見回したあと、教室真ん中にある自分の席に座った。
この教室に友達はいない。
というか、小学生の途中から友達はいないんだけれども……
同級生はみんな私を遠巻きに見て、近づいてくる人はほとんどいない。
さらに悪いことに高校の入学式で、
今思い出すと、初めてクラスの子に話しかけられたとき、うまく答えられなかったんだった。
…………自分から他の人に話しかける方法は思いつかない。
逆に私に対し、積極的に話しかけてくる人は、いきなりナンパ
ここまで考えると、九条君はある意味、異質だ。
私に普通に話しかけてくる。
同じ体質の持ち主だからだろうけど……
好奇心で自分の教室に来てみたけど、嫌なことばかり考えてしまった。
「これから家庭科室内を確認する」
スマホを通して、九条君から連絡が入る。
私は立ち上がって、元の1年5組の教室に戻ることにした。
「まだ確認してなかったのね。早くしてよね」
この学校で唯一話ができる同級生とわかっていながら、九条君にはきつく当たってしまう。
そのことに少し反省する。
足を引きずり4組を出て、もといた5組へ。
足を庇いながら5組の引き戸に手を掛けようとしたところで、半分ほど開いた状態の引き戸が、目の前で大きな音を立てた。
靴下で作ったマスクをトイレの水道で濡らして、口に取りつける。
かなり息苦しくなるが我慢した。
こんな簡単な装備で大丈夫なのかと思いながら、俺は家庭科室の外側、ガス爆発を起こすためにアルコールランプを投げた場所までやって来た。
南グラウンドと校舎のあいだの
アサルトライフル、F2000タクティカルを持ったまま、校舎を見上げた。
3階の窓ガラスも割れているようだ。
よくこんな状態で、ガラスで怪我をしなかったものだ。
――――いや、怪我したんだった。
今、血は止まっているが……
すべて割れてしまった家庭科室の窓からは、わずかだが灰色の煙が漏れている。
…………この世界には風がない。
そのためか、煙はたなびくことなく、まっすぐ垂直に校舎に沿うように空を昇っている。
割れた窓ガラス、その窓枠の下に残ったガラスを丁寧に取り除く。
それから窓枠にポリ袋をつけた手をかけて、ジャンプして教室内をのぞいてみた。
一瞬だが、中の様子がわかる。
…………教室内には煙がまだ残っていた。
机は床と固定されているので、整然と配置されたままだ。
しかし椅子はバラバラになり、倒れている。
廊下側にある食器が入っていたガラス棚……
そのガラスが割れていた。
なんというか、台風が通り過ぎたあとといった感じだ。
ホワイトボードはすすがついて黒くなり、廊下への引き戸は外に倒れている。
もう一度ジャンプして中の様子を確認するが、人が倒れているようには見えない。
塩素の発生源に近い後方の窓ガラスに手をつけ、再度ジャンプした。
――――後ろの方はさらに視界が悪い。
しかし教室後方にある、机とロッカーとの間の広いスペース。
そこにも床に人が倒れているようには見えない。
…………仕方がない。
「これから家庭科室内を確認する」
「……まだ確認してなかったのね。早くしてよね」
スマホ越しの河西は、ティーカップでも傾けながら話をしているかのようだ。
まるで、私には関係ないといいたげだ。
教室前方に移動し、ライフルを先に教室に入れて落とした。
それから鉄棒でもするかのように、片脚を窓枠にかけて家庭科室の中に入った。
すぐ左手に家庭科準備室のドアがあるはずだが、その準備室へのドアは倒れてしまっている。
田久井が生きている可能性を考え、しゃがんだ状態でライフルを構えた。
しかしすぐに立ち上がる。
――――たしか塩素は重い気体。
今は田久井よりも塩素を警戒すべきか……
なんで塩素なんか発生させたんだ、俺……
煙がこもっているというほどではないが、家庭科室内は灰色の世界だ。
ガスの臭いはしない。
パチパチと小さく火の音がする。
教室後ろにある何かが燃えているようだ。
自分としては爆風を起こすことだけが目的だったので、火災が起きたのは意外だ。
…………この位置からでは、人の気配を感じられない。
ライフルを構え、まず家庭科準備室を見て回る。
倒れたドアを踏みつけて、中に入った。
ガラスの
シンクの水に浮かんでいるぞうきんを見て、少しほっとした。
狭い準備室を見て回ったが人はいない。
家庭科室に戻った。
田久井が倒れていて、まだ俺が気づいていないとすれば、窓際から見えない机と机のあいだということになる。
教卓の後ろを通り、ホワイトボード沿いに教室全体を見渡す。
…………いない。
田久井の姿が見えない。
心の壁面を引っかくような
最終確認のため、教室の真ん中の通路を通り、ロッカーのある教室後ろへ……
教室の中央で、一度立ち止まる。
右にある窓際の机の上から反応しなかったと思われる乳白色の漂白剤が、床にぽたぽたと落ちている。
壁となっていたぞうきんがなくなったことで、下に漏れているのだろう。
机の上には倒れたビーカーが1つ……2つ……。
今もそこから煙が出ている。
だが、その煙の量はわずかだ。
煙は机の上を
机の上のビーカーの数が少ないことから、ほとんどは爆発で飛ばされ、床に落ちたらしい。
それでうまく反応せず、発生した塩素も少なかったのかもしれない。
なんにしても俺の思惑通りにはいかなかったというわけだ。
今も反応している煙を見るが、黄緑色なのか……光の加減でよくわからない。
このまま進むと、自分がわずかに発生する塩素の
そのため塩素が出る窓際の机とは反対となる、廊下側に向かって歩いた。
そして最初に仕掛けた、引き戸を開けると包丁が落ちてくる罠の場所まで辿り着いた。
教室の後ろを確認する。
もはや確認する必要もないのかもしれないが、田久井はいない。
つまり……今もなお、生存してどこかにいるということだ。
――――黒い
爆発でどこかに体をぶつけたのなら、出血もありえるからだ。
だが教室後方のロッカーから燃え落ちた、灰以外は何も見当たらなかった。
火の勢いは少しずつ弱まっているようだが、今もロッカーに入っていた何かが燃えている。
何が燃えているのかと、目を
家庭科室が料理だけでなく、
燃えているのは、手芸部員の私物だろうか?
出火原因はプロパンガスの爆発じゃなく、塩酸がかかったことによる発熱か……?
火を消そうか迷ったが、放っておくことにした。
――――今はそれどころじゃない。
靴下で作ったマスクの上から、ライフルのグリップを握るはずの右手を当てていたが、息苦しくなって引き戸の包丁横をすり抜け、廊下に出た。
「――――河西!」
俺の呼びかけをかき消すように、胸ポケットのスマホから引き戸を力一杯開けた時のような音が聞こえてきた。