祝杯まで2秒前

文字数 2,069文字





 程無くして、笑いさざめく店内に、ウインドチャイムの澄んだ音色が、遠慮深げに響き渡った。

 期待に瞳を輝かせた綾乃が、扉の方に顔を向けると、仕立ての良いダークブラウンのスーツにかっちりと身を包んだ小牧原の姿が、視界に飛び込んできた。

 綻び始めた薔薇の蕾のように、艶やかに咲き溢れようとした綾乃の表情が、一瞬にして、凍り付いた。

 その時、見たことのない、小柄で若い女性が、小牧原の背後に隠れるようにして、おずおずと姿を現したのだった。

 村瀬が手を叩きながら、メンバー達にこう呼び掛けた。

 「さあ皆さん、拍手で迎えてあげましょう。

 今夜の主役の二人が、揃ってお出ましになりましたよ」

 その呼び掛けに応じて、集まっていたメンバーの間から、心のこもった、温かい拍手が沸き起こった。

 小牧原とその若い女性は、軽い会釈を返しつつ、レストランの奥の方へと進んでいった。

 その辺りには、木製のサイドテーブルが設置してあり、そこに見事な胡蝶蘭の鉢植えが飾ってあった。

 その付近に佇んで、結婚報告のスピーチをするのが、いつの間にか恒例になっていた。

 小牧原は、終始照れ臭そうな笑みを浮かべながらも、隣に佇む女性との馴れ初めを、堂々たる態度で話し始めた。

 極度のシャイだとばかり思い込んでいた彼のそんな一面に、綾乃は初めて触れた気がした。

 そうして、綾乃の耳には、小牧原の話は一切入ってこなかった。

 ただ彼の隣に寄り添っている女性の姿を、食い入るように見詰めていた。

 彼女は、小柄な上に酷く華奢で、生成り色の総レースのワンピースが、殊の外良く似合っていた。

 肩の辺りでふんわりと揺れる、柔らかそうな巻き髪、ほんのりと薄紅色に染まった、艶やかな頬。

 どれ一つを取ってみても、まるで花の妖精のようだった。

 そして、そんな可憐な女性像とは、綾乃が密かに妄想の世界で育んできた、小牧原に最も似つかわしいであろう女性像と、寸分違わずと言っていいほどだった。

 無意識のうちに、ついそんな空想に手を染めてしまうほど、女性としての自分自身の魅力に、自信を持てずにいたのだ。

 綾乃の周りに座っているメンバー達から、再び拍手が沸き起こったことで、小牧原の話が終わったことを知った。

 続いて、勝手知ったるメンバー達は、乾杯の下準備に取り掛かった。

 各テーブルに据えられているワインクーラーの中から、程良く冷えたロマネ・コンティのボトルが取り出され、コルク栓の抜かれる小気味良い音が、あちこちで響き渡る。

 やがて綾乃のワイングラスにも、深い葡萄色の液体が満たされた頃、小牧原が小柄な女性を伴って、傍にやってきた。

 「綾乃ちゃん、改めて紹介するよ。

 こちら、近藤美咲さん。さっきも皆の前で話したけど、会社の後輩なんだ」

 「初めまして。近藤美咲です。

 小牧原さんから、いつもお話は伺ってました。

 小牧原さんにとって、綾乃さんは、男友達よりも心が許せて、何でも話せる親友なんだって。

 男女間でそんな関係が作れるって、素敵ですよね。羨ましいわ」

 …‥親友?

 屈託のない美咲の声で語られたその言葉は、綾乃の心の奥底では、禍々しい呪いのように響いた。

 小牧原は、二股を掛けていた片方の女のことを、そんなふうに説明していたわけか。

 それは何と明け透けで、何と稚拙な言い訳なのだろう。

 そんな馬鹿げた体裁を純粋に信じ込める女は、世界中を隈無く探しても、美咲以外にはいないだろう。

 何ともおめでたい女だ。

 けれど、彼女以上におめでたいのは、綾乃自身かも知れなかった。

 何故ならば、小牧原のように純朴なタイプの男は、浮気をしたり、二股を掛けたりといった器用な芸当は、決して出来ないだろうと、盲目的に信じ込んでいたからだ。

 世間にまことしやかに流布している価値基準を、鵜呑みにして流用した結果が、この様だ。

 綾乃はおもむろに立ち上がると、開栓してある高級ワインのボトルを手に取り、うっすらと微笑みを乗せた唇で、こう口にした。

 「小牧原さん、美咲さん、ご結婚、おめでとうございます。末永く、お幸せにね」

 それから、二人の頭上に、ゆっくりと、ボトルを傾けた。

 ロマネ・コンティ独特の、濃密で芳醇な香りが花開き、辺りに立ち込めた。

 この瞬間、他人の頭上に、何かを注ぎやすい自分自身の背の高さに関して、綾乃はかつてない快感を覚えた。


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 ・・・ ロマネ・コンティで祝杯を〈祝杯まで1秒前〉へと続く ・・・


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