序章:魔界への誘い
文字数 3,818文字
欧州の乾いた冷風が吹き抜ける中、黒コートの襟を立てた俺は、ローマ市からバチカン市国への入国を果たしていた。
サン・ピエトロ大聖堂は今日も観光客でごった返している。浮ついたツーリストどもを一瞥した俺は、彼らを横目に通り過ぎ、サンタンナ通りを早足で渡った後、ピオX通りを北上する。そうして、待ち合わせの場所に着くと、ローマ市内の屋台で買い求めておいた温かなレモネードを、少しずつ、舐めるように口にした。
あいつは前々からルーズな奴だった。時間通りに来るとはとても思えなかったのだ。
コイツの名はA.G.ゴンサレス。スペイン出身の枢機卿だ。そして、俺のフンボルト大学留学時代の同期でもある。
彼の地の神学部博士課程にて俺とヤツは出会った。かねてから不出来なやつで、俺は何度もヤツのために労を取ってやった。ヤツが苦心惨憺の末に博士論文を提出した時は「ぜんぶCagamiのおかげだヨ!」と泣いて感謝されたものだ。
だが、そんなアイツが今や枢機卿サマだ。人生というのは分からないものである。
ラテン語で言えばArchivum Secretum Apostolicum Vaticanum。
こいつは名前の響きほど大層なものではない。ラテン語のSecretumは機密というよりは「私用」と言った意味合いが強い。アクセスは一部の研究者を除き、厳しく制限されているが、それは単にここの蔵書が教皇の個人的資産であるからだ。
だが、フンボルト大学中退後、キリスト教界の光と闇を追い続けてきた俺は知っている。バチカン機密文書館の本当の姿を……。
フンボルト大学時代、いかなる申請を行っても決して立ち入ることの許されなかったセクションが機密文書館に存在していることを。
マグダラのマリアの婚礼に関する事実、真の宝の在処を示した"銅の巻物"の完全復元物、イエスが唱えたとされる輪廻転生説の裏付けとなる写本など、様々な重要文書をバチカンが秘蔵していることまでは俺の方でも調べが付いていた。だが、その現物を拝む機会はこれまでついぞ訪れなかったのである。
警備の連中はゴンサを見るや否や最敬礼で畏まった。顔パスというやつだ。まさか、これはひょっとすると、本当にひょっとするのか!?
機密文書館の重々しい扉をいくつも潜った頃、俺は堪えきれなくなってゴンサに詰め寄った。一体何を見せてくれる気なのか、と。
一段と重々しい拵えの扉を開いて入室した後、ヤツは悪戯っ子のように笑って言った。
様式からして、おそらく十六世紀後半のものだ。さほど古い代物ではない。中身は中世ラテン語で書かれている。その一行目には「聖母にまつわる一連の異端的事件の顛末」とあった。これは……報告書か何かか?
博覧強記で知られる俺が見たことも聞いたこともない書類だ。おそらくはこれもバチカンにのみ秘蔵されてきた一品であろう。
だが、俺はガッカリしてしいた。
この時代の物であれば、さほど大した代物とは思えない。タイトルからして、おそらくはマリア崇敬に関するプロテスタント陣営とのいざこざの記録であろう。キリスト教史学者や文献学者なら喜ぶかもしれないが、所詮はマニアックな愉しみに過ぎない。俺が追い求めているのは、これまでのキリスト教の概念を根底から覆すような驚愕の真実というやつなのだ。
眉間に皺を寄せた俺に対して、ゴンサは先を読むようにと急かしてくる。俺は何の期待も込めずに中世ラテン語を読み解いていく。だが、次第に文書を読む俺の顔には翳りが生まれ、戦慄き始め、最後には顔を真っ青に染めて顔を上げた。目の前のゴンサはなおも悪戯っ子のように笑っていた。
しかし、俺は堪らなくなって、声を荒らげてゴンサに迫った。
ゴンサレスは……いや、バチカンは、決して見せてはいけない相手に超A級の機密文書を見せてしまったのだ。俺の脳味噌は急速回転し、バチカン市国から生きて脱出する方法を必死に探り始めた。