序章:魔界への誘い

文字数 3,818文字

 二〇一七年、晩秋ーー。

 

 欧州の乾いた冷風が吹き抜ける中、黒コートの襟を立てた俺は、ローマ市からバチカン市国への入国を果たしていた。

 サン・ピエトロ大聖堂は今日も観光客でごった返している。浮ついたツーリストどもを一瞥した俺は、彼らを横目に通り過ぎ、サンタンナ通りを早足で渡った後、ピオX通りを北上する。そうして、待ち合わせの場所に着くと、ローマ市内の屋台で買い求めておいた温かなレモネードを、少しずつ、舐めるように口にした。

 あいつは前々からルーズな奴だった。時間通りに来るとはとても思えなかったのだ。

 果たして、待ち合わせの時間から二十分以上が経過し、レモネードがすっかり冷え切った頃、いつものヘラヘラ笑いを浮かべながら、あいつがようやく姿を現した。何が嬉しいのか、ご機嫌な様子で手を振りながら、こちらに向けて駆けてくる。
「Hi! Cagami! ユー、お久しぶりだヨ~!」
「ナイストゥーミツユー、Mr.ゴンサレス」
 俺はヤツと義務的なハグを交わして、義務的な握手を求めた。相手は相変わらずの、英語交じりの奇妙な日本語で話しかけてくる。素直にスペイン語で話しかけてこいと何度も言っているのに、ヤツは頑なに下手くそな日本語を止めようとしない。

 コイツの名はA.G.ゴンサレス。スペイン出身の枢機卿だ。そして、俺のフンボルト大学留学時代の同期でもある。

 彼の地の神学部博士課程にて俺とヤツは出会った。かねてから不出来なやつで、俺は何度もヤツのために労を取ってやった。ヤツが苦心惨憺の末に博士論文を提出した時は「ぜんぶCagamiのおかげだヨ!」と泣いて感謝されたものだ。

 だが、そんなアイツが今や枢機卿サマだ。人生というのは分からないものである。

「で、ゴンサ。俺に見せたいものとはなんだ。知っての通り、俺は多忙でな。クソ下らねえ観光案内なら今すぐ帰るぞ」
「Oh! 案ずるナッシング! ユーが目玉飛び出して喜ぶ、大発見を見せてあげるヨ!」
 相変わらず調子の良いことをベラベラくっちゃべる男だ……。

 だが、俺が期待しなかったと言えば嘘になる。この待ち合わせ場所、そして、ヤツが向かう方向。間違いなく、行き先は……バチカン機密文書館!

 バチカン機密文書館ーー、

 ラテン語で言えばArchivum Secretum Apostolicum Vaticanum。

 こいつは名前の響きほど大層なものではない。ラテン語のSecretumは機密というよりは「私用」と言った意味合いが強い。アクセスは一部の研究者を除き、厳しく制限されているが、それは単にここの蔵書が教皇の個人的資産であるからだ。

 ーーと、いうのが一般的な認識である。

 だが、フンボルト大学中退後、キリスト教界の光と闇を追い続けてきた俺は知っている。バチカン機密文書館の本当の姿を……。

 フンボルト大学時代、いかなる申請を行っても決して立ち入ることの許されなかったセクションが機密文書館に存在していることを。

 マグダラのマリアの婚礼に関する事実、真の宝の在処を示した"銅の巻物"の完全復元物、イエスが唱えたとされる輪廻転生説の裏付けとなる写本など、様々な重要文書をバチカンが秘蔵していることまでは俺の方でも調べが付いていた。だが、その現物を拝む機会はこれまでついぞ訪れなかったのである。

 ゴンサがヘラヘラ笑いのまま、俺を連れ立って機密文書館へと入っていく。

 警備の連中はゴンサを見るや否や最敬礼で畏まった。顔パスというやつだ。まさか、これはひょっとすると、本当にひょっとするのか!?

 機密文書館の重々しい扉をいくつも潜った頃、俺は堪えきれなくなってゴンサに詰め寄った。一体何を見せてくれる気なのか、と。

 一段と重々しい拵えの扉を開いて入室した後、ヤツは悪戯っ子のように笑って言った。


「銅板? 福音書? HaHaHa! 今からユーに見せるものは、そんなチャチーなものじゃないヨ~。ホーラ、目をかっぽじって見やがって下サーイ」
 そういって、奴が手渡してきたのは手紙の束だった。

 様式からして、おそらく十六世紀後半のものだ。さほど古い代物ではない。中身は中世ラテン語で書かれている。その一行目には「聖母にまつわる一連の異端的事件の顛末」とあった。これは……報告書か何かか?

 博覧強記で知られる俺が見たことも聞いたこともない書類だ。おそらくはこれもバチカンにのみ秘蔵されてきた一品であろう。

 だが、俺はガッカリしてしいた。

 この時代の物であれば、さほど大した代物とは思えない。タイトルからして、おそらくはマリア崇敬に関するプロテスタント陣営とのいざこざの記録であろう。キリスト教史学者や文献学者なら喜ぶかもしれないが、所詮はマニアックな愉しみに過ぎない。俺が追い求めているのは、これまでのキリスト教の概念を根底から覆すような驚愕の真実というやつなのだ。

 眉間に皺を寄せた俺に対して、ゴンサは先を読むようにと急かしてくる。俺は何の期待も込めずに中世ラテン語を読み解いていく。だが、次第に文書を読む俺の顔には翳りが生まれ、戦慄き始め、最後には顔を真っ青に染めて顔を上げた。目の前のゴンサはなおも悪戯っ子のように笑っていた。

 しかし、俺は堪らなくなって、声を荒らげてゴンサに迫った。

「オイ、こ、これは何だッ! ここに書かれていることが本当だとしたら…………大変なことだぞ! 世界中の信仰地図が塗り替えられる! 人類の歴史認識が一変する!」
「そうだよ……ユー。これは大変な一品だ。バチカンにはね、とんでもない不発弾が埋まってたんだ」
 ゴンサはニヤニヤ笑いを崩さない。けど、ヤツの目はもう笑っちゃいなかった。ゾクリとするような冷たい眼差しで俺を見詰めている。

 そうして、ヤツは後手で扉の鍵をカチリと締めた。

「機密文書館の未整理セクションからコイツが発見されたのは三年前……。内容の重大性から、我々は直ちにリサーチに入ったヨ。だが、調査の結果……ここに書かれている内容は全て真実……トゥルースだと分かった。ボクたちバチカンにとっては、とても残念なコトだけどネ……。あらゆる方向から検証が行われたが、全てはこの文書の真実性を裏付けるだけだった」
「…………なぜ、これを俺に見せた。俺の仕事は知ってるだろ? あんたらバチカンの闇を明るみに引きずり出して、面白おかしく世間に喧伝するのが俺の仕事だぜ……」
 俺の背中を冷たい汗が滝のように流れ落ちていた。

 ゴンサレスは……いや、バチカンは、決して見せてはいけない相手に超A級の機密文書を見せてしまったのだ。俺の脳味噌は急速回転し、バチカン市国から生きて脱出する方法を必死に探り始めた。

「大丈夫デース、Cagami……。バチカンはあなたを害する気はありまセーン」
「なら……何が望みだ! 貴様らバチカンは何を企んでいる!」
 顔を強張らせた俺に対し、ゴンサは含みのある笑いで応えた。
「HaHa……。Cagamiには、いつもどおり、天職を全うして欲しいだけデース。そう、いつもどおり……Alwaysいつもどおりデース……」
「書け……ってのか? ここに書かれた内容を……全て暴露しろってのか? 正気とは思えねえが……こいつが公開されたら、あんたらバチカンは終わりだろうが!」
「Cagami……怯える必要あっりマセーン。コレは我ら枢機卿団の決定事項で教皇サマも承認済デース。ユーはいつもどおり、おもしろおかしく好き勝手に書き立てれば良いのデース」
「なッ……なんだと!?」
「ユーがこれまで書いた著作は、世間一般には全て怪文書と認識されてマース。バチカンがいくら隠しても、この文書もいつかはディスカバリ……公開されるでショウ。ならば……Cagami、ユーにあえて公開させて、荒唐無稽な法螺話として世間に流布させた方がバチカンも都合が良いのデース」
「読めたぞ、俺にバチカンの陰謀の片棒を担がせようという腹か! だが、俺も舐められたものだな。ゴンサ、貴様とのやり取りも全て書かせてもらう! 全世界がこの恐るべき真実に直面するだろう……!」
「オゥ、一向に構いまセーン。バチカンはある意味ユーをとっても信用してマース。ユーが何を書いても世間は全て怪文書扱いデース、AHaHaHa!」
「ファック!」
 俺は隠し持っていたレミントン・デリンジャーをぶっ放し、扉の鍵を粉砕! タックルで扉を打ち破り、銃声に驚いて駆け込んできたバチカン衛兵三名をアイキドーで殴り倒した。そのままローマ市へと逃げ込み、JALのエコノミークラスで日本へと帰国。そうして、直ちにこの原稿の執筆に取り掛かったのである。バチカンの大陰謀を阻止するために!
 ああ! それにしても、なんたる畏怖すべき真実であろうか……!

 まさか、あの騒乱たる宗教戦争の裏面で、聖母マリアを巡る恐るべき暗闘が繰り広げられていようとは……!

 原稿用紙を走る俺の筆跡は震えて乱れ、額から垂れる脂汗が水溜りのように机を濡らしている。

 このような恐怖が歴史に刻みつけられたこの世界は、もはや魔界そのものと言っても過言ではない!


 俺は今にも発狂しそうになる脳髄に抗いながら、必死にペンを走らせている。

 バチカンが闇に葬らんとしている恐るべき事実を暴露するため。

 この世界の真の実相を皆に知らしめんがためにーー!

 諸君、どうかこの真実から目を逸らさないでくれ!

 

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登場人物紹介

架神恭介


日本人の作家。

友人の枢機卿に呼ばれてバチカンの機密文書館を訪れた際、そこでキリスト教2000年の歴史を覆す恐るべき秘史を目の当たりにし、本書の執筆を志す。

A.H.ゴンサレス


スペイン出身の枢機卿。

フンボルト大学神学部博士課程における架神恭介の同級生。

ある思惑により架神をバチカンへと招いた。

キアラ・クロフォード


クロフォード家長女。27歳。

得意武器は十字架だが、類まれなる戦闘力と信仰力を持ち、様々な聖武装を操る。

教皇への忠誠を誓った、冷徹な異端審問官。

(Photo by chauromano)

オリーヴィア・クロフォード


クロフォード家次女。23歳。

聖別されし青銅鎧に身を包んだ筋骨隆々たる信仰戦士。

破邪の大斧「エスピアツィオーネ」を操り、異端を骨ごと斬り捨てる。

だが、実は妹弟想いの心優しき戦士である。

(photo by See-ming Lee 李思明 SML)

ダリオ・クロフォード


クロフォード家長男。18歳。

得意武器は鞭だが、クロフォード家の中では最も信仰力が低く、鞭は破邪の力を持たない。

そのため両親や長女のキアラからは冷や飯を食わされている。

(photo by ƒe)

エメリア・クロフォード


クロフォード家三女。17歳。双子の姉。

得意武器は聖書。

行動的な性格で慈悲深く、地元では聖女と謳われている。

(photo by Lucas de Vries)

デメトリア・クロフォード


クロフォード家四女。17歳。双子の妹。

高い信仰力を持つが、戦闘力は低い。

年若きこともあり、一家の中ではやや精神的な脆さがある。

(photo by Lucas de Vries)

マルキオン


アナテマの七人の一人。160年頃没。

槍のように長大な陰茎を持ち、マリアの処女を狙う。

(photo by tibchris)

聖母マリア


ナザレの少女にして処女。15歳。

邪教、異端の徒の呪力により、紀元前の中東から1537年のヨーロッパへと時空間転移させられ、恐るべき魔人どもに処女を付け狙われる。

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