第三章・第二話 リフレイン
文字数 8,129文字
どうして、
「――
邦子が、袴の裾を裂いて家茂の腹部の傷を止血をする
応急手当の方法なんて、知らない。学んでおくんだったという後悔と反省は、脳内をほんの
閉じた瞼から伸びた睫が、殊更白く見える彼の頬に、影を落としている。
「嫌だ、家茂……! お願い、目ぇ開けて!!」
「宮様、落ち着いてください。まだ脈はあります」
「でもっ……姉様、早く、早く
「
誰か分からない声がそう告げるが、それも脳内を素通りした。
***
そのあと、何がどうなったのかは、記憶が曖昧だった。
誰かが言った通り、すぐに奥医師が来て、家茂の診察と手当をしてくれた。それは覚えている。
『ご安心ください、御台様。お命に別状はございません。ただ、傷の痛手で多少、熱が出るかも知れませんが』
そう告げたのは、確か
『わたくしは、次の
言い置いた松本が下がって行ったのが、どのくらい前だったのかの記憶はもうない。
和宮は、家茂の枕元へ座り込んで、時折ウトウトし、ハッと目覚めて彼の呼吸を確認して、安堵してはまたウツラウツラ船を漕ぐことを繰り返していた。
『翌日、お前がケロッと目ぇ覚ますまでがどんだけ長かったかなんて、お前は知らないだろ』
ふと、家茂と想いを通わせてから程なく言われたことが、頭をよぎる。
(……ホントだね)
収まったはずの涙がまたぶり返すのを感じながら、和宮は彼の額に指を這わせた。
常にない熱を感じ、水に浸しっ放しになっていた手拭いを絞ろうとするが、水ももう
「姉様……」
小さな声で言いながら視線を巡らせると、小袖と袴姿のままの邦子は、
考えてみれば、邦子も先刻の戦いで傷を負っていた。そっと彼女に
(……でも、姉様も、ちゃんと寝たほうがいいんじゃないかな)
とは言え、今起こせば『申し訳ございません』とか何とか言いながら、起きていようとするに決まっている。睡眠が
そっと息を
上げそうになった悲鳴をどうにか呑み込み、そこへ視線を向ける。手首を掴んだ手の
「ッ……家茂」
気が付いた、と思うと、安堵のあまり、何度目かで力が抜けそうになる。だが、こうしてはいられない。
「待って、今、松本呼んでくる」
「……いい」
「でも」
「言ったろ。掠り傷だって」
「嘘っ……!」
反射で甲高い声を上げそうになって、慌てて空いた手で口を押さえる。
「……嘘
「……横になってたほうがいいよ。今、松本呼んでくるから」
「そっちこそ、ちゃんと手当してもらったんだろうな」
「え」
「ほら」
家茂は、こちらを気遣うように、和宮の右手をそっと引っ張る。途端、ギクリと刺激が走って、和宮は肩を震わせた。
袖を
「……あ、えっと……」
熾仁と一悶着した際に、傷付けていたらしい。もっとも、家茂が目の前で倒れた所為で、そちらに気を取られ、すっかり忘れていた。
「……松本が……気が付いてくれて」
家茂の手当が一段落してから、邦子の治療もしながら、松本は
「……さすがだな」
クス、と小さく笑った家茂は、和宮の包帯の上からそっと傷口に口づける。
「……家茂」
「こっち見て」
「ちょっ……ン」
優しく左手で頬を引き寄せられ、唇を塞がれる。相手は怪我人だ、しかも軽くない傷を負っていると思うと、あまり思い切った抵抗はできなかった。だが、伝わってくる熱が、彼が間違いなく生きていることを教えてくれる。
改めて込み上げた感情が、安堵だったのか、それとも別の何かなのかは分からない。口づけによる生理的な涙とは違うそれが頬を伝い、それに気付いたのか、家茂が唇を啄むようにして放した。
「……
互いの顔が見える距離まで離れると、家茂が首を傾げているのが分かる。
「……悪い。嫌だった?」
「違っ……」
小さく首を振って、彼にしがみつく。
「……愛してるわ」
「……
脈絡なく、そう口から出て、自分でも戸惑う。だが、撤回するつもりはなかった。
離れそうにない和宮の背に、家茂の腕がそっと回る。
「……久し振りだな。
「……だって……」
ずっと、不安だった。家茂は、未だに心の底では、和宮を疎んじているのではないかと――本当は、
愛しい
もちろん、態度では伝えていたつもりだが、言葉にはできなかった。
それが、柊和を殺した自分には、
けれど――
「だって――何?」
静かに促されて、和宮はノロノロと家茂から離れようとする。互いの顔が見える程度の距離まで離れたが、家茂は和宮に回した腕を放そうとしない。
「
「家茂……」
「うん?」
「あたし……愛してるって、言ってもいい?」
「えっ?」
何を問われたのか、分からなかったのだろう。キョトンとした声音が返るが、彼がどんな顔をしているのかは、目を伏せた和宮には見えない。
「あたしの、気持ち……迷惑じゃない?」
「何でそう思うんだよ」
問いを重ねながらも、涙腺が壊れたように涙があとからあとから溢れて止まらない。家茂は、苛立った様子も見せずに、優しく和宮の頬を拭った。
「だって……あたし……あたしが、柊和さんを殺したんだよ?」
家茂が息を呑んだように、一瞬沈黙する。だが、頬に触れる掌はそのままだ。
「……まだ、そんな風に思ってたんだな」
「だって、そうでしょ。あたしが、いなかったらきっと柊和さんはまだ――」
不意に、少し強めに引き寄せられる。言葉を遮るように唇を塞がれた。混乱する内に、強引に唇を抉じ開けられ、彼の舌先が口腔へ侵入して来る。
覚えず漏れた甘い呻きが、彼を煽ったらしいと気付いても手遅れだ。傷を負った今、どこにそんな力があるのか、完全に
何も考えられなくなった頃合いを見計らったように、家茂は唇を解放した。
「……ッ、家、」
「……俺も、愛してる、
「家、茂……?」
「だから……お前が、柊和を殺したんじゃないかなんて、要らない心配も妄想もしなくていい」
触れさせたままの唇を啄みながら、家茂は合間に言葉を紡ぐ。
「でも」
「お前も被害者だろ」
「だけど」
「不安なら、お前が安心して納得するまで、何度でも聞かせてやる。お前の所為じゃない」
「家茂……」
「お前が好きだ。愛してる」
「もっ、もう、言わないで」
顔中に口づけの雨を降らせながら言う家茂の胸元を、思わず押し返す。
「何で」
「だっ、だって……そんなこと言われたら、本気にしちゃうよ」
「……掛け値なしに本気なのに、
「でもっ……そしたらきっと還せなくなっちゃう」
柊和さんに、と言い掛けたそれは苦労して呑み込む。が、家茂にはしっかり伝わったらしい。むっつりと唇の両端が下がる。
「俺はモノですか、皇女サマ」
「そっ、そうじゃなくて、でも、……元々は、柊和さんの、だから」
「そういう言い方、あんま好きじゃねぇけどな。敢えてその言い方するなら、俺はもうお前の
クス、と何度目かで苦笑した家茂は、和宮の髪の毛を一房掴んで口づける。伏せていた目を上げてこちらを見る視線が、妙に艶めかしくて、和宮はどぎまぎと目を
「……死んでも放さないって、言ってもいい?」
「こっちの台詞だよ」
「……ホントに?」
「ああ」
「あの世に逝っても放さないって言ってるのよ?」
「分かってる」
「柊和さんのトコに還らなくって平気?」
さすがに家茂も言い淀んだ。かと思えば、どうにもすまなそうな苦笑で和宮を見る。けれども、彼の口から出たのは、予想とは真逆だった。
「……俺の所為で死んだのに、本っ当にあいつには申し訳ないんだけどさ。気持ちはもう戻れねぇと思う。今、あいつが生きてたとしても……多分な」
「でっ、でもっ……柊和さんが死んだのは家茂の所為じゃないでしょ」
思わず言うと、家茂はどこか面白そうに唇の端を吊り上げる。
「本当にそう思うのか?」
「だって最初にあんたの意思を無視して公武合体、なんて言い出したの、幕閣じゃない。だから」
「だったら、その台詞、そっくりお前に返すよ」
続きを完全に口内へ押し戻された気がして、和宮は思わず口を閉じた。こちらが沈黙したと見て取ったのか、家茂が和宮の唇に指先を触れさせながら続ける。
「柊和が死んだのは、お前の所為じゃない。手を下したのもお前じゃない。だろ?」
「……でも、きっかけを作ったのは」
「公武合体を言い出した連中だ。違うか?」
一瞬またどう返していいか分からなくなって噤んだ唇が、波打っているような気がした。
「……本当に、そう思っていいの?」
「ああ」
「……あたしの所為じゃないって……思ってていいの?」
「お前がそう思えないなら、俺が何度でも言ってやるよ。柊和の死とお前は無関係だ」
宥めるように頬を撫でられながら言われて、しばらく鎮まっていた涙がぶり返す。
家茂は、もう何度目かで微苦笑しながら、和宮の顔を引き寄せ、唇を柔らかく啄んだ。
「家、」
「俺は心底、そう思ってる。だから、……もう怖がらないでいい」
「……ッ、ふ……」
言われて気付く。
(……そっか、あたし……怖かったんだ)
本当は家茂に蔑まれていないか、疎んじられていないか。
彼への想いを自覚してからずっと、何かを計ってきたような気がする。二人が一緒になった経緯からして、法的な離縁は余程のことがなければあり得ないと思っていい。が、気持ちの上で捨てられた時に、心の痛手が浅く済むように――
「家、茂……」
「言ったろ。俺は
(何で、そんなことまで)
熾仁に一度突き放されたあの時、感じたのは失望だった。同時に、一人の恋していた女として傷付いてもいたことに、今の今まで気付いていなかった。
それを、家茂は気付いていたのか。
「
「ン」
「
口づけの合間に、優しい告白が続いて、涙が止まらなくなる。
「あたし……ッ、あたし、も」
愛してる、と続けることは嗚咽に遮られてできない。代わりに、自分からも辿々しく、彼の唇に自分のそれを押し当てる。
「……大好き……」
「俺もだ」
「死んでも放さないから」
「だから、こっちの台詞だって言ってるのに」
小さく微笑した彼は、顔を傾け直した。角度を変えて繰り返される口づけに、意識が蕩けていくのも止められない。
やがて彼の手が、着物の
「ちょっ、家茂!」
何とか唇を離して、彼の胸元に腕を突っ張ろうとする。
「……何だよ」
そう返した彼の顔は、いかにも不服そうだ。
「何だよ、じゃないでしょ! そろそろ松本呼んで来るから」
力の抜けそうになっている足を叱咤して立ち上がろうとするが、家茂が放す様子はない。
「だから平気だって。掠り傷だっつの」
言いながら和宮の肩を抱き込み、首筋に顔を埋める。
「掠り傷なわけないで……」
「そこまでに願います、上様」
いよいよ暴走を始める夫を、力なく止めようとする和宮の声とは打って変わり、冷え切った声音が背後から響く。
視線だけで確認すると、いつの間にか目を覚ました邦子が、文字通り家茂の目の前に、手にした薙刀の切っ先を突き付けていた。
「ね、姉様……ご、ごめん、起こした……よね」
自分のほうへ向けられたわけでもない武器の先端に、和宮のほうが背筋を凍らせている。
「いえ。うっかりうたた寝したようで、申し訳ございません。起こしていただいて助かりました。上様。速やかに横におなりください。ただいま奥医師を呼んで参りますので」
「……いつもは気ぃ利かせてくれんのに、今日は随分無粋だな」
他方、家茂は顔色一つ変えずに、目前に向けられた切っ先は綺麗に無視して、邦子を
「時と場合によります。無理した挙げ句に命がなくなったらどうされるおつもりです。
「……分かったよ、ったく……」
家茂は、不承不承という様子で和宮に絡め付けていた腕を緩めた。同時に薙刀の切っ先を、犬でも追い払うように、シッシッ、と手で払う仕草をしている。
家茂が横になる
その瞬間、家茂は和宮の頭を引き寄せ、往生際悪く、軽く口づけた。
***
その日は、家茂の枕元で夜明かしした。翌日になって、邦子が滝山から確認したところ、結局
「しかし、半鐘の音が派手に鳴り響いたので、大半の
主立った方々、というのは恐らく、
「そして、わたくしが席を外した隙に、宮様の元へ現れた三人が、率先して『自分たちが御台様の元へ行く』と名乗り出たとか」
「……それが、熾仁兄様の手の者だったってこと?」
「そこまではまだ……ほかに、熾仁様の逃亡を手引きした者もいますし」
「……そいつに付いては、心当たりがある」
松本の処置で、眠っているとばかり思っていた家茂が、不意に口を挟んだ。
だが、やはり昨夜倒れたあとは無理をしていたらしい。今は声が掠れているし、目を開ける元気もないのか、瞼は閉じられたままだ。
「……ごめん、家茂。起こしたよね」
「……いや……平気だ。寝てる場合じゃねぇ……」
「寝てる場合でしょ。今はあんたは快復に集中して。でないと、邦姉様にぶん殴ってでも寝かし付けてもらうから」
「はい、お任せを」
薄く目を開けた家茂は、「
本当は、家茂から離れた、別室ででも話ができればいいのだが、状況が状況だけに、今は彼の傍を離れるのは
「……ですが、上様。お休みになる前に一つだけ」
「……有栖川宮を手引きしたのは多分……
邦子の問いの内容を聞く前に、家茂は呟くように答える。
和宮は息を呑んだ。邦子と顔を見合わせ、家茂に顔を戻す。
「……どうしてそれが分かるの」
熾仁も、彼を連れて消えた侵入者も、黒い装束に黒い覆面をしていた。顔が見えなかったのに、なぜ――という意を含んだ質問だと分かったのだろう。
家茂が、やや億劫そうに言葉を継いだ。
「……何回か……あいつとは、手合わせしたことがある。あいつの、太刀筋なら……
それでその場の気力を使い果たしたらしい。家茂は、これだけ言うと、程なく安らかとは言い
一つ息を吐いた和宮は、彼の布団を直して、額に唇をそっと落とす。その額には、まだ平熱とは言えない熱さを感じた。
「……一橋慶喜って、どんな男だろ。姉様、知ってる?」
冷やした手拭いを絞って家茂の頬へ押し当てながら、ダメ元で
「……実は慶喜殿の兄君のところへ、わたくしの姉が嫁いでおります」
「えっ、そうなの!?」
思わず振り返ると、邦子は神妙な顔で頷く。
「
和宮は、目を見開いた。
「嘘、線宮様って確か……」
「はい」
邦子は、また一つ頷いて、口を
「熾仁様の
ちなみに線宮は、何年か前に亡くなったと、熾仁から聞いた覚えがある。
「……熾仁兄様の……」
呆然と呟いて、和宮は手にしたままだった手拭いを握り締めた。
「……それって……今回のことと、関係あるのかな」
今回のこと――つまり、慶喜と思しき人物と、熾仁が連れ立って
「ない、とは申せぬでしょう。そもそも、熾仁様と慶篤殿、慶喜殿ご兄弟はご親戚ですから」
「えっ、ホント!?」
またも頓狂な声を上げて、邦子を見る。邦子は何度目かで小さく頷いた。
「慶篤殿と慶喜殿は同母の兄弟で、お二人の母君が、有栖川宮家からお二人の父君である徳川
つまりは遠縁だ。
「それで連れ立って忍び込んで来たんだ……」
しかし、関係性が分かったところで、精々手を組んだ切っ掛けが判明しただけだ。
熾仁はもちろん、和宮を取り返しに来たのだろうが、慶喜の目的はまだ分からない。
そこまで考えて、家茂に目を落とした。彼は相変わらず、どこか浅い呼吸をしながら眠っている。
『あいつの太刀筋なら、戦り合えば分かる』――
家茂は、確か先刻こう言った。つまり、慶喜と真剣で戦り合い、斬られた。
家茂の正確な技量は知らないが、慶喜は家茂と互角、もしくはそれ以上の戦闘能力の持ち主だということか。そうでなければ、以前『自分の身は自分で守れる』とこともなげに言っていた家茂が、重傷を負った説明が付かない。
(……まさか、慶喜も……家茂を殺そうとしてるの?)
不意に、その考えが浮かぶ。熾仁を連れ去った時、慶喜(仮)は覆面をしていた。だが、家茂のほうは素顔を晒していた。
家茂によると、慶喜は将軍後見職に最近就いたという話だから、慶喜も家茂の顔は知っているはずだ。なのに、斬り合う事態になって、傷まで負わせたのなら、それが事故という線は消える。
慶喜に、家茂を傷付けたり、ましてや殺すという意図がなかったなら、戦闘は避けるだろう。それをしなかったということは――
(……まだ分からないけど……)
どういう状況だったかは、家茂に訊けば分かる。ただ、それは当分先になりそうだ。
それに、和宮は慶喜とは一面識もなく、彼がどんな人間かもまったく知らない。これでは、何も判断できない。
「……姉様」
「はい、何でしょうか」
「頼みたいことがあるの。お願いできる?」
「もちろんです。何なりと」
いつものように凛と答えた彼女は、頭を下げる。纏め上げた黒髪が、彼女の肩先をサラリと滑った。
©️神蔵 眞吹2024.