第三章・第二話 リフレイン

文字数 8,129文字

 一体、どうしてこんなことに。そもそも、何が起きたのか。
 どうして、熾仁(たるひと)はいとも簡単に大奥へ侵入(はい)り込めたのか。熾仁を連れ去った人物は何者なのか――様々な疑問が脳内を渦巻く中、結局一番心配なことは一つだけだった。

「――家茂(いえもち)っ……家茂!」
 邦子が、袴の裾を裂いて家茂の腹部の傷を止血をする(あいだ)和宮(かずのみや)はただ、座り込んで彼を()(かか)え、彼の名を呼ぶことしかできなかった。
 応急手当の方法なんて、知らない。学んでおくんだったという後悔と反省は、脳内をほんの(またた)きの(あいだ)掠め、あとは彼の瞼が早く(ひら)かないかと念じることで頭が一杯になった。
 閉じた瞼から伸びた睫が、殊更白く見える彼の頬に、影を落としている。
「嫌だ、家茂……! お願い、目ぇ開けて!!
「宮様、落ち着いてください。まだ脈はあります」
「でもっ……姉様、早く、早く御匙(おさじ)〔奥医師〕を呼んで!!
御台(みだい)様。今、表へ遣いをやりました。すぐに御匙が参ります」
 誰か分からない声がそう告げるが、それも脳内を素通りした。

***

 そのあと、何がどうなったのかは、記憶が曖昧だった。
 誰かが言った通り、すぐに奥医師が来て、家茂の診察と手当をしてくれた。それは覚えている。
『ご安心ください、御台様。お命に別状はございません。ただ、傷の痛手で多少、熱が出るかも知れませんが』
 そう告げたのは、確か松本(まつもと)良順(りょうじゅん)と名乗る男だった。割合最近、奥医師になった医者らしい。
『わたくしは、次の()に控えておりますゆえ、何かありましたらお呼びください』
 言い置いた松本が下がって行ったのが、どのくらい前だったのかの記憶はもうない。
 和宮は、家茂の枕元へ座り込んで、時折ウトウトし、ハッと目覚めて彼の呼吸を確認して、安堵してはまたウツラウツラ船を漕ぐことを繰り返していた。
『翌日、お前がケロッと目ぇ覚ますまでがどんだけ長かったかなんて、お前は知らないだろ』
 ふと、家茂と想いを通わせてから程なく言われたことが、頭をよぎる。
(……ホントだね)
 収まったはずの涙がまたぶり返すのを感じながら、和宮は彼の額に指を這わせた。
 常にない熱を感じ、水に浸しっ放しになっていた手拭いを絞ろうとするが、水ももう(ぬる)くなっている。
「姉様……」
 小さな声で言いながら視線を巡らせると、小袖と袴姿のままの邦子は、薙刀(なぎなた)()()い棒代わりに、珍しくうたた寝していた。
 考えてみれば、邦子も先刻の戦いで傷を負っていた。そっと彼女に膝行(しっこう)し、彼女の額に手を当てる。幸い、家茂ほど高い温度は感じない。
(……でも、姉様も、ちゃんと寝たほうがいいんじゃないかな)
 とは言え、今起こせば『申し訳ございません』とか何とか言いながら、起きていようとするに決まっている。睡眠が()れているだけ、現状のほうがまだマシだろう。
 そっと息を()いて、家茂の枕元へ戻った和宮は、桶を持って立ち上がろうとした。その時、不意に右手首を掴まれる。
 上げそうになった悲鳴をどうにか呑み込み、そこへ視線を向ける。手首を掴んだ手の(ぬし)は家茂だった。ぼんやりしたと薄く(ひら)かれた彼の目が、和宮を見上げている。
「ッ……家茂」
 気が付いた、と思うと、安堵のあまり、何度目かで力が抜けそうになる。だが、こうしてはいられない。
「待って、今、松本呼んでくる」
「……いい」
「でも」
「言ったろ。掠り傷だって」
「嘘っ……!」
 反射で甲高い声を上げそうになって、慌てて空いた手で口を押さえる。
「……嘘()きなさい! 気絶したクセに、信じないわよ軽傷だなんて!」
 (ひそ)めた声で続けると、家茂は苦笑して起き上がろうとした。傷が痛んだのか、唇を噛み締めた彼の背を慌てて支えて、助け起こす。
「……横になってたほうがいいよ。今、松本呼んでくるから」
「そっちこそ、ちゃんと手当してもらったんだろうな」
「え」
「ほら」
 家茂は、こちらを気遣うように、和宮の右手をそっと引っ張る。途端、ギクリと刺激が走って、和宮は肩を震わせた。
 袖を(まく)られると、その下には包帯を巻いた前腕部がある。
「……あ、えっと……」
 熾仁と一悶着した際に、傷付けていたらしい。もっとも、家茂が目の前で倒れた所為で、そちらに気を取られ、すっかり忘れていた。
「……松本が……気が付いてくれて」
 家茂の手当が一段落してから、邦子の治療もしながら、松本は目敏(めざと)く、和宮の袖にも血が滲んでいるのに気付いたようだった。
「……さすがだな」
 クス、と小さく笑った家茂は、和宮の包帯の上からそっと傷口に口づける。
「……家茂」
「こっち見て」
「ちょっ……ン」
 優しく左手で頬を引き寄せられ、唇を塞がれる。相手は怪我人だ、しかも軽くない傷を負っていると思うと、あまり思い切った抵抗はできなかった。だが、伝わってくる熱が、彼が間違いなく生きていることを教えてくれる。
 改めて込み上げた感情が、安堵だったのか、それとも別の何かなのかは分からない。口づけによる生理的な涙とは違うそれが頬を伝い、それに気付いたのか、家茂が唇を啄むようにして放した。
「……(ちか)?」
 互いの顔が見える距離まで離れると、家茂が首を傾げているのが分かる。
「……悪い。嫌だった?」
「違っ……」
 小さく首を振って、彼にしがみつく。
「……愛してるわ」
「……(ちか)?」
 脈絡なく、そう口から出て、自分でも戸惑う。だが、撤回するつもりはなかった。
 離れそうにない和宮の背に、家茂の腕がそっと回る。
「……久し振りだな。(ちか)の口からそーゆー台詞聞くの」
「……だって……」
 ずっと、不安だった。家茂は、未だに心の底では、和宮を疎んじているのではないかと――本当は、柊和(ひな)が亡くなったのはやはり、和宮の所為だと思っているのではないかと。
 愛しい(ひと)を殺した相手に何を言われても、迷惑でしかないかも知れない。そう思ったら、この一月(ひとつき)ほどは、和宮からは愛を伝えることができなくなっていた。
 もちろん、態度では伝えていたつもりだが、言葉にはできなかった。
 それが、柊和を殺した自分には、恰好(かっこう)の罰のようで、和宮はいつしかそれに、一人納得していた。
 けれど――
「だって――何?」
 静かに促されて、和宮はノロノロと家茂から離れようとする。互いの顔が見える程度の距離まで離れたが、家茂は和宮に回した腕を放そうとしない。
(ちか)
「家茂……」
「うん?」
「あたし……愛してるって、言ってもいい?」
「えっ?」
 何を問われたのか、分からなかったのだろう。キョトンとした声音が返るが、彼がどんな顔をしているのかは、目を伏せた和宮には見えない。
「あたしの、気持ち……迷惑じゃない?」
「何でそう思うんだよ」
 問いを重ねながらも、涙腺が壊れたように涙があとからあとから溢れて止まらない。家茂は、苛立った様子も見せずに、優しく和宮の頬を拭った。
「だって……あたし……あたしが、柊和さんを殺したんだよ?」
 家茂が息を呑んだように、一瞬沈黙する。だが、頬に触れる掌はそのままだ。
「……まだ、そんな風に思ってたんだな」
「だって、そうでしょ。あたしが、いなかったらきっと柊和さんはまだ――」
 不意に、少し強めに引き寄せられる。言葉を遮るように唇を塞がれた。混乱する内に、強引に唇を抉じ開けられ、彼の舌先が口腔へ侵入して来る。
 覚えず漏れた甘い呻きが、彼を煽ったらしいと気付いても手遅れだ。傷を負った今、どこにそんな力があるのか、完全に(かか)え込むように抱き寄せられ、唇を激しく貪られる。
 何も考えられなくなった頃合いを見計らったように、家茂は唇を解放した。
「……ッ、家、」
「……俺も、愛してる、(ちか)
「家、茂……?」
「だから……お前が、柊和を殺したんじゃないかなんて、要らない心配も妄想もしなくていい」
 触れさせたままの唇を啄みながら、家茂は合間に言葉を紡ぐ。
「でも」
「お前も被害者だろ」
「だけど」
「不安なら、お前が安心して納得するまで、何度でも聞かせてやる。お前の所為じゃない」
「家茂……」
「お前が好きだ。愛してる」
「もっ、もう、言わないで」
 顔中に口づけの雨を降らせながら言う家茂の胸元を、思わず押し返す。
「何で」
「だっ、だって……そんなこと言われたら、本気にしちゃうよ」
「……掛け値なしに本気なのに、(ちか)に本気にされなきゃ、こっちが困るんだけど」
「でもっ……そしたらきっと還せなくなっちゃう」
 柊和さんに、と言い掛けたそれは苦労して呑み込む。が、家茂にはしっかり伝わったらしい。むっつりと唇の両端が下がる。
「俺はモノですか、皇女サマ」
「そっ、そうじゃなくて、でも、……元々は、柊和さんの、だから」
「そういう言い方、あんま好きじゃねぇけどな。敢えてその言い方するなら、俺はもうお前の(モン)だぜ」
 クス、と何度目かで苦笑した家茂は、和宮の髪の毛を一房掴んで口づける。伏せていた目を上げてこちらを見る視線が、妙に艶めかしくて、和宮はどぎまぎと目を彷徨(うろつ)かせた。
「……死んでも放さないって、言ってもいい?」
 (おそ)(おそ)る訊いて、そっと目を上げる。視線の先で、目を丸くしていた家茂は、やはり苦笑を浮かべながら和宮の右掌にそっと唇を押し当てた。
「こっちの台詞だよ」
「……ホントに?」
「ああ」
「あの世に逝っても放さないって言ってるのよ?」
「分かってる」
「柊和さんのトコに還らなくって平気?」
 さすがに家茂も言い淀んだ。かと思えば、どうにもすまなそうな苦笑で和宮を見る。けれども、彼の口から出たのは、予想とは真逆だった。
「……俺の所為で死んだのに、本っ当にあいつには申し訳ないんだけどさ。気持ちはもう戻れねぇと思う。今、あいつが生きてたとしても……多分な」
「でっ、でもっ……柊和さんが死んだのは家茂の所為じゃないでしょ」
 思わず言うと、家茂はどこか面白そうに唇の端を吊り上げる。
「本当にそう思うのか?」
「だって最初にあんたの意思を無視して公武合体、なんて言い出したの、幕閣じゃない。だから」
「だったら、その台詞、そっくりお前に返すよ」
 続きを完全に口内へ押し戻された気がして、和宮は思わず口を閉じた。こちらが沈黙したと見て取ったのか、家茂が和宮の唇に指先を触れさせながら続ける。
「柊和が死んだのは、お前の所為じゃない。手を下したのもお前じゃない。だろ?」
「……でも、きっかけを作ったのは」
「公武合体を言い出した連中だ。違うか?」
 一瞬またどう返していいか分からなくなって噤んだ唇が、波打っているような気がした。
「……本当に、そう思っていいの?」
「ああ」
「……あたしの所為じゃないって……思ってていいの?」
「お前がそう思えないなら、俺が何度でも言ってやるよ。柊和の死とお前は無関係だ」
 宥めるように頬を撫でられながら言われて、しばらく鎮まっていた涙がぶり返す。
 家茂は、もう何度目かで微苦笑しながら、和宮の顔を引き寄せ、唇を柔らかく啄んだ。
「家、」
「俺は心底、そう思ってる。だから、……もう怖がらないでいい」
「……ッ、ふ……」
 言われて気付く。
(……そっか、あたし……怖かったんだ)
 本当は家茂に蔑まれていないか、疎んじられていないか。
 彼への想いを自覚してからずっと、何かを計ってきたような気がする。二人が一緒になった経緯からして、法的な離縁は余程のことがなければあり得ないと思っていい。が、気持ちの上で捨てられた時に、心の痛手が浅く済むように――
「家、茂……」
「言ったろ。俺は有栖川宮(ありすがわのみや)とは違う。絶対にお前を手放さないし、軽蔑したりしないって」
(何で、そんなことまで)
 熾仁に一度突き放されたあの時、感じたのは失望だった。同時に、一人の恋していた女として傷付いてもいたことに、今の今まで気付いていなかった。
 それを、家茂は気付いていたのか。
(ちか)
「ン」
(ちか)、好きだ。愛してる」
 口づけの合間に、優しい告白が続いて、涙が止まらなくなる。
「あたし……ッ、あたし、も」
 愛してる、と続けることは嗚咽に遮られてできない。代わりに、自分からも辿々しく、彼の唇に自分のそれを押し当てる。
「……大好き……」
「俺もだ」
「死んでも放さないから」
「だから、こっちの台詞だって言ってるのに」
 小さく微笑した彼は、顔を傾け直した。角度を変えて繰り返される口づけに、意識が蕩けていくのも止められない。
 やがて彼の手が、着物の(あわせ)から滑り込んで来て、ビクリと身体を震わせると同時に我に返る。
「ちょっ、家茂!」
 何とか唇を離して、彼の胸元に腕を突っ張ろうとする。
「……何だよ」
 そう返した彼の顔は、いかにも不服そうだ。
「何だよ、じゃないでしょ! そろそろ松本呼んで来るから」
 力の抜けそうになっている足を叱咤して立ち上がろうとするが、家茂が放す様子はない。
「だから平気だって。掠り傷だっつの」
 言いながら和宮の肩を抱き込み、首筋に顔を埋める。
「掠り傷なわけないで……」
「そこまでに願います、上様」
 いよいよ暴走を始める夫を、力なく止めようとする和宮の声とは打って変わり、冷え切った声音が背後から響く。
 視線だけで確認すると、いつの間にか目を覚ました邦子が、文字通り家茂の目の前に、手にした薙刀の切っ先を突き付けていた。
「ね、姉様……ご、ごめん、起こした……よね」
 自分のほうへ向けられたわけでもない武器の先端に、和宮のほうが背筋を凍らせている。
「いえ。うっかりうたた寝したようで、申し訳ございません。起こしていただいて助かりました。上様。速やかに横におなりください。ただいま奥医師を呼んで参りますので」
「……いつもは気ぃ利かせてくれんのに、今日は随分無粋だな」
 他方、家茂は顔色一つ変えずに、目前に向けられた切っ先は綺麗に無視して、邦子を()め上げている。邦子も家茂を冷え切った眼差しで見返した。
「時と場合によります。無理した挙げ句に命がなくなったらどうされるおつもりです。早々(はやばや)と宮様を置いて()かれるおつもりで? しかも今そうなったら、死因が間抜け過ぎて公表もできません」
「……分かったよ、ったく……」
 家茂は、不承不承という様子で和宮に絡め付けていた腕を緩めた。同時に薙刀の切っ先を、犬でも追い払うように、シッシッ、と手で払う仕草をしている。
 家茂が横になる素振(そぶ)りを見せたのを確認すると、邦子は薙刀を引っ込めた。軽く会釈するように頭を下げ、次の間へ行く為にきびすを返す。
 その瞬間、家茂は和宮の頭を引き寄せ、往生際悪く、軽く口づけた。

***

 その日は、家茂の枕元で夜明かしした。翌日になって、邦子が滝山から確認したところ、結局昨夜(ゆうべ)、大奥では火どころか、煙一本立っていなかったらしい。
「しかし、半鐘の音が派手に鳴り響いたので、大半の火之番(ひのばん)は、主立(おもだ)った方々の避難に動いたようです」
 主立った方々、というのは恐らく、天璋院(てんしょういん)本寿院(ほんじゅいん)実成院(じっせいいん)辺りだろう。御台所(みだいどころ)である和宮を除けば、大奥で尊ばれる女性はこの三人くらいだ。
「そして、わたくしが席を外した隙に、宮様の元へ現れた三人が、率先して『自分たちが御台様の元へ行く』と名乗り出たとか」
「……それが、熾仁兄様の手の者だったってこと?」
「そこまではまだ……ほかに、熾仁様の逃亡を手引きした者もいますし」
「……そいつに付いては、心当たりがある」
 松本の処置で、眠っているとばかり思っていた家茂が、不意に口を挟んだ。
 だが、やはり昨夜倒れたあとは無理をしていたらしい。今は声が掠れているし、目を開ける元気もないのか、瞼は閉じられたままだ。
「……ごめん、家茂。起こしたよね」
「……いや……平気だ。寝てる場合じゃねぇ……」
「寝てる場合でしょ。今はあんたは快復に集中して。でないと、邦姉様にぶん殴ってでも寝かし付けてもらうから」
「はい、お任せを」
 薄く目を開けた家茂は、「(こわ)」と一言ボソリと言って、また目を閉じる。
 本当は、家茂から離れた、別室ででも話ができればいいのだが、状況が状況だけに、今は彼の傍を離れるのは(はばか)られた。
「……ですが、上様。お休みになる前に一つだけ」
「……有栖川宮を手引きしたのは多分……一橋(ひとつばし)慶喜(よしのぶ)だ……こないだ、後見職に就任した……」
 邦子の問いの内容を聞く前に、家茂は呟くように答える。
 和宮は息を呑んだ。邦子と顔を見合わせ、家茂に顔を戻す。
「……どうしてそれが分かるの」
 熾仁も、彼を連れて消えた侵入者も、黒い装束に黒い覆面をしていた。顔が見えなかったのに、なぜ――という意を含んだ質問だと分かったのだろう。
 家茂が、やや億劫そうに言葉を継いだ。
「……何回か……あいつとは、手合わせしたことがある。あいつの、太刀筋なら……()り合えば、分かる……」
 それでその場の気力を使い果たしたらしい。家茂は、これだけ言うと、程なく安らかとは言い(がた)い眠りに戻ってしまった。
 一つ息を吐いた和宮は、彼の布団を直して、額に唇をそっと落とす。その額には、まだ平熱とは言えない熱さを感じた。
「……一橋慶喜って、どんな男だろ。姉様、知ってる?」
 冷やした手拭いを絞って家茂の頬へ押し当てながら、ダメ元で(たず)ねると、思わぬ答えが返って来た。
「……実は慶喜殿の兄君のところへ、わたくしの姉が嫁いでおります」
「えっ、そうなの!?
 思わず振り返ると、邦子は神妙な顔で頷く。
義兄(あに)は水戸の徳川慶篤(よしあつ)殿、姉は修子(のぶこ)と申します。もっとも、嫁いだと言っても姉は側室で……慶篤殿のご正室は、線宮(いとのみや)幟子(たかこ)女王様です」
 和宮は、目を見開いた。
「嘘、線宮様って確か……」
「はい」
 邦子は、また一つ頷いて、口を(ひら)く。
「熾仁様の異母妹君(いもうとぎみ)です」
 ちなみに線宮は、何年か前に亡くなったと、熾仁から聞いた覚えがある。
「……熾仁兄様の……」
 呆然と呟いて、和宮は手にしたままだった手拭いを握り締めた。
「……それって……今回のことと、関係あるのかな」
 今回のこと――つまり、慶喜と思しき人物と、熾仁が連れ立って大奥(ここ)へ侵入し、偽装の火災騒ぎを起こして逃走した件だ。
「ない、とは申せぬでしょう。そもそも、熾仁様と慶篤殿、慶喜殿ご兄弟はご親戚ですから」
「えっ、ホント!?
 またも頓狂な声を上げて、邦子を見る。邦子は何度目かで小さく頷いた。
「慶篤殿と慶喜殿は同母の兄弟で、お二人の母君が、有栖川宮家からお二人の父君である徳川斉昭(なりあきら)殿に嫁がれたと聞いております。お二人にとって、熾仁様の父君・幟仁(たかひと)様は、従兄(いとこ)に当たられるそうです」
 つまりは遠縁だ。
「それで連れ立って忍び込んで来たんだ……」
 しかし、関係性が分かったところで、精々手を組んだ切っ掛けが判明しただけだ。
 熾仁はもちろん、和宮を取り返しに来たのだろうが、慶喜の目的はまだ分からない。
 そこまで考えて、家茂に目を落とした。彼は相変わらず、どこか浅い呼吸をしながら眠っている。
『あいつの太刀筋なら、戦り合えば分かる』――
 家茂は、確か先刻こう言った。つまり、慶喜と真剣で戦り合い、斬られた。
 家茂の正確な技量は知らないが、慶喜は家茂と互角、もしくはそれ以上の戦闘能力の持ち主だということか。そうでなければ、以前『自分の身は自分で守れる』とこともなげに言っていた家茂が、重傷を負った説明が付かない。
(……まさか、慶喜も……家茂を殺そうとしてるの?)
 不意に、その考えが浮かぶ。熾仁を連れ去った時、慶喜(仮)は覆面をしていた。だが、家茂のほうは素顔を晒していた。
 家茂によると、慶喜は将軍後見職に最近就いたという話だから、慶喜も家茂の顔は知っているはずだ。なのに、斬り合う事態になって、傷まで負わせたのなら、それが事故という線は消える。
 慶喜に、家茂を傷付けたり、ましてや殺すという意図がなかったなら、戦闘は避けるだろう。それをしなかったということは――
(……まだ分からないけど……)
 どういう状況だったかは、家茂に訊けば分かる。ただ、それは当分先になりそうだ。
 それに、和宮は慶喜とは一面識もなく、彼がどんな人間かもまったく知らない。これでは、何も判断できない。
「……姉様」
「はい、何でしょうか」
「頼みたいことがあるの。お願いできる?」
「もちろんです。何なりと」
 いつものように凛と答えた彼女は、頭を下げる。纏め上げた黒髪が、彼女の肩先をサラリと滑った。

©️神蔵 眞吹2024.
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

【和宮親子内親王《かずのみや ちかこ ないしんのう》(登場時、7歳)】


生年月日/弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)

性別/女

血液型/AB

身長/143センチ 体重/34キロ(将来的に身長/155センチ 体重/45キロ)


この物語の主人公。


丙午生まれの女児は夫を食い殺すと言う言い伝えの為、2歳の時に年替えの儀を行い、弘化2年12月21日(1846年1月19日)生まれとなる。

実年齢5歳の時、有栖川宮熾仁親王と婚約するが、幕閣と朝廷の思惑により、別れることになる。

納得できず、一度は熾仁と駆け落ちしようとするが……。

【徳川 家茂《とくがわ いえもち》(登場時、15歳)】

□幼名:菊千代《きくちよ》→慶福《よしとみ》


生年月日/弘化3年閏5月24日(1846年7月17日)

性別/男

血液型/A

身長/150センチ 体重/40キロ(将来的には、身長/160センチ、体重/48キロ)


この物語のもう一人の主人公で、和宮の夫。


3歳で紀州藩主の座に就き、5歳で元服。

7歳の頃、乳母・浪江《なみえ》が檀家として縁のある善光寺の住職・広海上人の次女・柊和《ひな》(12)と知り合い、親しくなっていく。

12歳の時に、井伊 直弼《いい なおすけ》の大老就任により、十四代将軍に決まり、就任。この年、倫宮《みちのみや》則子《のりこ》女王(8)との縁談が持ち上がっていたが、解消。


13歳の時には柊和(18)も奥入りするが、翌年には和宮との縁談が持ち上がり、幕閣と大奥の上層部に邪魔と断じられた柊和(19)を失う。

その元凶と、一度は和宮に恨みを抱くが……。

【有栖川宮熾仁親王《ありすがわのみや たるひと しんのう》(登場時、18歳)】


生年月日/天保6年2月19日(1835年3月17日)

性別/男


5歳の和宮と、16歳の時に婚約。

和宮の亡き父の猶子となっている為、戸籍上は兄妹でもあるという不思議な関係。

和宮のことは、異性ではなく可愛い妹程度にしか思っていなかったが、公武合体策により和宮と別れる羽目になる。

本人としては、この時初めて彼女への愛を自覚したと思っているが……。

【土御門 邦子《つちみかど くにこ》(登場時、11歳)】


生年月日/天保13(1842)年10月12日

性別/女


和宮の侍女兼護衛。

陰陽師の家系である土御門家に生まれ、戦巫女として教育を受けた。

女だてらに武芸十八般どんと来い。

【天璋院《てんしょういん》/敬子《すみこ》(登場時、25歳)】

□名前の変転:一《かつ》→市《いち》→篤《あつ》→敬子


生年月日/天保6年12月19日(1836年2月5日)

性別/女


先代将軍・家定《いえさだ》の正室で、先代御台所《みだいどころ》。

戸籍上の、家茂の母。


17歳で、従兄である薩摩藩主・島津 斉彬《しまづ なりあきら》(44)の養女となる。この時、本姓と諱《いみな》は源 篤子《みなもとのあつこ》となる。

20歳の時、時の右大臣・近衛 忠煕《このえ ただひろ》の養女となり、名を藤原 敬子《ふじわらの すみこ》と改める。この年の11月、第13代将軍・家定の正室になるが、二年後、夫(享年34)に先立たれ、落飾して、天璋院を名乗っている。

生まれ育った環境による価値観の違いから、初対面時には和宮と対立するが……。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み