第一話 神戸海軍操船所(解説付き)

文字数 1,399文字

 神戸海軍操船所という反幕派まで受け入れた幕営の教練所まで話は遡る。

 文久2年の幕府海軍の増強策会議の場で、共に前年に咸臨丸でアメリカに渡った軍艦奉行木村芥舟と勝海舟(*1)が論を戦わせた。

 木村は産業・軍備の興隆を主眼とし軍艦370隻、乗組員6万人の構想を主張。勝はそれを500年かけても実現不能と断じ諸藩からの人材の登用・育成論を唱えた。木村策は幕府首脳に却下され(*2)勝は上役木村の面目を潰した。

 勝の方は将軍家茂に上洛の際の長距離移動で海路での時間短縮の優位を認識させ、自論を受け入れさせた(*3)。

 そして神戸海軍操船所が開かれた。

 神戸海軍操船所には勝や坂本竜馬を頼り藩命を受けた者のみならず、幕営でありながら反幕・攘夷志士までもが集った(*4)。

 知識技能の習得、外国の脅威への対抗、幕藩制への不満など様々な思惑を持つ人材を柔軟で奔放な、幕府倒壊をも見越していた勝が受け入れた。



*1 咸臨とは君主と臣下が共に親しみうことの意とのこと。
  日米友好修好条約の批准のため使節団が派遣されることになり、正使一行は米軍艦ポーハタン号に乗ることになったが、随伴艦として幕府海軍の練習航海も兼ね咸臨丸も同行した。
  このとき軍艦奉行と遣米副使を兼任していた木村摂津守を除き艦内の組織体制は未定だったが、艦運用の実質的責任者は先任士官の勝海舟のため、艦内の指揮系統は混乱していた。
  この時、木村の従者として福沢諭吉が、そして通訳としてジョン万次郎が随行している。

*2 幕府首脳には要望した艦船調達と人員育成に費用時間がかかると却下さた。また木村は幕府海軍へ優秀な人材を集めるには、身分によらない人材登用と西洋軍隊にならった俸給制度を要する建議したが、封建制度の崩壊等を招くと懸念され首脳陣には認められなかった。この会議の翌年、木村は失意のうちに軍艦奉行の職を去った。
  また渡米の際には、咸臨丸の乗組員たちが西洋の軍人に対して見劣りがしないように乗組員の俸給の加増を、木村は幕府に要望したが受け入れられなかった。そのため、自ら家財を処分して3千両の資金を捻出した。この時、幕府からも渡航費用として5百両を下賜されたが、これにはほとんど手を付けず、帰国後に返還している。

*3 その後幕府首脳を船で大坂へ移送する役目をおった勝だったが、翌年2月には将軍家茂の海路による上洛予定が陸路に変更され落胆した。ただこの時、同月13日に上洛のため江戸を出発した家茂の後に24日に順動丸で海路を追った勝は、2日後の26日に大坂で投錨して先回りした(家茂一行は3月4日に上洛)。

*4 幕府の命で神戸海軍操練所設立許可が下り年3千両の援助金も約束された。操練所とは別に海舟の私塾開設を認める達しも出たため、すぐには開かれない操練所に先立ち勝は私塾を始めた。
  薩摩や土佐藩の荒くれ者や脱藩者が私塾生となり出入りしたが、勝は官僚らしくない闊達さで彼らを受け容れた。操練所とは関係はないが、勝は坂本竜馬の口利きで土佐藩の出の岡田以蔵(「人斬り以蔵」の異名を持つ、幕末四大人斬りの一人)を用心棒としたことがあり、実際に命を救われている。
  また、のちに神戸は東洋最大の港湾へと発展するが、それを見越して操練所の開設の際に勝は付近の住民に土地の買占めを勧めたりもした。勝自身も土地を買っていたが、後に幕府に取り上げられた。


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