Ⅱ K教授

文字数 1,746文字

 目の前の景観がひらける。起伏にとんだキャンパスは冬枯れの芝生に蔽われ、点々と立つ柊が木の下に斜影をおとしている。芝生を突っきる小径の先には左右対称の両翼を構えた年古りた二階建の洋館があり、近代建築を思わせるその本館は文化財的偉容を誇っている。
 この本館の前に

のような小丘がある。

  #K教授

 ある夏の日、私は友達二人とこの丘で遊んでいた。段ボールをお尻の下に敷いて芝生の斜面を滑降するという遊びである。
 すべっては登り、登ってはすべり、なんどかするうちに悪友Sがこんどは二人ですべろうと言いだした。Aが賛成し、それならオレが前にすわる。ダメだ、オレが前だ──結局、交代ですわることにして最初はSが前にすわった。
 二人を乗せた段ボールのソリは、無事下まですべりおりていった。二人が歓声をあげながら登ってくる。こんどは前後を交代してすべっていった。次に登ってきたときSが私に訊いた。ミツオもやる? オレはいいよ。二人はまたすべっていった。
 ところがこのときは途中でソリが失速した。前にすわったSがスピードをだそうと漕ぐように斜面を蹴ったのが原因だった。たちまち前のめりに二人とも投げだされ丘の下までころがっていった。二人は小突きあいながら笑っている。ソリだけが斜面の途中でとまっていた。
 丘の上から私は二人のようすを見ていた。二人ともすぐには登ってきそうになかった。私は所在ない目を本館の入口にむけた。石段をしつらえ石柱にペディメントをあしらった玄関は堅牢な扉を開け放している。
 私はふざけあっている二人にはなにも告げず、本館にむけて歩きだした。玄関ホールの奥にある階段、暗いせいか中二階の踊り場で終わっているように見える不思議な階段、私はいつかそれを見究めてやろうと心に決めていた。
 玄関の脇柱に手をつきながら、私は中のようすを窺い、意を決して館内に入った。人気のない玄関ホールは深閑として物音ひとつしない。ただ鏡面に磨かれた蝋引きの床が歩武にあわせて鶯張りのように共鳴するのが気が気でならなかった。
 ホールは建物の中央にあるため右と左に突当りまでつづく長い廊下があり、その仄暗いなかに似たような扉がならぶさまは、あたかも一対の騙し絵を見るような、実像の酷似を仮構の対称と見紛うような錯覚を私に与えた。さらに頭上の大旋風器は微動だにしない五枚の回転羽根に毳立(けばだ)つほこりをのせ、正面に鎮座する柱時計は振子を吊り下げたまま瞑目している。そこはまさに異次元に通じるエアポケットだった。
 私は足音をたてないようにホールをすすみ、踏板が軋むような階段を手摺にすがりながら昇っていった。にらんだとおりというべきか、階段は中二階の踊り場で左右にわかれ折り返しつづいている。私は手摺にそって二階へとあがった。
 すると驚いたことに、さらに階段がある。すこし短い階段が薄暗い踊り場をかいして、なおも上へとつづいている。この本館は外から見るかぎり二階建である。それなのに……。
 私は大胆にも慎重に階段を昇っていった。そして踊り場まであと一段というとき、響く声に呼びとめられた。
「ボーイ」
 私は手摺にすがりついたまま立ち(すく)んでしまった。ふりむくと階段の下に背広を着た大きな老人が立っていた。
「カモン」
 大きな声で大きくで手招きするその人はガイジンであった。白い髭と赤い顔、高い鼻と小さな眼鏡。その奥にあるより小さな碧い眼が私をじっと見つめている。私は探検をあきらめ階段をおりていった。
「K教授!」
 老人を呼ぶらしい女性の声がした。見ると右の廊下からきれいな女の人が急ぎ足にやってくる。白いブラウスの胸元が波うつように揺れていた。
「どうなさったんですか」
 女の人は腰をかがめ、もの問いたげに私を見ているようだったが、私は恥かしくて顔をあげることもできなかった。
「ボーイ、ココニハイッテワイケナイ、ソトデアソビナサイ」
 K教授はやさしくつむじのあたりを撫でてくれた。

 外に出ると、SとAは丘の上にいた。二人とも忽然と消えた私を捜しあぐねたようすだった。私がもどると、二人はどこに行っていたのかしつこく訊いたが、私はそれにはこたえなかった。以来、私はこのことを人に話したことがない。そしてこの本館には二度と入らなかった。
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