第1話 土曜日、男を拾う。
文字数 1,897文字
八月の終わり。
例年ならまだまだ残暑が厳しく、けたたましい蝉時雨 にうんざりするころのはずが、今年はなぜか雨が降りつづいていた。夕立ではない。早くも秋雨前線の到来を思わせるような、じとじととした長雨だった。
そんな、雨の路地裏 。
ひとけのない薄暗い通りだが、買いもの帰り、近道だからと足早に通り抜けようとしたところで、傘越しに、ぐったりとうずくまる男を見つけた。壁に背をあずけ、長い脚をもて余すように地面に投げ出している。うつむいているため顔はわからない。まるで内臓を庇うかのようにお腹のあたりを押さえている。あきらかに具合が悪そうだ。
男は動かない。降りしきる雨に打たれるまま、全身濡れ鼠 と化している。
まさか、死んでる、なんてこと、ないよね。
にわかに不安がよぎる。もしほんとうに具合が悪いなり怪我でもしているなら、一刻の猶予 もない。意を決して男に近づいていく。
「あの、どうされました? 具合が悪いなら、救急車呼びましょうか」
手を伸ばせば届く距離まで接近する。身を屈めて男の顔を覗き込もうとすると、はじめて男が反応を見せた。ゆっくりと顔をあげる。それでも、濡れた髪が邪魔をしてはっきりと顔は見えない。
あれ、と思った。わたし、このひと知っている。
だれだっけ、と記憶の扉をいくつも開けていくわたしに、掠れた声で男がつぶやく。
「……委員長?」
懐かしい呼び名だ。それでわたしも思い出した。
「香坂 くん?」
漫画や小説ではそう珍しくもない話だが、まさか自分が、行き倒れている男を部屋に連れて帰ることになろうとは、夢にも思わなかった。
彼は高校のときの同級生だった。とくべつ親しかったわけではない。けれど、顔見知りの相手が具合が悪そうなところに出くわしてそれを見捨てるほど、薄情ではないつもりだ。
彼はあきらかに身体に不具合がありそうなのに、かたくなにそれを認めない。病院へ行くことも拒む。だからといって、置き去りにするには後生 が悪い。わたしの住むアパートが近かったこともあり、とりあえずうちに来る? と聞いてみたところ、彼は案外あっさりとうなずいてついてきた。いちおう動けるようなので安心した。そしてひとまずバスルームに押し込む。そうしないと部屋がびしょびしょになってしまう。
シャワーを使う水音が聞こえてきたので、思っていたより具合は悪くないのかなとほっとしつつ、クローゼットをまえに仁王立ちする。彼の着替えが必要だ。わたしはひとり暮らしだが、実はクローゼットの片隅に男ものの服が一式揃っている。思い出したくもないが、いわゆる、別れた男の置き土産というやつだ。見たかんじ、背格好は近いのでたぶん着られるだろう。いままで見ないようにしてきたエリアに手を伸ばして封印を解く。まさかこんな形で役に立とうとは。
思ったとおり、サイズは合っていた。脱衣場に置いておいた曰 くつきの服を着た彼は、まだ濡れたままの頭にタオルをのせて、なにやら不本意そうな顔をしている。
「これ、委員長の男の服?」
「とっくのむかしに別れたけどね」
「後生大事 に保管していたわけだ」
「へんないいかたしないでよ」
彼は立ったまま、ざっと部屋を見渡してから、つかつかと近づいてきた。その歩きかたが、まったく足音を立てない滑るような動きだったのが妙に印象的だった。
「あつかましいのは重々承知のうえだが、すこし休ませてもらってもいいか」
そういうや否 や、壁際に陣取る。床で寝るつもりだろうか。
「べつに追い出したりしないけど。なんかやっぱり顔色よくないよ」
「すこし疲れただけだ。寝れば治る」
ほんとに? 心のなかで突っ込みながら、早くも床に横になる彼にソファをすすめる。
「床に寝なくても。ソファ使っていいよ」
「いや、ここでいい。あと、寝ているあいだ、おれに近寄らないでくれ」
「は?」
「怪我をさせたくない。頼む」
まさか近寄るだけで怪我をさせられるほど寝相が悪いのか。首を傾げながらも、とりあえずうなずく。
「わかった。近寄らない」
「恩に着る」
そういうと彼はすぐに静かになった。よほど疲れていたのか。相変わらずお腹のあたりを押さえているのが気になるが、寝られるくらいなら大丈夫だと思っていいものか。なんだか、まるで手負いの獣をかくまっているような気分になる。
夏とはいえ、冷房が効いている室内はじっとしているとすこし肌寒い。彼になにか羽織るものを用意したほうがいいだろうと思うものの、近寄るなといわれた手前、うかつに近づけない。まあ、寒くなったら本人が目を覚ますだろうと思い直すが、実際に彼が起きてきたのはそれからまる一日以上経ってからだった。
例年ならまだまだ残暑が厳しく、けたたましい
そんな、雨の
ひとけのない薄暗い通りだが、買いもの帰り、近道だからと足早に通り抜けようとしたところで、傘越しに、ぐったりとうずくまる男を見つけた。壁に背をあずけ、長い脚をもて余すように地面に投げ出している。うつむいているため顔はわからない。まるで内臓を庇うかのようにお腹のあたりを押さえている。あきらかに具合が悪そうだ。
男は動かない。降りしきる雨に打たれるまま、全身濡れ
まさか、死んでる、なんてこと、ないよね。
にわかに不安がよぎる。もしほんとうに具合が悪いなり怪我でもしているなら、一刻の
「あの、どうされました? 具合が悪いなら、救急車呼びましょうか」
手を伸ばせば届く距離まで接近する。身を屈めて男の顔を覗き込もうとすると、はじめて男が反応を見せた。ゆっくりと顔をあげる。それでも、濡れた髪が邪魔をしてはっきりと顔は見えない。
あれ、と思った。わたし、このひと知っている。
だれだっけ、と記憶の扉をいくつも開けていくわたしに、掠れた声で男がつぶやく。
「……委員長?」
懐かしい呼び名だ。それでわたしも思い出した。
「
漫画や小説ではそう珍しくもない話だが、まさか自分が、行き倒れている男を部屋に連れて帰ることになろうとは、夢にも思わなかった。
彼は高校のときの同級生だった。とくべつ親しかったわけではない。けれど、顔見知りの相手が具合が悪そうなところに出くわしてそれを見捨てるほど、薄情ではないつもりだ。
彼はあきらかに身体に不具合がありそうなのに、かたくなにそれを認めない。病院へ行くことも拒む。だからといって、置き去りにするには
シャワーを使う水音が聞こえてきたので、思っていたより具合は悪くないのかなとほっとしつつ、クローゼットをまえに仁王立ちする。彼の着替えが必要だ。わたしはひとり暮らしだが、実はクローゼットの片隅に男ものの服が一式揃っている。思い出したくもないが、いわゆる、別れた男の置き土産というやつだ。見たかんじ、背格好は近いのでたぶん着られるだろう。いままで見ないようにしてきたエリアに手を伸ばして封印を解く。まさかこんな形で役に立とうとは。
思ったとおり、サイズは合っていた。脱衣場に置いておいた
「これ、委員長の男の服?」
「とっくのむかしに別れたけどね」
「
「へんないいかたしないでよ」
彼は立ったまま、ざっと部屋を見渡してから、つかつかと近づいてきた。その歩きかたが、まったく足音を立てない滑るような動きだったのが妙に印象的だった。
「あつかましいのは重々承知のうえだが、すこし休ませてもらってもいいか」
そういうや
「べつに追い出したりしないけど。なんかやっぱり顔色よくないよ」
「すこし疲れただけだ。寝れば治る」
ほんとに? 心のなかで突っ込みながら、早くも床に横になる彼にソファをすすめる。
「床に寝なくても。ソファ使っていいよ」
「いや、ここでいい。あと、寝ているあいだ、おれに近寄らないでくれ」
「は?」
「怪我をさせたくない。頼む」
まさか近寄るだけで怪我をさせられるほど寝相が悪いのか。首を傾げながらも、とりあえずうなずく。
「わかった。近寄らない」
「恩に着る」
そういうと彼はすぐに静かになった。よほど疲れていたのか。相変わらずお腹のあたりを押さえているのが気になるが、寝られるくらいなら大丈夫だと思っていいものか。なんだか、まるで手負いの獣をかくまっているような気分になる。
夏とはいえ、冷房が効いている室内はじっとしているとすこし肌寒い。彼になにか羽織るものを用意したほうがいいだろうと思うものの、近寄るなといわれた手前、うかつに近づけない。まあ、寒くなったら本人が目を覚ますだろうと思い直すが、実際に彼が起きてきたのはそれからまる一日以上経ってからだった。
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