幼なじみが、『嬉しいとしゃっくりが出てしまう病』にかかった!
文字数 11,295文字
「であるからして、しゃっくりというのは横隔膜 の痙攣 によるもので、ミオクローヌス、つまり筋肉の不随意 収縮 の一種であり……」
五月のなかば。
午後の生物教室は、まったりとした空気に包まれていた。先生のしゃがれた声ですら、俺たちにとってはほとんど子守歌だ。
うちは一応、進学校だ。
けれど教師も生徒にもそんなにピリピリした雰囲気はない。だいたいからして、ゆる~い校風なのだ。
でも。
ごく少数だが、真面目に授業を受けている生徒もいる。たとえば、斜 め前の席でピンと背筋を伸ばしている、百里 あたりがその代表格だ。
百里美桜 。
俺の幼なじみだ。
三歳からの付き合いだ。
昔っから真面目というか、冷静というか、大人びた性格だった。
小学校のときから、家に帰ったらおやつを漁ったりスマホをいじるより前に、自分の机で宿題を広げるような――そんな、不可解な精神構造をした女子だった。
で。
小学生の俺は、遊びに行った百里の部屋で、一緒に宿題をさせられるハメになって、うんざりしたものだった。
なにしろ、そういうときの百里は厳しいのだ。スパルタ先生だった。百里ママの手作りプリンがなかったら、彼女の家に通い続けることはなかっただろう。
中学校に上がってからは話すことも少なくなったけれど、なんやかんやで同じ高校に進み、こうして同じクラスになっている。腐れ縁というやつだ。
「…………」
斜めうしろから見る、百里の横顔。
春風に揺れる肩までのボブカットに、大きくて切 れ長 の目。クールで孤高なイメージのある彼女には、けっこうファンが多いらしい。
……まあ、言われてみれば整った顔をしている気がしないでもないけど。
生物教室の黒いテーブルにひじを突いて、俺はそんな風にぼんやりと考えていた。
静かな教室には、先生の声だけが響く。
「最近、流行のきざし を見せている『嬉しいとしゃっくりが出ちゃう病』は、精神的なストレスがこの横隔膜に作用して起こるもので、空気感染もする……」
嬉しいとしゃっくりが出ちゃう病。
この、「名前つけたやつ絶対IQ低いだろう」という病気は、その名のとおり強い嬉しさ を感じると、しゃっくりが出てしまうという病だ。
症状だけ聞くとかなりバカバカしいが、これがけっこう厄介なのだ。
しゃっくりが止まらなくて死ぬ――みたいなことはない。ないけど、やばい。
なにしろ、患者の精神状態が丸わかりになってしまうのだから。
たとえば、とある国会議員がこの病気にかかったときなんかは、
『総理! この不祥事をどうお考えですか!? ああ、嘆かわしい。こんなモラルの低い人間が一国の首相だなんて、私は悲しい!(うっひょう! 不祥事不祥事☆ これで与党の支持率ダウン。ラッキ~~♪)』
なんて国会で糾弾しながら、しゃっくりが止まらなくなったりした。
(※心の声は注釈をご覧ください)
他にも、とあるアイドルのインタビューで、
『○○ちゃんがグループ脱退だなんて……。ええ、その報告を聞いた時には、悲しくて切なくて涙が止まらなくて…… ……ひゃっく!』
なんてこともあった。
本人たちは全力で否定していたけども。
世間では、長い病名を略して『嬉 しゃっくり』とか呼んだりしている。
「え~、治療法はまだ確立されておらず、あるにはあるが個人差も大きく、学会でも議論が尽きないので……」
……あ、やばい。
本格的に眠くなってきた。
まったく、午後の授業って、なんでこんなに……。
◆
「リク」
「……んあ?」
名前を呼ばれて顔を上げると、百里が冷たい眼で見おろしていた。いつの間にか机に突っ伏して眠ってしまって、そしてそのまま五限目の授業が終わっていたらしい。
「ずっと寝てたの? 信じられない」
軽蔑したような百里の声。
俺はよだれを拭 いながら、
「あー、えっと。ははは。……百里、あとでノート写させて?」
「――最低」
それだけ言うと、百里は教科書とノートを抱えて、さっさと去っていった。
うーん、キツい。
俺にだけ当たりがキツいような気がする。
百里は、人付き合いが多い方ではないけれど、かといって孤立しているわけでもない。他のクラスメイトたちとは、そこそこイイ感じにコミュニケーションを取っている。
「最低って……」
そこまで言うか?
慣れたこととはいえ、それなりにダメージを受けた俺はのろのろと立ちあがる。
すると、ポンと肩に手が置かれて、
「またやってんのか」
悠人 が話しかけてきた。
「飽きないよな、お前らも」
野球部に所属するこのクラスメイトは、日焼けした顔でにかっと笑った。
しかし、他の連中もひどいな。
寝過ごした俺のこと、起こしてくれたっていいのにさ。
廊下を歩きながらそうやって愚痴ると、悠人は、
「百里さん、じっとお前の寝顔を眺めてたからな。だからみんなスルーしてたんだよ」
突っ立って俺を見おろし続けてた、ってことか?
オオカミが獲物を睨みつける、みたいな?
あー、そりゃあ怖くて誰も近づかないよな。
でもそんな中、悠人だけは俺を待っていてくれたってわけだ。
やっぱり、持つべきものは友達だ。うんうん、ありがたいなぁ。
「んでさ、リク」
悠人は歩きながらこちらを見て、とびきりの笑顔でこう言った。
「昼休みに伝え忘れたんだけど。監督――山田先生が職員室に来いってさ。あー、良かった。今のうちに伝えられて。そんじゃ頑張れよ」
◆
親友から伝えられた死刑宣告に従って俺は、貴重な休み時間に職員室へと向かった。
山田先生――野球部の顧問であり、国語教師だ。いかつい見た目は、その辺の893さんより怖い。
「王角 、呼び出された理由は分かってるよな?」
「えーっと、なんでしたっけ?」
「ああん?!」
「あ、あはは。冗談ですってば」
「ったく、おまえってやつは」
先生はやれやれと首を振る。
しかしどうやら――というか、やはりと言うべきか、俺は、古典の課題を忘れたことを責められるようだ。
やだなぁ、小言。
いと憂鬱。
「放課後、図書室の手伝いをしろ」
「でも放課後は部活が、バドミントンの練習が」
「おまえ幽霊部員なんだろう?」
「そうっすね……離れていても、俺の魂はいつでも体育館にあります」
「格好いい風に言うんじゃねぇよ」
なお、練習には月2のペースで参加している。
「それに、おまえがそう言うだろうと思って顧問の渡辺先生にはすでに許可を取ってある」
外堀から埋めるとは、なんて卑怯な教師なんだ!
……なんて、思っていても決して口には出さないけれど。
そして、悪いのは一方的に俺のほうだけれど。
そう。一応は悪いと思っているのだ。
全部ゆうべの俺が悪い。あと、Youtubeが悪い。実況動画が面白いのが悪い。
罪の重さを改めて自覚した俺は放課後、おとなしく先生の指示に従った。
滅多に訪れることのない四階の図書室。
引き戸を開けると、ほのかに本のにおいが漂ってきた。
「しっつれいしまーす……」
なんとなく忍び足で入室。
すると、窓際に百里の姿を見つけた。
向こうも不審人物(俺ね)の気配に気づいたらしく、手元の本から顔をあげてこちらを見た。
「お、おっす百里」
小声で言って、ひらひらと手を振ってみる。
が。
「…………」
無言のまま、百里は視線を落とした。
そんな、あからさまに避けなくてもいいのに。まあ、あいつからしたら、課題未提出の重罪人なんて、軽蔑して当然の人種なのかもしれないけどさ。
気を取り直して俺は、司書の先生の指示を受けて本棚の整理にいそしんだ。
バドミントンで鍛えた華麗なステップで通路せましと飛びまわり、先生から「もっと静かに働きなさい」と怒られたり、漫画の棚で手塚治虫先生の『火の鳥 太陽編』を立ち読みしては、「名作だけど読むのはあと!」と押し殺した声で叱られたりした。
俺の大活躍にすっかり肩を落とした司書の先生は、何かを諦めた顔で、
「今日はもういいわよ……」
と、俺をねぎらってくれた。
それで手持ちぶさたになった俺は、珍しく図書室に居座ってみようと思い、先ほどの『火の鳥』を手に窓際の席に着席した。
目の前には、読書継続中の百里。
「…………。なんなの」
「ん、太陽編」
「――そういうことじゃなくて」
なんで俺と絡むと、みんな疲れたような顔をするんだろうか。
TPOをわきまえている俺は、他の利用者の邪魔にならないよう、小声で続けた。
「たまには読書もいいかなって」
「……だから、なんでここで」
「なんか、習慣?」
言いながら、自分の言動を振り返る。
ああそうか。
百里の家で勉強していた頃の習慣か。
あの頃は、百里の部屋で小さいテーブルを挟んで宿題を広げてたもんだったっけ。ちゃんと宿題に取り組むあの習慣も、中学になって百里の家に行かなくなってから、つい途切れてしまった。
しかしこうして百里の前に座ると、今でも心が引き締まるというか、なんというか。
「やっぱ落ち着くんだな」
独り言のように俺はつぶやいた。
別にキツい態度を取られるのが嬉しいワケじゃない。ちゃらんぽらんな俺には、彼女の前に座って監視してもらうくらいが丁度いいのかもしれない、と思ったのだ。
「やっぱミオ のそばが一番落ち着くかも」
ふいにあの頃の気分に戻った俺は、つい下の名前で呼んでいた。
するとそのとき。
――――ひっく!
図書室中に響くほどの大きな声、いや大きなしゃっくり の音がした。
目の前から。
百里美桜の口から。
そのことに、誰よりも彼女自身が驚いているようだった。
「……っ!?」
こちらを見たまま硬直している。
「ミオ?」
「ひゃっく!」
激しく肩を振るわせた彼女は、慌てて口元を押さえた。
「だ、大丈夫か?」
「……な、なにがよ」
「だから、しゃっくり」
「しゃっくりなんて……し、してない!」
苦しい言い訳だった。
「えーっと。もしかして、嬉 しゃっくり?」
「だから、違うわよ……!」
まあ確かに、今の会話に嬉しい要素なんてなかったもんな。普通のしゃっくりなのかもしれない。
「つーか、あんま大声出すと迷惑になるぞ、百里」
「――――。分かってるわよ」
やっぱり奇病ではないほうのしゃっくりだったみたいだ。
百里もすっかり落ち着いて……。
いや待てよ。
勘のいい俺は――超敏感で、女心を熟知している俺は、もしかしたらと思い至った。
……試してみよう。
「ミオ」
「ひっく!」
やっぱりだ。
「もしかして」
「ち、ちが……!」
「そっか。呼び捨てにされると興奮する趣味だったんだな」
「…………」
そうかそうか。
俺の幼なじみにそんな趣味があるなんてな。
俺じゃなきゃ気づかなかったよ。大発見だよ。
百里美桜はM気質だったなんて、彼女に憧れを抱いている同級生や下級生が知ったら、どう思うだろうか。もしかしたらいっそう憧れが強まる輩もいるかもだけど――
彼女の名誉のためにも、ここは黙っておくのがベターだろう。
「安心しろ。俺は言いふらしたりなんかしないから」
「…………」
なぜか恨めしそうな視線で百里は睨んでくる。
「なんだよ、俺ってそんなに信用ないか? 大丈夫だって、友達 の秘密はちゃんと守るから」
大まじめに言ってみても、彼女の眼光は鋭くなるばかり。
なんだってんだ、まったく。
「俺とミオの仲だ――「ひゃっっく!」……ろう」
しばしの沈黙。
「…………」
彼女は両手で本を持ち上げ、顔の半分を隠してしまった。なにかに困惑したように寄せられた眉。こちらを見つめる目。少しだけ赤くなった肌。
あ、ダメだ。
なんかこう、ムズムズする。
「――ミオ」
「ひっく!」
「ミーオ」
「ひっく!!」
「ミーオちゃん☆」
「……っ! ひゃっっく!」
お、ちゃん付けでもオッケーみたいだ。よく分からない趣味だが……うん、これ楽しい。
クールな彼女が、俺のひと言でびくりと震えて顔を赤くする。
俺を見つめる、潤んだ瞳。
あれ?
もしかして、俺の幼なじみって可愛い?
「も、もう!」
耐えきれなくなった彼女は、ハードカバーの本を閉じて勢いよく立ちあがると、出口に向かって足早に去っていこうとする。
その背中に俺が呼びかけると、
「~~~~っ!」
びくんと跳ねる。
しゃっくりは、頑張って押し殺したらしい。なにそれ可愛い。
「ミオ、待てって」
追いかけて呼び止めるたび、彼女はしゃっくりに襲われる。
が。
出口付近でぴたりと足を止めると、こちらを振り向いた。まっ赤な顔をした彼女は、つかつかと歩いてきて、俺の横を通り過ぎる。
なにをするのかと思いきや、律儀な彼女は、テーブルの上に残してきた本を元の棚に戻してから、ふたたび俺を追い抜いて、図書室から出て行った。
俺も慌てて『火の鳥』を本棚に戻して、あとを追う。
階段で追いついて、
「あのさ、ミ――」
呼び止めたところで、踊り場の彼女はこちらを見あげた。
涙目だった。
「え、えーっと……」
幼なじみは、たったひと言、
「――最低」
とだけ言って、去っていった。
◆
「馬鹿。大馬鹿野郎」
そんなことがあった翌日のこと。
昼休み、教室で悠人に一部始終を報告した第一声がこれである。
「リク。おまえのメンタルは中一 で止まってんのか?」
「中一って」
「いや、小五 くらいが妥当かもな」
ひでぇ。
いくらなんでも小学生メンタルなワケが――
「幼稚園児よりタチが悪い」
「そこまで言う!?」
「でも、こうして俺に相談するってことは、ちょっとは自覚があるんだろ」
それは、そうなのだ……。
形はどうあれ、百里を泣かせてしまった。
今朝から彼女とは目を合わせられていない。
この昼休みにも、百里はどこかへ姿を消してしまっている。
「つい、悪ノリで――」
「それがガキメンタルなんだって」
「……さーせん」
「俺に謝ってもしょうがないだろ」
眉をひそめて悠人は言う。
「……そもそも、百里さんがどうして泣いたか、ちゃんと分かってるか?」
「だから、それは」
俺は声のトーンを落として、
「性癖 をからかったこと、だよな?」
「馬鹿」
一刀両断。容赦のない親友だった。
「いやでも、それが恥ずかしかったからミオは――」
「だから。どうして『嬉しゃっくり』が出たのか、そこから分かってないだろ」
「?」
「……はぁ。だからおまえって」
悠人は失望もあらわに、
「リク、百里さんのこと、どうして名字で呼ぶようになったんだ」
「? いや、なんとなく?」
思い返せば、中学に上がった頃からだろうか。
女子のことを『○○ちゃん』とか、そんな風に呼ばなくなったのは。こう、周りに合わせてというか、なんというか。名字で呼ぶのがちょっと格好いい? みたいな??
別に百里に対して距離を空けたいとか、そんな風に思ったわけじゃなく、本当になんとなくだった。
でも結果として、その頃から百里と疎遠になっていった気がする。
「でも、それが何の関係が??」
本気で首をひねると、悠人も本気のため息を漏らして、
「端 から見てればこんなに分かりやすいこともないのにな」
「?」
「リクさ、百里さんのことどう思ってるわけ?」
「どうって……幼なじみ」
「そういうことじゃなくてさ。女子としてどうかって」
そう言われても、だ。
「やっぱりダメだ。幼稚園児だ、おまえ」
悠人は首を振って、
「じゃあ別の質問をしようか。百里さんは、おまえのことどう思ってると思う?」
「――デキの悪い幼なじみ?」
「それは正解だろうけど」
正解なのかよ。
「それはそうだとしても――たとえば、百里さんがリクに惚れるような出来事とか、そういう兆候とかはなかったか、って質問だよ」
惚れる?
あの百里が? 俺に??
「ないないない!」
「……リク。いつか刺されるぞ?」
軽口にしては、悠人の表情がガチだった。なんで?
「いいからほら、思い出してみろよ」
百里との出来事、ねぇ。
「覚えてるのは幼稚園ぐらいの頃か。よく近所の公園で結婚式ごっこしてたかな。永遠の愛を誓うとか言って」
「…………」
「小学生の時はよく家に行ってたけど。外で遊ぼうっつっても、百里のやつ、無言でぐいぐい手を引っぱって行くんだぜ」
「…………」
「運動会の徒競走で俺が一等賞を取ったとき、一番喜んでくれたのは百里だったかな」
「ああ、うん。なんか聞いてて胸焼けがしてきた」
悠人は片手で俺の言葉をさえぎった。
聞いといて、それ酷くない?
悠人はひと息ついてから、
「全体的にはムカつくような幼なじみエピソードだけど……そうだな、幼い恋心がそのままって感じか。あの百里さんがねぇ。――もっと、決定的なことはなかったのか?」
「決定的?」
俺と百里にそんなドラマチックなことなんて――
強いて言えば、それこそ小学校五年生のときの話だ。
「百里のことを『ガリ勉おんな』ってからかったやつのこと、ぶん殴ったくらいかな」
「…………」
「しかもよりによってアイツ、『えこひいき女』とか呼びやがったんだぜ? ふざけんなっつーの。百里は誰よりも努力家なんだよ。授業も宿題も真面目だし。運動は苦手なくせに、一生懸命だったし。真面目にしてるからって、先生からえこひいきされるとか……ありえねーし」
「それで、殴ったのか?」
「うん。そいつらのこと」
「複数?」
「四対一だったかな。アイツら、卑怯だよなぁ」
なんて話しながらも、俺は昨日の自分の所業を思い返していた。
俺、アイツらと同じようなことしたんじゃねぇの、と。
そう考えると、ずんと肩が重くなった。
……うん、やっぱり俺、小五メンタルなのかも。
俺が落ち込んでいると悠人は苦笑いを浮かべて、
「で、リクのほうはアレか。自覚ないまま今に至るってわけか」
「自覚?」
「あのさリク」
悠人は居住まいを正して、
「たとえばの話、百里さんのことを好きなやつが現れたら、どうする? そんで百里さんもその男を気に入って、付き合うことになったら?」
「そりゃあもちろん、幸せになるのはいいことで……」
いいこと、だよな? うん。
「恋人同士になった二人が手を繋いで歩いてたり」
「は、はは。いやぁ、いいんじゃないの。こ、高校生だしね?」
「校舎の隅でキスしたり」
「き!」
「彼女の部屋で、ベッドにもぐって」
「せっ! ……せ、節度を保っての付き合いなら! は、はは。オーケー、かな?」
脂汗が背中を濡らす。
「自覚したか?」
「し、してねーし。別に百里のことなんて何とも思ってねーし! あいつとはただ家が近いだけの……!」
つい立ちあがって大声を張り上げてしまった、そのときだった。
間が悪いというか、なんと言うか。
いや、やっぱり悪いのは、タイミングじゃなくて俺なのだろう。
教室の入口に百里が立っていた。
「ひゃ、百里」
無言のまま、彼女はきびすを返してどこかへ消えていった。
見送って、俺は力なく着席する。
悠人は真顔で、
「追いかけなくていいのか?」
「い、いいって。ホントのこと言っただけだし。別に、なにも」
「そうか」
――良かった。
と、悠人は言った。
「え?」
「おまえが本気でそういう態度なら、俺もようやく宣戦布告できるってことだよ」
「宣戦って」
「俺が、先に告ってもいいか?」
「それって――」
そうだよ、と、悠人は口元だけで笑って言った。
「俺、百里さんのことが好きなんだ」
◆
午後の授業をいつも以上にぼんやりと聞き流し、気づいたら放課後を迎えていた。そして俺は、ゾンビのように廊下をさまよっていたのだった。
なにがなにやら、という感じだった。
昨日と今日と、俺のキャパシティを大きく越える出来事ばかりだ。
悠人が百里のことを?
……マジか。
いや、悠人ならいい彼氏になるだろうけど。
ああでも、二人が手を繋いで? 校舎の隅で?
そんで、俺と勉強してた、あの部屋で?
「あっ、あああっ!」
立ち止まって頭を掻きむしる。
そばにいた下級生がびくっとして距離を取ったけれど――今の俺は、そちらを気にする余裕はなかった。
「なんなんだ俺……」
いっそう重い足取りでさまよい続けていると――
校舎の外に、悠人の姿を見つけた。
野球のユニフォームには着替えておらず、制服姿だ。
そういえば今日はテスト前だから部活はすべて休みなんだっけ――とか、そんなことを思い出すのと同時、もう一人、見慣れた姿が視界に入った。
百里だ。
どうやら、帰ろうとする百里を悠人が呼び止めたところだったらしい。
立ち止まった二人は向き合っている。
どきんと、胸が高鳴った。
なにか予感めいたものがする。
それも悪い方の予感だ。嫌な動悸 だ。
なにやら言葉を交わす二人。
気がついたら俺は、廊下に膝を突いていた。
窓枠にかじりつくようにして、ガラス越しに二人の様子を盗み見る。
声は聞こえない。
聞こえないほうがいい……気がする。
悠人はいつものような優しい微笑で、二言三言、話しかけていた。
すると百里は、少し驚いたような雰囲気を見せて――
びくりと肩を揺らした。
しゃっくりだ。
そして、百里は恥ずかしそうにうつむいた。
悠人がさらに何かを言うと、百里は小さくうなずいて、またしゃっくりをした。嬉しゃっくりだ。
「――っ!」
全身が熱くなった。
かと思うと、次の瞬間には、さあっと体温が下がったような錯覚に襲われた。
ダメだ。やっぱりダメだ。
祝福なんてできない。
相手が悠人でも――ダメだ!
俺は駆けだしていた。
上履きのまま昇降口を飛び出して、二人のところへ駆けよっていた。
「リク?」
悠人が振り向く。百里も、驚いたようにこちらを見た。
「ごめん悠人! そして、百里も!」
「どう――したの?」
戸惑う百里に、俺はがばりと頭を下げて、
「昨日はごめん! つい調子に乗って」
「…………」
「そして悠人!」
「お、おう?」
「おまえのこと、本当は応援しなきゃいけないんだろうけど……そんで、今は俺は邪魔者でしかないんだろうけど」
「な、なにが?」
会話は聞こえなかった。
でも分かる。
悠人は百里に告白して、そして成功したのだ。恋人同士になった二人にとって、俺の乱入なんて邪魔以外の何ものでもないのだろう。
「でも、いま伝えないと絶対に後悔すると思ったから。俺、今日やっと気づいた! 俺は百里のことが――ミオのことが好きなんだ!」
叫ぶと、悠人はたじろいで周囲を見まわした。
悪い。友達の恋路を邪魔するなんて、最低だよな、俺。
でもごめん……これだけは!
「いつも頑張ってるミオが俺は好きだ! 俺に出来ないことを出来るミオのこと、凄いと思ってる! いつもふざけてて、自分の気持ちにも気づけない鈍感な俺は――そんなミオのことが好きになってた! いや、初めからずっと、ミオのことが好きだったんだ!」
堰 を切ったように言葉が溢れる。
でもミオは、ただ黙って俺の告白を聞いているだけだった。
しゃっくりなんて出ていない。
嬉しくなんてないんだろう――それはそうだ。
だって俺は、タイミングが悪くて、察しが悪くて、デキの悪い幼なじみなんだから。
「り、リク」
「分かってる、悠人。俺のこと軽蔑してくれていいから。でもこれだけは忘れないでくれ、俺はおまえのことも好きなんだ!」
「え」
「いや、そういう意味じゃなくて! 恋か友情か選んで、恋をとったワケじゃないんだ! ただ今はこうしないと無理だったんだ、ごめん!」
「リク、まずは落ち着こうか?」
悠人にたしなめられて、俺は少しだけ呼吸を整えた。
「まず誤解を解こう」
「誤解?」
「俺がああ言ったのは、おまえに自覚させるためだから。嘘だから。そして今は、百里さんに報告しただけだからな。リクが、昨日のこと後悔してるって。そんで俺のたとえ話ですっげぇ動揺してたって」
……?
「んで、それを聞いた百里さんは嬉しゃっくりをした、ってワケだ」
「?」
「……なあ、リク。おまえって自覚してもそうなの?」
「??」
悠人は大きくため息をついて、俺の肩をポンと叩いた。
「こないだの授業もちゃんと聞いてなかったんだろうな。嬉しゃっくりって――幸せすぎる と止まるんだってよ」
それだけ言い残して帰っていった。
……はい?
残された俺とミオの間に気まずい空気が流れる。
整理しよう。
悠人がミオを好きなのは嘘だった。
そしてミオがしゃっくりしたのは、俺が恋心を自覚したのを知ったからで――そのしゃっくりがいま出ていないのは、彼女が強い『幸せ』を感じたから?
「えっと」
俺がやっと口を開いたときだった。
ミオが思いがけない行動に出た。
数歩の距離を駆けよって、俺に抱きついてきたのだ。
「な、なにして!?」
「返事、これじゃダメかな」
「う、うええ?」
「ダメ? じゃあ、ちゃんと言うね。……私もリクのこと、ずっと好きだったよ」
「~~っ!?」
柔らかい。俺の幼なじみ、柔らかい。
胸が、とかじゃなくて、腕も、頬にあたる髪の毛も、声も、全部柔らかい。しかも熱い。彼女の体も俺の体も、火照っているのが分かる。
そして――そんな彼女が、俺のことを好きだって?
「あ」
びくり、と俺は震える。
胃の上あたりがビクビク痙攣して、耐えようのない、圧縮されたような空気が喉にこみ上げてきて、
「ひっく!」
しゃっくりが出た。
「……出ちゃったね、リクも」
「は、はい」
「でもじゃあ、まだ幸せ じゃないんだ?」
「これはその、まだ実感が沸かないというか、なんというか」
「そう」
ミオは、俺の耳元でくすくすと笑った。
あ、やばい。
可愛い。俺の幼なじみ、超可愛い。
「そっか、じゃあ今度は――」
ミオは小声でささやいた。
「今度は私がリクのこと、いっぱい幸せにしてあげるね」
「~~~っ!!」
このあと、無茶苦茶しゃっくりした(そして止まった)。
五月のなかば。
午後の生物教室は、まったりとした空気に包まれていた。先生のしゃがれた声ですら、俺たちにとってはほとんど子守歌だ。
うちは一応、進学校だ。
けれど教師も生徒にもそんなにピリピリした雰囲気はない。だいたいからして、ゆる~い校風なのだ。
でも。
ごく少数だが、真面目に授業を受けている生徒もいる。たとえば、
俺の幼なじみだ。
三歳からの付き合いだ。
昔っから真面目というか、冷静というか、大人びた性格だった。
小学校のときから、家に帰ったらおやつを漁ったりスマホをいじるより前に、自分の机で宿題を広げるような――そんな、不可解な精神構造をした女子だった。
で。
小学生の俺は、遊びに行った百里の部屋で、一緒に宿題をさせられるハメになって、うんざりしたものだった。
なにしろ、そういうときの百里は厳しいのだ。スパルタ先生だった。百里ママの手作りプリンがなかったら、彼女の家に通い続けることはなかっただろう。
中学校に上がってからは話すことも少なくなったけれど、なんやかんやで同じ高校に進み、こうして同じクラスになっている。腐れ縁というやつだ。
「…………」
斜めうしろから見る、百里の横顔。
春風に揺れる肩までのボブカットに、大きくて
……まあ、言われてみれば整った顔をしている気がしないでもないけど。
生物教室の黒いテーブルにひじを突いて、俺はそんな風にぼんやりと考えていた。
静かな教室には、先生の声だけが響く。
「最近、流行の
嬉しいとしゃっくりが出ちゃう病。
この、「名前つけたやつ絶対IQ低いだろう」という病気は、その名のとおり強い
症状だけ聞くとかなりバカバカしいが、これがけっこう厄介なのだ。
しゃっくりが止まらなくて死ぬ――みたいなことはない。ないけど、やばい。
なにしろ、患者の精神状態が丸わかりになってしまうのだから。
たとえば、とある国会議員がこの病気にかかったときなんかは、
『総理! この不祥事をどうお考えですか!? ああ、嘆かわしい。こんなモラルの低い人間が一国の首相だなんて、私は悲しい!(うっひょう! 不祥事不祥事☆ これで与党の支持率ダウン。ラッキ~~♪)』
なんて国会で糾弾しながら、しゃっくりが止まらなくなったりした。
(※心の声は注釈をご覧ください)
他にも、とあるアイドルのインタビューで、
『○○ちゃんがグループ脱退だなんて……。ええ、その報告を聞いた時には、
なんてこともあった。
本人たちは全力で否定していたけども。
世間では、長い病名を略して『
「え~、治療法はまだ確立されておらず、あるにはあるが個人差も大きく、学会でも議論が尽きないので……」
……あ、やばい。
本格的に眠くなってきた。
まったく、午後の授業って、なんでこんなに……。
◆
「リク」
「……んあ?」
名前を呼ばれて顔を上げると、百里が冷たい眼で見おろしていた。いつの間にか机に突っ伏して眠ってしまって、そしてそのまま五限目の授業が終わっていたらしい。
「ずっと寝てたの? 信じられない」
軽蔑したような百里の声。
俺はよだれを
「あー、えっと。ははは。……百里、あとでノート写させて?」
「――最低」
それだけ言うと、百里は教科書とノートを抱えて、さっさと去っていった。
うーん、キツい。
俺にだけ当たりがキツいような気がする。
百里は、人付き合いが多い方ではないけれど、かといって孤立しているわけでもない。他のクラスメイトたちとは、そこそこイイ感じにコミュニケーションを取っている。
「最低って……」
そこまで言うか?
慣れたこととはいえ、それなりにダメージを受けた俺はのろのろと立ちあがる。
すると、ポンと肩に手が置かれて、
「またやってんのか」
「飽きないよな、お前らも」
野球部に所属するこのクラスメイトは、日焼けした顔でにかっと笑った。
しかし、他の連中もひどいな。
寝過ごした俺のこと、起こしてくれたっていいのにさ。
廊下を歩きながらそうやって愚痴ると、悠人は、
「百里さん、じっとお前の寝顔を眺めてたからな。だからみんなスルーしてたんだよ」
突っ立って俺を見おろし続けてた、ってことか?
オオカミが獲物を睨みつける、みたいな?
あー、そりゃあ怖くて誰も近づかないよな。
でもそんな中、悠人だけは俺を待っていてくれたってわけだ。
やっぱり、持つべきものは友達だ。うんうん、ありがたいなぁ。
「んでさ、リク」
悠人は歩きながらこちらを見て、とびきりの笑顔でこう言った。
「昼休みに伝え忘れたんだけど。監督――山田先生が職員室に来いってさ。あー、良かった。今のうちに伝えられて。そんじゃ頑張れよ」
◆
親友から伝えられた死刑宣告に従って俺は、貴重な休み時間に職員室へと向かった。
山田先生――野球部の顧問であり、国語教師だ。いかつい見た目は、その辺の893さんより怖い。
「
「えーっと、なんでしたっけ?」
「ああん?!」
「あ、あはは。冗談ですってば」
「ったく、おまえってやつは」
先生はやれやれと首を振る。
しかしどうやら――というか、やはりと言うべきか、俺は、古典の課題を忘れたことを責められるようだ。
やだなぁ、小言。
いと憂鬱。
「放課後、図書室の手伝いをしろ」
「でも放課後は部活が、バドミントンの練習が」
「おまえ幽霊部員なんだろう?」
「そうっすね……離れていても、俺の魂はいつでも体育館にあります」
「格好いい風に言うんじゃねぇよ」
なお、練習には月2のペースで参加している。
「それに、おまえがそう言うだろうと思って顧問の渡辺先生にはすでに許可を取ってある」
外堀から埋めるとは、なんて卑怯な教師なんだ!
……なんて、思っていても決して口には出さないけれど。
そして、悪いのは一方的に俺のほうだけれど。
そう。一応は悪いと思っているのだ。
全部ゆうべの俺が悪い。あと、Youtubeが悪い。実況動画が面白いのが悪い。
罪の重さを改めて自覚した俺は放課後、おとなしく先生の指示に従った。
滅多に訪れることのない四階の図書室。
引き戸を開けると、ほのかに本のにおいが漂ってきた。
「しっつれいしまーす……」
なんとなく忍び足で入室。
すると、窓際に百里の姿を見つけた。
向こうも不審人物(俺ね)の気配に気づいたらしく、手元の本から顔をあげてこちらを見た。
「お、おっす百里」
小声で言って、ひらひらと手を振ってみる。
が。
「…………」
無言のまま、百里は視線を落とした。
そんな、あからさまに避けなくてもいいのに。まあ、あいつからしたら、課題未提出の重罪人なんて、軽蔑して当然の人種なのかもしれないけどさ。
気を取り直して俺は、司書の先生の指示を受けて本棚の整理にいそしんだ。
バドミントンで鍛えた華麗なステップで通路せましと飛びまわり、先生から「もっと静かに働きなさい」と怒られたり、漫画の棚で手塚治虫先生の『火の鳥 太陽編』を立ち読みしては、「名作だけど読むのはあと!」と押し殺した声で叱られたりした。
俺の大活躍にすっかり肩を落とした司書の先生は、何かを諦めた顔で、
「今日はもういいわよ……」
と、俺をねぎらってくれた。
それで手持ちぶさたになった俺は、珍しく図書室に居座ってみようと思い、先ほどの『火の鳥』を手に窓際の席に着席した。
目の前には、読書継続中の百里。
「…………。なんなの」
「ん、太陽編」
「――そういうことじゃなくて」
なんで俺と絡むと、みんな疲れたような顔をするんだろうか。
TPOをわきまえている俺は、他の利用者の邪魔にならないよう、小声で続けた。
「たまには読書もいいかなって」
「……だから、なんでここで」
「なんか、習慣?」
言いながら、自分の言動を振り返る。
ああそうか。
百里の家で勉強していた頃の習慣か。
あの頃は、百里の部屋で小さいテーブルを挟んで宿題を広げてたもんだったっけ。ちゃんと宿題に取り組むあの習慣も、中学になって百里の家に行かなくなってから、つい途切れてしまった。
しかしこうして百里の前に座ると、今でも心が引き締まるというか、なんというか。
「やっぱ落ち着くんだな」
独り言のように俺はつぶやいた。
別にキツい態度を取られるのが嬉しいワケじゃない。ちゃらんぽらんな俺には、彼女の前に座って監視してもらうくらいが丁度いいのかもしれない、と思ったのだ。
「やっぱ
ふいにあの頃の気分に戻った俺は、つい下の名前で呼んでいた。
するとそのとき。
――――ひっく!
図書室中に響くほどの大きな声、いや大きな
目の前から。
百里美桜の口から。
そのことに、誰よりも彼女自身が驚いているようだった。
「……っ!?」
こちらを見たまま硬直している。
「ミオ?」
「ひゃっく!」
激しく肩を振るわせた彼女は、慌てて口元を押さえた。
「だ、大丈夫か?」
「……な、なにがよ」
「だから、しゃっくり」
「しゃっくりなんて……し、してない!」
苦しい言い訳だった。
「えーっと。もしかして、
「だから、違うわよ……!」
まあ確かに、今の会話に嬉しい要素なんてなかったもんな。普通のしゃっくりなのかもしれない。
「つーか、あんま大声出すと迷惑になるぞ、百里」
「――――。分かってるわよ」
やっぱり奇病ではないほうのしゃっくりだったみたいだ。
百里もすっかり落ち着いて……。
いや待てよ。
勘のいい俺は――超敏感で、女心を熟知している俺は、もしかしたらと思い至った。
……試してみよう。
「ミオ」
「ひっく!」
やっぱりだ。
「もしかして」
「ち、ちが……!」
「そっか。呼び捨てにされると興奮する趣味だったんだな」
「…………」
そうかそうか。
俺の幼なじみにそんな趣味があるなんてな。
俺じゃなきゃ気づかなかったよ。大発見だよ。
百里美桜はM気質だったなんて、彼女に憧れを抱いている同級生や下級生が知ったら、どう思うだろうか。もしかしたらいっそう憧れが強まる輩もいるかもだけど――
彼女の名誉のためにも、ここは黙っておくのがベターだろう。
「安心しろ。俺は言いふらしたりなんかしないから」
「…………」
なぜか恨めしそうな視線で百里は睨んでくる。
「なんだよ、俺ってそんなに信用ないか? 大丈夫だって、
大まじめに言ってみても、彼女の眼光は鋭くなるばかり。
なんだってんだ、まったく。
「俺とミオの仲だ――「ひゃっっく!」……ろう」
しばしの沈黙。
「…………」
彼女は両手で本を持ち上げ、顔の半分を隠してしまった。なにかに困惑したように寄せられた眉。こちらを見つめる目。少しだけ赤くなった肌。
あ、ダメだ。
なんかこう、ムズムズする。
「――ミオ」
「ひっく!」
「ミーオ」
「ひっく!!」
「ミーオちゃん☆」
「……っ! ひゃっっく!」
お、ちゃん付けでもオッケーみたいだ。よく分からない趣味だが……うん、これ楽しい。
クールな彼女が、俺のひと言でびくりと震えて顔を赤くする。
俺を見つめる、潤んだ瞳。
あれ?
もしかして、俺の幼なじみって可愛い?
「も、もう!」
耐えきれなくなった彼女は、ハードカバーの本を閉じて勢いよく立ちあがると、出口に向かって足早に去っていこうとする。
その背中に俺が呼びかけると、
「~~~~っ!」
びくんと跳ねる。
しゃっくりは、頑張って押し殺したらしい。なにそれ可愛い。
「ミオ、待てって」
追いかけて呼び止めるたび、彼女はしゃっくりに襲われる。
が。
出口付近でぴたりと足を止めると、こちらを振り向いた。まっ赤な顔をした彼女は、つかつかと歩いてきて、俺の横を通り過ぎる。
なにをするのかと思いきや、律儀な彼女は、テーブルの上に残してきた本を元の棚に戻してから、ふたたび俺を追い抜いて、図書室から出て行った。
俺も慌てて『火の鳥』を本棚に戻して、あとを追う。
階段で追いついて、
「あのさ、ミ――」
呼び止めたところで、踊り場の彼女はこちらを見あげた。
涙目だった。
「え、えーっと……」
幼なじみは、たったひと言、
「――最低」
とだけ言って、去っていった。
◆
「馬鹿。大馬鹿野郎」
そんなことがあった翌日のこと。
昼休み、教室で悠人に一部始終を報告した第一声がこれである。
「リク。おまえのメンタルは
「中一って」
「いや、
ひでぇ。
いくらなんでも小学生メンタルなワケが――
「幼稚園児よりタチが悪い」
「そこまで言う!?」
「でも、こうして俺に相談するってことは、ちょっとは自覚があるんだろ」
それは、そうなのだ……。
形はどうあれ、百里を泣かせてしまった。
今朝から彼女とは目を合わせられていない。
この昼休みにも、百里はどこかへ姿を消してしまっている。
「つい、悪ノリで――」
「それがガキメンタルなんだって」
「……さーせん」
「俺に謝ってもしょうがないだろ」
眉をひそめて悠人は言う。
「……そもそも、百里さんがどうして泣いたか、ちゃんと分かってるか?」
「だから、それは」
俺は声のトーンを落として、
「
「馬鹿」
一刀両断。容赦のない親友だった。
「いやでも、それが恥ずかしかったからミオは――」
「だから。どうして『嬉しゃっくり』が出たのか、そこから分かってないだろ」
「?」
「……はぁ。だからおまえって」
悠人は失望もあらわに、
「リク、百里さんのこと、どうして名字で呼ぶようになったんだ」
「? いや、なんとなく?」
思い返せば、中学に上がった頃からだろうか。
女子のことを『○○ちゃん』とか、そんな風に呼ばなくなったのは。こう、周りに合わせてというか、なんというか。名字で呼ぶのがちょっと格好いい? みたいな??
別に百里に対して距離を空けたいとか、そんな風に思ったわけじゃなく、本当になんとなくだった。
でも結果として、その頃から百里と疎遠になっていった気がする。
「でも、それが何の関係が??」
本気で首をひねると、悠人も本気のため息を漏らして、
「
「?」
「リクさ、百里さんのことどう思ってるわけ?」
「どうって……幼なじみ」
「そういうことじゃなくてさ。女子としてどうかって」
そう言われても、だ。
「やっぱりダメだ。幼稚園児だ、おまえ」
悠人は首を振って、
「じゃあ別の質問をしようか。百里さんは、おまえのことどう思ってると思う?」
「――デキの悪い幼なじみ?」
「それは正解だろうけど」
正解なのかよ。
「それはそうだとしても――たとえば、百里さんがリクに惚れるような出来事とか、そういう兆候とかはなかったか、って質問だよ」
惚れる?
あの百里が? 俺に??
「ないないない!」
「……リク。いつか刺されるぞ?」
軽口にしては、悠人の表情がガチだった。なんで?
「いいからほら、思い出してみろよ」
百里との出来事、ねぇ。
「覚えてるのは幼稚園ぐらいの頃か。よく近所の公園で結婚式ごっこしてたかな。永遠の愛を誓うとか言って」
「…………」
「小学生の時はよく家に行ってたけど。外で遊ぼうっつっても、百里のやつ、無言でぐいぐい手を引っぱって行くんだぜ」
「…………」
「運動会の徒競走で俺が一等賞を取ったとき、一番喜んでくれたのは百里だったかな」
「ああ、うん。なんか聞いてて胸焼けがしてきた」
悠人は片手で俺の言葉をさえぎった。
聞いといて、それ酷くない?
悠人はひと息ついてから、
「全体的にはムカつくような幼なじみエピソードだけど……そうだな、幼い恋心がそのままって感じか。あの百里さんがねぇ。――もっと、決定的なことはなかったのか?」
「決定的?」
俺と百里にそんなドラマチックなことなんて――
強いて言えば、それこそ小学校五年生のときの話だ。
「百里のことを『ガリ勉おんな』ってからかったやつのこと、ぶん殴ったくらいかな」
「…………」
「しかもよりによってアイツ、『えこひいき女』とか呼びやがったんだぜ? ふざけんなっつーの。百里は誰よりも努力家なんだよ。授業も宿題も真面目だし。運動は苦手なくせに、一生懸命だったし。真面目にしてるからって、先生からえこひいきされるとか……ありえねーし」
「それで、殴ったのか?」
「うん。そいつらのこと」
「複数?」
「四対一だったかな。アイツら、卑怯だよなぁ」
なんて話しながらも、俺は昨日の自分の所業を思い返していた。
俺、アイツらと同じようなことしたんじゃねぇの、と。
そう考えると、ずんと肩が重くなった。
……うん、やっぱり俺、小五メンタルなのかも。
俺が落ち込んでいると悠人は苦笑いを浮かべて、
「で、リクのほうはアレか。自覚ないまま今に至るってわけか」
「自覚?」
「あのさリク」
悠人は居住まいを正して、
「たとえばの話、百里さんのことを好きなやつが現れたら、どうする? そんで百里さんもその男を気に入って、付き合うことになったら?」
「そりゃあもちろん、幸せになるのはいいことで……」
いいこと、だよな? うん。
「恋人同士になった二人が手を繋いで歩いてたり」
「は、はは。いやぁ、いいんじゃないの。こ、高校生だしね?」
「校舎の隅でキスしたり」
「き!」
「彼女の部屋で、ベッドにもぐって」
「せっ! ……せ、節度を保っての付き合いなら! は、はは。オーケー、かな?」
脂汗が背中を濡らす。
「自覚したか?」
「し、してねーし。別に百里のことなんて何とも思ってねーし! あいつとはただ家が近いだけの……!」
つい立ちあがって大声を張り上げてしまった、そのときだった。
間が悪いというか、なんと言うか。
いや、やっぱり悪いのは、タイミングじゃなくて俺なのだろう。
教室の入口に百里が立っていた。
「ひゃ、百里」
無言のまま、彼女はきびすを返してどこかへ消えていった。
見送って、俺は力なく着席する。
悠人は真顔で、
「追いかけなくていいのか?」
「い、いいって。ホントのこと言っただけだし。別に、なにも」
「そうか」
――良かった。
と、悠人は言った。
「え?」
「おまえが本気でそういう態度なら、俺もようやく宣戦布告できるってことだよ」
「宣戦って」
「俺が、先に告ってもいいか?」
「それって――」
そうだよ、と、悠人は口元だけで笑って言った。
「俺、百里さんのことが好きなんだ」
◆
午後の授業をいつも以上にぼんやりと聞き流し、気づいたら放課後を迎えていた。そして俺は、ゾンビのように廊下をさまよっていたのだった。
なにがなにやら、という感じだった。
昨日と今日と、俺のキャパシティを大きく越える出来事ばかりだ。
悠人が百里のことを?
……マジか。
いや、悠人ならいい彼氏になるだろうけど。
ああでも、二人が手を繋いで? 校舎の隅で?
そんで、俺と勉強してた、あの部屋で?
「あっ、あああっ!」
立ち止まって頭を掻きむしる。
そばにいた下級生がびくっとして距離を取ったけれど――今の俺は、そちらを気にする余裕はなかった。
「なんなんだ俺……」
いっそう重い足取りでさまよい続けていると――
校舎の外に、悠人の姿を見つけた。
野球のユニフォームには着替えておらず、制服姿だ。
そういえば今日はテスト前だから部活はすべて休みなんだっけ――とか、そんなことを思い出すのと同時、もう一人、見慣れた姿が視界に入った。
百里だ。
どうやら、帰ろうとする百里を悠人が呼び止めたところだったらしい。
立ち止まった二人は向き合っている。
どきんと、胸が高鳴った。
なにか予感めいたものがする。
それも悪い方の予感だ。嫌な
なにやら言葉を交わす二人。
気がついたら俺は、廊下に膝を突いていた。
窓枠にかじりつくようにして、ガラス越しに二人の様子を盗み見る。
声は聞こえない。
聞こえないほうがいい……気がする。
悠人はいつものような優しい微笑で、二言三言、話しかけていた。
すると百里は、少し驚いたような雰囲気を見せて――
びくりと肩を揺らした。
しゃっくりだ。
そして、百里は恥ずかしそうにうつむいた。
悠人がさらに何かを言うと、百里は小さくうなずいて、またしゃっくりをした。嬉しゃっくりだ。
「――っ!」
全身が熱くなった。
かと思うと、次の瞬間には、さあっと体温が下がったような錯覚に襲われた。
ダメだ。やっぱりダメだ。
祝福なんてできない。
相手が悠人でも――ダメだ!
俺は駆けだしていた。
上履きのまま昇降口を飛び出して、二人のところへ駆けよっていた。
「リク?」
悠人が振り向く。百里も、驚いたようにこちらを見た。
「ごめん悠人! そして、百里も!」
「どう――したの?」
戸惑う百里に、俺はがばりと頭を下げて、
「昨日はごめん! つい調子に乗って」
「…………」
「そして悠人!」
「お、おう?」
「おまえのこと、本当は応援しなきゃいけないんだろうけど……そんで、今は俺は邪魔者でしかないんだろうけど」
「な、なにが?」
会話は聞こえなかった。
でも分かる。
悠人は百里に告白して、そして成功したのだ。恋人同士になった二人にとって、俺の乱入なんて邪魔以外の何ものでもないのだろう。
「でも、いま伝えないと絶対に後悔すると思ったから。俺、今日やっと気づいた! 俺は百里のことが――ミオのことが好きなんだ!」
叫ぶと、悠人はたじろいで周囲を見まわした。
悪い。友達の恋路を邪魔するなんて、最低だよな、俺。
でもごめん……これだけは!
「いつも頑張ってるミオが俺は好きだ! 俺に出来ないことを出来るミオのこと、凄いと思ってる! いつもふざけてて、自分の気持ちにも気づけない鈍感な俺は――そんなミオのことが好きになってた! いや、初めからずっと、ミオのことが好きだったんだ!」
でもミオは、ただ黙って俺の告白を聞いているだけだった。
しゃっくりなんて出ていない。
嬉しくなんてないんだろう――それはそうだ。
だって俺は、タイミングが悪くて、察しが悪くて、デキの悪い幼なじみなんだから。
「り、リク」
「分かってる、悠人。俺のこと軽蔑してくれていいから。でもこれだけは忘れないでくれ、俺はおまえのことも好きなんだ!」
「え」
「いや、そういう意味じゃなくて! 恋か友情か選んで、恋をとったワケじゃないんだ! ただ今はこうしないと無理だったんだ、ごめん!」
「リク、まずは落ち着こうか?」
悠人にたしなめられて、俺は少しだけ呼吸を整えた。
「まず誤解を解こう」
「誤解?」
「俺がああ言ったのは、おまえに自覚させるためだから。嘘だから。そして今は、百里さんに報告しただけだからな。リクが、昨日のこと後悔してるって。そんで俺のたとえ話ですっげぇ動揺してたって」
……?
「んで、それを聞いた百里さんは嬉しゃっくりをした、ってワケだ」
「?」
「……なあ、リク。おまえって自覚してもそうなの?」
「??」
悠人は大きくため息をついて、俺の肩をポンと叩いた。
「こないだの授業もちゃんと聞いてなかったんだろうな。嬉しゃっくりって――
それだけ言い残して帰っていった。
……はい?
残された俺とミオの間に気まずい空気が流れる。
整理しよう。
悠人がミオを好きなのは嘘だった。
そしてミオがしゃっくりしたのは、俺が恋心を自覚したのを知ったからで――そのしゃっくりがいま出ていないのは、彼女が強い『幸せ』を感じたから?
「えっと」
俺がやっと口を開いたときだった。
ミオが思いがけない行動に出た。
数歩の距離を駆けよって、俺に抱きついてきたのだ。
「な、なにして!?」
「返事、これじゃダメかな」
「う、うええ?」
「ダメ? じゃあ、ちゃんと言うね。……私もリクのこと、ずっと好きだったよ」
「~~っ!?」
柔らかい。俺の幼なじみ、柔らかい。
胸が、とかじゃなくて、腕も、頬にあたる髪の毛も、声も、全部柔らかい。しかも熱い。彼女の体も俺の体も、火照っているのが分かる。
そして――そんな彼女が、俺のことを好きだって?
「あ」
びくり、と俺は震える。
胃の上あたりがビクビク痙攣して、耐えようのない、圧縮されたような空気が喉にこみ上げてきて、
「ひっく!」
しゃっくりが出た。
「……出ちゃったね、リクも」
「は、はい」
「でもじゃあ、まだ
「これはその、まだ実感が沸かないというか、なんというか」
「そう」
ミオは、俺の耳元でくすくすと笑った。
あ、やばい。
可愛い。俺の幼なじみ、超可愛い。
「そっか、じゃあ今度は――」
ミオは小声でささやいた。
「今度は私がリクのこと、いっぱい幸せにしてあげるね」
「~~~っ!!」
このあと、無茶苦茶しゃっくりした(そして止まった)。