弓削鼎の日記(抜粋)十一月
文字数 8,273文字
十一月〇日
胸がさわいで何も手につかない。死力を振り絞り今夜の枚数のみ終わらす。読者を待たせたくない。
五城は帰った。京子は平身低頭したきり動かない。かける言葉がない。
あす、詳しく書く。僕は覚悟を決めていた。だから、だいじょうぶだ。分かっていた。分かっていたんだ。やはり、そうだった。分かっていた……。
十一月✕日 晴
ひと晩おいて落ち着いた。週末だが五城から速達で封書が届いたのであけると、昨夜について謝罪したい、甚だ勝手ながらこの事態は決して彼の望んだところではなく、僕との友情に免じて何卒弁明を許してほしいという内容が、よほど急いだのだろう、彼らしからぬ乱筆で手短にしるされていた。
僕はその封書を今、机上の自分の近くに並べてこれを書いている。京子は普段世話になっている近所の後家と午前中から観劇へ出かけ、そのまま先方へ一泊するので今夜は帰らない。僕がそうすすめた。
思うより冷静にペンを握っている。このあと、五城への返信をしたためるつもりでいる。
昨夜とうとう目の当たりにした光景を思い出すと、今なお胸中深くこみ上げるものがある。ふたりのさまが視界へ入った瞬間の言いようのない衝撃――それはいまだ生々しい映像としてこの脳裏に残っている。
だが僕は重々予感していた。予期してもいた。だからあとは、それがいつ現実に起こるかというだけの問題だった。
きのうは僕は学校のほうが忙しかった。学級会議と全体教員会議が重なり、定期試験をひかえてその日じゅうに終わらせたい諸々の仕事もかかえていた。そのため帰宅はかなり遅くなる、夕食はすませてくるかもしれないと朝の出がけに京子に言った。
だが会議のあと意外にすんなり事務が進み、僕が校舎を出たのはまだ宵の口のころだった。金曜ということで残業組の同僚と連れ立ってなじみの居酒屋で軽くひっかけたが、それでも家路についた時刻は当初の予定よりずっと早かった。
思えば、もしあのとき二軒目をことわらず付き合っていたら、あの場面には出くわさなかった。けれど運命だったんだろう。玄関の戸の前に立ったとき、その先に普段であれば大抵ついているあかりの見えないことが、まず僕をはっとさせた。
あるいは虫の知らせだったんだろう……僕は静かに戸を引いた。夜道の暗がりに慣れた目に、たたきにそろえられた男物の靴は僕のものではなかった。僕はすべてを悟り、数秒そこに硬直した。めまぐるしく駆け抜けた思考……動揺……そして腹をくくった。物音はない。……が、寝室にしている奥の座敷からかすかに人声がしていた。京子と五城にちがいなかった。つめたい緊張が新たに背筋をつらぬいた。僕は立っているのもやっとだった……だが見なくてはならないと思った。気を奮い立たせ、足音を立てぬよう細心の注意を払って進んだ。座敷の前で止まった。すると閉じたふすまの先からくぐもった忍び声と……制止のこもった衣擦れと……そして京子の五城を呼ぶ吐息……あとは記憶しない。耐えられなかった。聞いていられなかった。ためらう手をかけ、意を決し、そっとふすまを引くと、六畳の中央で抱き合うふたりの男女が目に飛びこんできた。僕は――僕はこの場合――夫としての権限を遺憾なく行使し、僕が見たその光景を覚えているかぎりつぶさにここへ書きつけておく。男は僕の無二の親友であり、女は僕の妻だった。
五城は出勤着の背広の上衣を脱いでいた。それは長押 にかかっていた。シャツ一枚の五城は僕がふすまをあけたとき、抱き寄せた京子の着物の合わせ目に片手で触れていた。触れていたその襟はだいぶ乱れ、ほとんどはだけて下の襦袢が大きく露出し、畳に倒れかかっている京子は一方の手でそれを押さえ、もう一方の手は五城の首へしっかと回し、しなだれかかるように彼へ抱きついていた。折り曲げたその足先から脱げかかっている足袋が、薄あかりを受けて蜜色に耀き、あらわになった脛から内腿が――たとえるすべもない煽情的な肉感を放ちながら――宙をもがいて五城へと突き出されていた。髷 はすっかり壊れ、おくれ毛が頬に張りつき、濡れたように震えていた。……僕はあまりの光景に目がくらみ、絶句した。その瞬間自分が何をどう思ったか、今もよく思い出せない……長火鉢にかかった鉄瓶がしゅうしゅう鳴っていて……もう下ろしたほうがいいなと、意識の外でちらと感じたことはなぜか覚えている。
まさに刹那的極限だった。僕らはそれぞれの体勢で静止していた。まず京子の顔に驚愕が走った……彼女は小さな悲鳴を上げ、はじかれたように起き直るとその場にうずくまった。僕は京子を見ないで無言に火鉢へと歩いていき鉄瓶を下ろした。音がやんだ。ふたりぶんの茶碗が並べて置いてあった。
「勘弁してくれ、きみ」
五城の声に目を向けると、彼は京子から離れ手早く着衣を直していた。それから京子をいちべつして立ち上がると僕を見つめた。血の気がうせ、蠟のように皮膚を白くし、声色には僕のよく知る冷静さがあったがさすがに狼狽しているようだった。気の動転をどうにか抑えているようだった。無理もない。僕こそ彼と似たり寄ったりか、それ以上にひどい青ざめ方で彼を眺めていたんだろう。半ば茫然として……脱力して……。
僕らが黙って見つめ合うそばにひれ伏し、両手で顔を覆った京子のすすり泣きが聞こえていた。乱れた着物もそのままだった。僕も五城もそんな京子を横目に、なすすべなく立ち尽くすだけだった。僕は京子を、五城と共有していたことになるのだろうか?
僕は唇をかみしめ、五城は苦しげに目を伏せた。京子の泣き声が響く。あれより凄惨な状況はちょっと思いつけない。ほぼ地獄絵図と呼んでいい。
どのくらい沈黙が続いたろう……。
「勘弁してくれ」
うめくようにもう一度五城は言った。
「いいんだ」
僕はそのとき、確かそう答えた。
「いいんだ五城。いいんだ。もういい。……」
それからあとの記憶はぼんやりしている。とにかく今夜は帰ってくれと五城へ頼み、その間僕は「分かっていた」とか「知っていた」とかいろいろ口走っていたが何を言ったか定かでない。五城が玄関から出ていったあと、六畳のあの場に伏したきり身を震わせ動かない京子のもとへ行った。けれど僕に何ができた? 何が言えた? 彼女をそこへ残し僕は自分の書斎へ駆けこんだ。いや、逃げこんだ。それから昨夜の日記を走り書いたらしいがあまり覚えていない。その後ひと晩かけて自分を鎮め、未明に京子のいる六畳へ戻り「考える暇が欲しい」ときょうの外出をすすめた。身なりをととのえ端座していた京子は、顔を上げず首肯した。
――そして今に至る……。
動揺が鎮まってみると、今の僕の心境はどう表現されるだろう。その動揺は覚悟のうえの動揺だったからだろう、嵐のあとの静けさに近い。思い出す時々に避けがたい小波が立つ。けれど、それも次第に凪いでいく……分かっていたのだから、と……自分に言い聞かすほどに。
僕は――結局、京子のことも五城のことも好いているのだ。だから今朝方無理に出かけさせた京子が今は心配だし、五城が送ってきた封書の返事も書く気でいる。
昨夜のことは、僕にはあらかじめ予見できていた事故だった。何も知らぬ状態であれを目撃していたら、今の僕は到底こんなふうに落ち着いてはいまい。五城の封書も破り捨てていたかもしれない。だが散々煩悶を重ねたあとであるから、状況がすんなり腹に落ちた。疑念に対する予想どおりの解答を得られ、むしろ――自分でも妙な感じだが――少しほっとしている。何しろあのまま、疑念を宙づりにして悩んでいるのはつらかった。
いずれにせよ、僕は京子か五城へ尋ねるつもりだった。それは昨晩のことがなくとも、近々起きるはずだった。結果として僕がその手間をかけるより早く、事実が明るみになったのだ。
ショックでないと言えば嘘になる。けれど、どうしようもない。この儚い世に生きる人の心を、僕はあやつれない。
これから五城への返信に、僕のいだいてきた疑念について包み隠さずしるし、完全に封をしたらあすの朝一番に彼のアパートの自宅へ速達で送ろうと思う。遅くともその日の夕方には届くだろう。
五城の言う弁明を拒絶するつもりはない。けれど昨夜のきょうの心情で、すぐ彼と会って話し合うことには多少抵抗がある。おそらく彼こそ同様の思いだろう。僕の封書にさらに返信するかたちで応じてほしいと書き添えることにする。
静かな夜だ。おかしな感傷にひたる前に、この夜のように静かな気持ちでまたペンを取ろうと思う。
十一月△日 曇
五城が速達で長い私信を寄こした。それは僕の学校の教員用の私書箱に親展で届けられ、午前の便で来たようだから、おそらく彼はきのう僕の封書を読んだあとすぐ返信へ取りかかったのだろう。最初の封書と比べ、今回の筆跡には彼らしい落ち着きが戻り、長文にもかかわらず一字の書き損じもなかった。誠心誠意、丁寧にしたためられていた。放課後、教員控室の自分の椅子に座ってそれを読みながら、そのことは僕の胸をうった。往年の彼との友情が思い起こされた。五城は彼の貴重な日曜のどれほどの時間を、この手紙に割いたのだろう。
内容は終始一貫、僕へ対する謝罪に尽きていた。しかし僕の疑念についての説明も書かれていた。先にそちらを記録する。
五城によると、僕の予想は当たっていて、彼と京子は今年の春先から新緑の時季にかけ、二、三度ふたりで会っていた。ただしそうと人が聞いて想像されうるようなあやまちは、どのときにも決してなかった。最初のとき、京子が電話をかけてきて、彼の会社の近くに用があって来ていると聞いたので、正午の休憩時間を共に過ごした。その際、京子が昼に自分と会うつもりでいたことを彼女は僕へ話していると五城はてっきり思いこんでいた。しかし訊けば京子は、僕はこのことを知らないという。それどころか僕に黙って出てきたとまでいうので、これはだいじょうぶかなと不安になった。だが京子はあくまで僕には知らせたくないというので、五城としても彼女の意志を尊重した。余計な疑いを僕に産みつけないためにも、そのほうがいい、ふたりの面会については僕には言わないでおこうという取り決めが京子とのあいだになされた。また都合が合えばと、約束らしい約束はせずその日は別れたものの、その後も京子の知らせによって数度、彼は彼女と会った。普段うちにいるばかりで、僕も仕事に執筆に忙しいと分かっているから、彼は自分との時間が京子の良い気分転換になればと思っていた。
八月の海浜教室の件については、五城は僕からそれに京子が参加する予定でいると聞かされるまで、彼女が行くつもりであるとは知らなかった。ただ、僕にそう言われてそのとき思い出したが、そういえば五月の頭ごろ京子と会ったとき、今年の夏はこういう教室を自分が手伝う予定だとちらと話した記憶がある。なので京子はおそらくその話を覚えていて、婦人会の会報を受け取ったとき、その教室が彼の参加するものと同じであると察したのではないか。なお教室の主催が彼の父親の属する団体である等、こまかい情報まで彼は話さなかったので、それらに関しては京子は知らなかったはずである。
またその教室での出来事について、五城は僕に一点謝罪を加えていた。というのは、五城も京子も僕に対し「会場では互いに姿を見なかった」と言ったが、じつはそうでなく、一泊二日の工程のあいだに一度立ち話をした。だがその際、自分たちの関係を僕が疑っているかもしれないという話を京子から聞き、それならこの会話の事実をあえて僕へ暴露し、僕の疑念をいたずらに加速させる必要はないと考え、それを京子にも伝え、「姿は見えなかった」とふたりで口裏を合わせたのである。
『この件については僕の独断で京子さんへ提言したことだから、どうか彼女を責めないでやってくれ』
五城はそう書いていた。その「立ち話」は単なるあいさつを兼ねた短い世間話にすぎず、また彼が京子と会場で出会ったのは真昼のことで、それも活動の進行に沿ったうえでのまったくの偶然だった。
そして三日前の晩、問題の事件へと彼の説明は移ってくる。……
その日、つまり三日前の金曜の午前中、彼は京子から突然電話を受けた。聞くと、僕の疑念がいよいよのっぴきならないところにまで来ており、自分にはどうすればよいか分からないので会って相談したいと言われた。電話越しの京子はすっかり消沈していた。そしてその日は僕の帰りが遅いから、彼の仕事がもし早めに引けたらうちへ来てくれないかと頼まれ、彼としては大いに逡巡した。だが先月彼が僕と会った際の僕の言動は確かに少々安定を欠いていたし、それを振り返るにつけてもいつかの時点では京子と会って相談しなくてはならないと強く感じていたので、ひとまず急ぎ仕事を片づけ僕の家へ向かった。
京子は往来のひと目を気にして、彼を奥の六畳へ案内した。差し向かいになった彼と京子はそこでしばらく話をしていたが、話すうちに感情が高ぶったか――ここで五城は表現をにごし――京子が自身の心境について、その切なさもどかしさなど涙ながらあけすけに彼へ打ちあけ始めた。彼はその想いを耳にし、眼前の京子の今にも彼へと身を投げ出さんばかりのようすに、つい誘惑に負け理性をうしなってしまった。このことについて、まったく彼自身の不徳の致すところであり申しひらきのしようもない。僕に目撃させてしまった光景を思うと、今も彼自身、自らの至らなさ浅はかさに愕然とするばかり、いくら猛省を尽くしても尽くせぬかぎりである。仮にもし、この件が引き金となって彼と僕との年来にわたり継続してきた交際に終止符が打たれるようなことになったなら、彼はおそらく今までどおり生きてはいられぬ。僕が望むなら、たとえそれが切腹であろうとも、どんなことであれこの身にいさぎよく受け入れる覚悟である。……
大体がこのような内容だった。あの夜のくだりを読むうち、僕は胸の痛みとともに五城へ対する同情も覚えた。というのは、もし僕があの六畳の密室で五城の立場となって京子と向き合っている男だったら、僕は果たして自制を保っていられたろうか。想像すると、どうもむずかしい気がする。男としての本能が、当人の意思に反しその場合どういうはたらきを為すか、僕にも十分理解できるからだ。
おそらく五城は六畳での出来事について、あるいは手紙の全体にわたって僕と京子の両方に配慮した言葉を選んで使っている。京子が五城へ想いを寄せていると僕は気づいていた。しかし読み手が僕である以上、五城は「自らの落ち度によって京子の誘惑に負けた」とは書けても、「想いを告白してきた京子に迫られ、すげなくことわることができなかった」とは書けなかったと思う。たとえ京子に相応の積極性があったにせよ、それを大っぴらにそうと認めることが、僕と京子両方への気遣いから、五城にははばかられたのだろう。
……無論、僕はすべてを信じているわけではない。鵜呑みにはしない。五城のこの弁解説明が、どの程度の信頼に足るか、僕には正直なところ分からない。
……しかし僕としては、京子が五城を恋していることはもはや疑いない事実と分かったのだから、ふたりのあいだにそのほか何があったか、そのあたりの具体的な詳細についてはもうどうでもいいように思っている。
いずれにせよ京子は五城を愛していて、僕が思うに五城もまたその京子の愛に応じるにやぶさかでない。そうでなければ、つまり五城にも京子をこころよく受け容れるだけの精神上の余裕と好意がなければ、六畳のことはそもそも起こらなかったはずだ。五城は先月僕へ述べたではないか。京子は「日陰に咲く可憐な野花」であり、「その野花には男の衝動をあおる妖しい引力がある」、と。五城はその彼の言葉どおり京子という野花に惹かれた。あるいは京子からアプローチされ、あえて惹かれることを許したのかもしれない。
だから、たとえ五城がこの手紙に真実をあますところなく述べていないとしても、僕はそこを疑いくどくどと見苦しく追及するつもりはない。世の間男された夫のなかには、その妻と間男とのあいだにあった何もかもを知らなくては気のすまぬ、ことによってはそのために不貞をはたらいた妻を告訴する男もいるようで、僕にだってその感情は分からなくもない。結果として自分はあざむかれていたのであるから、そんな怒りもわくだろう……もっともだ……しかし僕には、そんなことをしたところで自分にとってなんの報いにもならぬ気がする。僕自身の生来の性質が、僕をしてそのようなさめた諦念を思いつかすのかもしれないが……。
……本音をあかすなら……せめて京子が、五城ではないほかの男を恋してくれていたら、と思う。もし相手が僕にとって一顧の興味も与えない赤の他人も同然の男だったら、あるいは巷に幾百幾千ともいるありきたりの男だったなら僕は……僕は怒ったかもしれない。京子へ対し、浮気された夫にふさわしい怒りを感じられたかもしれない。いや、感じられたと断言する。けれども……その相手がほかならぬ五城となると、僕は……なんとも仕方ないことと思えてしまう。京子へ向けて然るべき非難も、憤慨も、全部萎えてしまう。なぜと言って……
うまく言えない。けれども京子が五城を愛するようになったと知っても、それについて怒りを感ずるよりか、まず「それはそうだろう」と納得している自分がいる。「まあそうなるだろう」と内心深くうなずいている自分がいる。
何しろ相手は五城である。あの五城時次である。
もし自分が京子で、目の前にふたりの男が――僕と五城が――立っていて、自分はそのふたりの男をそれなりによく知っていて、ではどちらの男を取りたいか問われたら、京子である自分はあっさり五城の手を取る。これは別にひいき目に見るのではなく、非常に順当な判断だと思う。自分は五城を選ぶだろう。なぜなら彼は前途有望、眉目秀麗の魅力あふれる男だからだ。僕などに勝ち目はない、と思う。
そういうことだ。だから僕はあきらめている。どこか他人事のように自分を静観してもいられるんだろう。
また手紙には五城の来月の予定についても書いてあった。来月、彼は商談のため泊まりがけでK温泉まで出張し、当地の旅館に一泊することが決定しているという。なぜそれを彼が僕へ知らせたかというと、彼は、商談とはいえ社から出るのは彼ひとりなので、気軽な小旅行としてよければ僕も一緒に行かないかと僕を誘っていた。こんなことになって、彼は僕が彼と会ってじかに話すのを避けるようになるのではと心境穏やかでなく、それをふせぎたい一心のまま、勝手は重々承知で誘うのだという。
彼いわく、行く先は全国有数の名湯でもあるし、これを機にふたりでゆっくり話し合いたい。僕は彼の顔を見たくもないかもしれず、仮に僕がそう思っていたとしても至極当然だが、そうと理解していてもなお頼む。どうかまげて承諾してはくれまいか、というのだ。……返事は今月中であればいつでもよい。だが、ぜひとも前向きに検討してもらえたら幸甚の至りだとつづっている。
彼の誘いは、僕は決して拒否するに値するとは思わない。しかし――しかし返事を迷っている。なぜというに五城は、この出張についてはすでに京子にも話してあると続けて書いているではないか。そしてそのことは僕をひどくためらわせている。素直に受けるには少々の引っかかりがある。五城は僕より先に京子にもあらかじめ出張の話をしてあった――果たしてその理由を――僕は想像できるような気がする。いや、すでにできている。そしてもし僕のこの想像が当たっているのであれば、僕は……僕はやはり返答を迷う。
あす、京子へ訊いて確認してみるつもりだ。京子は金曜以来、まだ僕とまともに顔を合わせられないでいる。すっかり恐縮しきっていて、憑かれたように家事炊事に精を出すほかはろくに会話らしい会話もできていない。僕も無理に話をしようとはしていなかったが……今の京子にとって、ああいうことがあったあとでは、僕とひとつ屋根の下にいるのは苦悩の時間の連続だろうから……しかしあすは面と向かってみるつもりでいる。そのうえで、五城への返事を決めよう。
長く書いてきて非常に疲れた。原稿はあすへ回すことにする。
胸がさわいで何も手につかない。死力を振り絞り今夜の枚数のみ終わらす。読者を待たせたくない。
五城は帰った。京子は平身低頭したきり動かない。かける言葉がない。
あす、詳しく書く。僕は覚悟を決めていた。だから、だいじょうぶだ。分かっていた。分かっていたんだ。やはり、そうだった。分かっていた……。
十一月✕日 晴
ひと晩おいて落ち着いた。週末だが五城から速達で封書が届いたのであけると、昨夜について謝罪したい、甚だ勝手ながらこの事態は決して彼の望んだところではなく、僕との友情に免じて何卒弁明を許してほしいという内容が、よほど急いだのだろう、彼らしからぬ乱筆で手短にしるされていた。
僕はその封書を今、机上の自分の近くに並べてこれを書いている。京子は普段世話になっている近所の後家と午前中から観劇へ出かけ、そのまま先方へ一泊するので今夜は帰らない。僕がそうすすめた。
思うより冷静にペンを握っている。このあと、五城への返信をしたためるつもりでいる。
昨夜とうとう目の当たりにした光景を思い出すと、今なお胸中深くこみ上げるものがある。ふたりのさまが視界へ入った瞬間の言いようのない衝撃――それはいまだ生々しい映像としてこの脳裏に残っている。
だが僕は重々予感していた。予期してもいた。だからあとは、それがいつ現実に起こるかというだけの問題だった。
きのうは僕は学校のほうが忙しかった。学級会議と全体教員会議が重なり、定期試験をひかえてその日じゅうに終わらせたい諸々の仕事もかかえていた。そのため帰宅はかなり遅くなる、夕食はすませてくるかもしれないと朝の出がけに京子に言った。
だが会議のあと意外にすんなり事務が進み、僕が校舎を出たのはまだ宵の口のころだった。金曜ということで残業組の同僚と連れ立ってなじみの居酒屋で軽くひっかけたが、それでも家路についた時刻は当初の予定よりずっと早かった。
思えば、もしあのとき二軒目をことわらず付き合っていたら、あの場面には出くわさなかった。けれど運命だったんだろう。玄関の戸の前に立ったとき、その先に普段であれば大抵ついているあかりの見えないことが、まず僕をはっとさせた。
あるいは虫の知らせだったんだろう……僕は静かに戸を引いた。夜道の暗がりに慣れた目に、たたきにそろえられた男物の靴は僕のものではなかった。僕はすべてを悟り、数秒そこに硬直した。めまぐるしく駆け抜けた思考……動揺……そして腹をくくった。物音はない。……が、寝室にしている奥の座敷からかすかに人声がしていた。京子と五城にちがいなかった。つめたい緊張が新たに背筋をつらぬいた。僕は立っているのもやっとだった……だが見なくてはならないと思った。気を奮い立たせ、足音を立てぬよう細心の注意を払って進んだ。座敷の前で止まった。すると閉じたふすまの先からくぐもった忍び声と……制止のこもった衣擦れと……そして京子の五城を呼ぶ吐息……あとは記憶しない。耐えられなかった。聞いていられなかった。ためらう手をかけ、意を決し、そっとふすまを引くと、六畳の中央で抱き合うふたりの男女が目に飛びこんできた。僕は――僕はこの場合――夫としての権限を遺憾なく行使し、僕が見たその光景を覚えているかぎりつぶさにここへ書きつけておく。男は僕の無二の親友であり、女は僕の妻だった。
五城は出勤着の背広の上衣を脱いでいた。それは
まさに刹那的極限だった。僕らはそれぞれの体勢で静止していた。まず京子の顔に驚愕が走った……彼女は小さな悲鳴を上げ、はじかれたように起き直るとその場にうずくまった。僕は京子を見ないで無言に火鉢へと歩いていき鉄瓶を下ろした。音がやんだ。ふたりぶんの茶碗が並べて置いてあった。
「勘弁してくれ、きみ」
五城の声に目を向けると、彼は京子から離れ手早く着衣を直していた。それから京子をいちべつして立ち上がると僕を見つめた。血の気がうせ、蠟のように皮膚を白くし、声色には僕のよく知る冷静さがあったがさすがに狼狽しているようだった。気の動転をどうにか抑えているようだった。無理もない。僕こそ彼と似たり寄ったりか、それ以上にひどい青ざめ方で彼を眺めていたんだろう。半ば茫然として……脱力して……。
僕らが黙って見つめ合うそばにひれ伏し、両手で顔を覆った京子のすすり泣きが聞こえていた。乱れた着物もそのままだった。僕も五城もそんな京子を横目に、なすすべなく立ち尽くすだけだった。僕は京子を、五城と共有していたことになるのだろうか?
僕は唇をかみしめ、五城は苦しげに目を伏せた。京子の泣き声が響く。あれより凄惨な状況はちょっと思いつけない。ほぼ地獄絵図と呼んでいい。
どのくらい沈黙が続いたろう……。
「勘弁してくれ」
うめくようにもう一度五城は言った。
「いいんだ」
僕はそのとき、確かそう答えた。
「いいんだ五城。いいんだ。もういい。……」
それからあとの記憶はぼんやりしている。とにかく今夜は帰ってくれと五城へ頼み、その間僕は「分かっていた」とか「知っていた」とかいろいろ口走っていたが何を言ったか定かでない。五城が玄関から出ていったあと、六畳のあの場に伏したきり身を震わせ動かない京子のもとへ行った。けれど僕に何ができた? 何が言えた? 彼女をそこへ残し僕は自分の書斎へ駆けこんだ。いや、逃げこんだ。それから昨夜の日記を走り書いたらしいがあまり覚えていない。その後ひと晩かけて自分を鎮め、未明に京子のいる六畳へ戻り「考える暇が欲しい」ときょうの外出をすすめた。身なりをととのえ端座していた京子は、顔を上げず首肯した。
――そして今に至る……。
動揺が鎮まってみると、今の僕の心境はどう表現されるだろう。その動揺は覚悟のうえの動揺だったからだろう、嵐のあとの静けさに近い。思い出す時々に避けがたい小波が立つ。けれど、それも次第に凪いでいく……分かっていたのだから、と……自分に言い聞かすほどに。
僕は――結局、京子のことも五城のことも好いているのだ。だから今朝方無理に出かけさせた京子が今は心配だし、五城が送ってきた封書の返事も書く気でいる。
昨夜のことは、僕にはあらかじめ予見できていた事故だった。何も知らぬ状態であれを目撃していたら、今の僕は到底こんなふうに落ち着いてはいまい。五城の封書も破り捨てていたかもしれない。だが散々煩悶を重ねたあとであるから、状況がすんなり腹に落ちた。疑念に対する予想どおりの解答を得られ、むしろ――自分でも妙な感じだが――少しほっとしている。何しろあのまま、疑念を宙づりにして悩んでいるのはつらかった。
いずれにせよ、僕は京子か五城へ尋ねるつもりだった。それは昨晩のことがなくとも、近々起きるはずだった。結果として僕がその手間をかけるより早く、事実が明るみになったのだ。
ショックでないと言えば嘘になる。けれど、どうしようもない。この儚い世に生きる人の心を、僕はあやつれない。
これから五城への返信に、僕のいだいてきた疑念について包み隠さずしるし、完全に封をしたらあすの朝一番に彼のアパートの自宅へ速達で送ろうと思う。遅くともその日の夕方には届くだろう。
五城の言う弁明を拒絶するつもりはない。けれど昨夜のきょうの心情で、すぐ彼と会って話し合うことには多少抵抗がある。おそらく彼こそ同様の思いだろう。僕の封書にさらに返信するかたちで応じてほしいと書き添えることにする。
静かな夜だ。おかしな感傷にひたる前に、この夜のように静かな気持ちでまたペンを取ろうと思う。
十一月△日 曇
五城が速達で長い私信を寄こした。それは僕の学校の教員用の私書箱に親展で届けられ、午前の便で来たようだから、おそらく彼はきのう僕の封書を読んだあとすぐ返信へ取りかかったのだろう。最初の封書と比べ、今回の筆跡には彼らしい落ち着きが戻り、長文にもかかわらず一字の書き損じもなかった。誠心誠意、丁寧にしたためられていた。放課後、教員控室の自分の椅子に座ってそれを読みながら、そのことは僕の胸をうった。往年の彼との友情が思い起こされた。五城は彼の貴重な日曜のどれほどの時間を、この手紙に割いたのだろう。
内容は終始一貫、僕へ対する謝罪に尽きていた。しかし僕の疑念についての説明も書かれていた。先にそちらを記録する。
五城によると、僕の予想は当たっていて、彼と京子は今年の春先から新緑の時季にかけ、二、三度ふたりで会っていた。ただしそうと人が聞いて想像されうるようなあやまちは、どのときにも決してなかった。最初のとき、京子が電話をかけてきて、彼の会社の近くに用があって来ていると聞いたので、正午の休憩時間を共に過ごした。その際、京子が昼に自分と会うつもりでいたことを彼女は僕へ話していると五城はてっきり思いこんでいた。しかし訊けば京子は、僕はこのことを知らないという。それどころか僕に黙って出てきたとまでいうので、これはだいじょうぶかなと不安になった。だが京子はあくまで僕には知らせたくないというので、五城としても彼女の意志を尊重した。余計な疑いを僕に産みつけないためにも、そのほうがいい、ふたりの面会については僕には言わないでおこうという取り決めが京子とのあいだになされた。また都合が合えばと、約束らしい約束はせずその日は別れたものの、その後も京子の知らせによって数度、彼は彼女と会った。普段うちにいるばかりで、僕も仕事に執筆に忙しいと分かっているから、彼は自分との時間が京子の良い気分転換になればと思っていた。
八月の海浜教室の件については、五城は僕からそれに京子が参加する予定でいると聞かされるまで、彼女が行くつもりであるとは知らなかった。ただ、僕にそう言われてそのとき思い出したが、そういえば五月の頭ごろ京子と会ったとき、今年の夏はこういう教室を自分が手伝う予定だとちらと話した記憶がある。なので京子はおそらくその話を覚えていて、婦人会の会報を受け取ったとき、その教室が彼の参加するものと同じであると察したのではないか。なお教室の主催が彼の父親の属する団体である等、こまかい情報まで彼は話さなかったので、それらに関しては京子は知らなかったはずである。
またその教室での出来事について、五城は僕に一点謝罪を加えていた。というのは、五城も京子も僕に対し「会場では互いに姿を見なかった」と言ったが、じつはそうでなく、一泊二日の工程のあいだに一度立ち話をした。だがその際、自分たちの関係を僕が疑っているかもしれないという話を京子から聞き、それならこの会話の事実をあえて僕へ暴露し、僕の疑念をいたずらに加速させる必要はないと考え、それを京子にも伝え、「姿は見えなかった」とふたりで口裏を合わせたのである。
『この件については僕の独断で京子さんへ提言したことだから、どうか彼女を責めないでやってくれ』
五城はそう書いていた。その「立ち話」は単なるあいさつを兼ねた短い世間話にすぎず、また彼が京子と会場で出会ったのは真昼のことで、それも活動の進行に沿ったうえでのまったくの偶然だった。
そして三日前の晩、問題の事件へと彼の説明は移ってくる。……
その日、つまり三日前の金曜の午前中、彼は京子から突然電話を受けた。聞くと、僕の疑念がいよいよのっぴきならないところにまで来ており、自分にはどうすればよいか分からないので会って相談したいと言われた。電話越しの京子はすっかり消沈していた。そしてその日は僕の帰りが遅いから、彼の仕事がもし早めに引けたらうちへ来てくれないかと頼まれ、彼としては大いに逡巡した。だが先月彼が僕と会った際の僕の言動は確かに少々安定を欠いていたし、それを振り返るにつけてもいつかの時点では京子と会って相談しなくてはならないと強く感じていたので、ひとまず急ぎ仕事を片づけ僕の家へ向かった。
京子は往来のひと目を気にして、彼を奥の六畳へ案内した。差し向かいになった彼と京子はそこでしばらく話をしていたが、話すうちに感情が高ぶったか――ここで五城は表現をにごし――京子が自身の心境について、その切なさもどかしさなど涙ながらあけすけに彼へ打ちあけ始めた。彼はその想いを耳にし、眼前の京子の今にも彼へと身を投げ出さんばかりのようすに、つい誘惑に負け理性をうしなってしまった。このことについて、まったく彼自身の不徳の致すところであり申しひらきのしようもない。僕に目撃させてしまった光景を思うと、今も彼自身、自らの至らなさ浅はかさに愕然とするばかり、いくら猛省を尽くしても尽くせぬかぎりである。仮にもし、この件が引き金となって彼と僕との年来にわたり継続してきた交際に終止符が打たれるようなことになったなら、彼はおそらく今までどおり生きてはいられぬ。僕が望むなら、たとえそれが切腹であろうとも、どんなことであれこの身にいさぎよく受け入れる覚悟である。……
大体がこのような内容だった。あの夜のくだりを読むうち、僕は胸の痛みとともに五城へ対する同情も覚えた。というのは、もし僕があの六畳の密室で五城の立場となって京子と向き合っている男だったら、僕は果たして自制を保っていられたろうか。想像すると、どうもむずかしい気がする。男としての本能が、当人の意思に反しその場合どういうはたらきを為すか、僕にも十分理解できるからだ。
おそらく五城は六畳での出来事について、あるいは手紙の全体にわたって僕と京子の両方に配慮した言葉を選んで使っている。京子が五城へ想いを寄せていると僕は気づいていた。しかし読み手が僕である以上、五城は「自らの落ち度によって京子の誘惑に負けた」とは書けても、「想いを告白してきた京子に迫られ、すげなくことわることができなかった」とは書けなかったと思う。たとえ京子に相応の積極性があったにせよ、それを大っぴらにそうと認めることが、僕と京子両方への気遣いから、五城にははばかられたのだろう。
……無論、僕はすべてを信じているわけではない。鵜呑みにはしない。五城のこの弁解説明が、どの程度の信頼に足るか、僕には正直なところ分からない。
……しかし僕としては、京子が五城を恋していることはもはや疑いない事実と分かったのだから、ふたりのあいだにそのほか何があったか、そのあたりの具体的な詳細についてはもうどうでもいいように思っている。
いずれにせよ京子は五城を愛していて、僕が思うに五城もまたその京子の愛に応じるにやぶさかでない。そうでなければ、つまり五城にも京子をこころよく受け容れるだけの精神上の余裕と好意がなければ、六畳のことはそもそも起こらなかったはずだ。五城は先月僕へ述べたではないか。京子は「日陰に咲く可憐な野花」であり、「その野花には男の衝動をあおる妖しい引力がある」、と。五城はその彼の言葉どおり京子という野花に惹かれた。あるいは京子からアプローチされ、あえて惹かれることを許したのかもしれない。
だから、たとえ五城がこの手紙に真実をあますところなく述べていないとしても、僕はそこを疑いくどくどと見苦しく追及するつもりはない。世の間男された夫のなかには、その妻と間男とのあいだにあった何もかもを知らなくては気のすまぬ、ことによってはそのために不貞をはたらいた妻を告訴する男もいるようで、僕にだってその感情は分からなくもない。結果として自分はあざむかれていたのであるから、そんな怒りもわくだろう……もっともだ……しかし僕には、そんなことをしたところで自分にとってなんの報いにもならぬ気がする。僕自身の生来の性質が、僕をしてそのようなさめた諦念を思いつかすのかもしれないが……。
……本音をあかすなら……せめて京子が、五城ではないほかの男を恋してくれていたら、と思う。もし相手が僕にとって一顧の興味も与えない赤の他人も同然の男だったら、あるいは巷に幾百幾千ともいるありきたりの男だったなら僕は……僕は怒ったかもしれない。京子へ対し、浮気された夫にふさわしい怒りを感じられたかもしれない。いや、感じられたと断言する。けれども……その相手がほかならぬ五城となると、僕は……なんとも仕方ないことと思えてしまう。京子へ向けて然るべき非難も、憤慨も、全部萎えてしまう。なぜと言って……
うまく言えない。けれども京子が五城を愛するようになったと知っても、それについて怒りを感ずるよりか、まず「それはそうだろう」と納得している自分がいる。「まあそうなるだろう」と内心深くうなずいている自分がいる。
何しろ相手は五城である。あの五城時次である。
もし自分が京子で、目の前にふたりの男が――僕と五城が――立っていて、自分はそのふたりの男をそれなりによく知っていて、ではどちらの男を取りたいか問われたら、京子である自分はあっさり五城の手を取る。これは別にひいき目に見るのではなく、非常に順当な判断だと思う。自分は五城を選ぶだろう。なぜなら彼は前途有望、眉目秀麗の魅力あふれる男だからだ。僕などに勝ち目はない、と思う。
そういうことだ。だから僕はあきらめている。どこか他人事のように自分を静観してもいられるんだろう。
また手紙には五城の来月の予定についても書いてあった。来月、彼は商談のため泊まりがけでK温泉まで出張し、当地の旅館に一泊することが決定しているという。なぜそれを彼が僕へ知らせたかというと、彼は、商談とはいえ社から出るのは彼ひとりなので、気軽な小旅行としてよければ僕も一緒に行かないかと僕を誘っていた。こんなことになって、彼は僕が彼と会ってじかに話すのを避けるようになるのではと心境穏やかでなく、それをふせぎたい一心のまま、勝手は重々承知で誘うのだという。
彼いわく、行く先は全国有数の名湯でもあるし、これを機にふたりでゆっくり話し合いたい。僕は彼の顔を見たくもないかもしれず、仮に僕がそう思っていたとしても至極当然だが、そうと理解していてもなお頼む。どうかまげて承諾してはくれまいか、というのだ。……返事は今月中であればいつでもよい。だが、ぜひとも前向きに検討してもらえたら幸甚の至りだとつづっている。
彼の誘いは、僕は決して拒否するに値するとは思わない。しかし――しかし返事を迷っている。なぜというに五城は、この出張についてはすでに京子にも話してあると続けて書いているではないか。そしてそのことは僕をひどくためらわせている。素直に受けるには少々の引っかかりがある。五城は僕より先に京子にもあらかじめ出張の話をしてあった――果たしてその理由を――僕は想像できるような気がする。いや、すでにできている。そしてもし僕のこの想像が当たっているのであれば、僕は……僕はやはり返答を迷う。
あす、京子へ訊いて確認してみるつもりだ。京子は金曜以来、まだ僕とまともに顔を合わせられないでいる。すっかり恐縮しきっていて、憑かれたように家事炊事に精を出すほかはろくに会話らしい会話もできていない。僕も無理に話をしようとはしていなかったが……今の京子にとって、ああいうことがあったあとでは、僕とひとつ屋根の下にいるのは苦悩の時間の連続だろうから……しかしあすは面と向かってみるつもりでいる。そのうえで、五城への返事を決めよう。
長く書いてきて非常に疲れた。原稿はあすへ回すことにする。