第11話
文字数 2,405文字
室内にひとたび足を踏み入れたとたん、つんと鼻をつくアルコールの臭い……。
でもぼくはこの臭い、そんなにキライじゃない。むしろ好きかも。なんて、吞気なことを言ってる場合じゃないか。
一寸先は闇――。
そのことば通り、教室の中は墨をべったり塗りつぶしたように真っ暗闇で、なんとも気味が悪くてしょうがない。おまけに、ムシ暑さ半端ない。
だれが見ているかわからないという理由から、室内の灯りはもとより、空調すらつけられないらしい。
それでなくても、ムシムシするのに、道理で、やけにムシ暑いはずだ。
せめて、ほんの少しでいいから窓を開けてくれたらいいのに、とぼくはうらめしそうに窓際をチラ見する
何分、今年も酷暑だ。空調が効いてないぶん、いっそう空気が重たく感じるし、その上、濃密でもある。 それが、べったりと肌にまとわりつくものだから、うっとうしいたらありゃしない。
それと、だんだん、息苦しくさえなってきた。ユウジの粗い呼吸 が耳にふれる。
できることなら、いますぐにでも逃げ出したい。 そして、空調の効いた涼しいわが家に戻って、冷えたスイカをほうばりたい。
そういう弱気の虫さえ、知らず知らずのうちに顔を覗かせてくる。のみならず、ここで、ようやく、初めて、ユウジに申し訳ないことをしたな、と悔恨の念にもかられる。
「おい、カツユキ」
肩がピクンと跳ねて、思わず心臓がドキッとする。
だから、急に、声をかけるなよな、もう……ぼくは内心つぶやきを洩らして、顔をしかめる。
だとしても、絶対に、弱気の虫は見せられないんだぞ、とぼくは自分に強く命令する。イサムなんかに負けてちゃいられないんだ、とギュッと唇を噛みしめて――。
肩でひとつ息をつく。その上で、ぼくは「な、なんだよ?」 と、わざとぶっきらぼうに訊く。
うまくことばが、出てくれた。ホッと胸を撫でおろす。
「いいか、おまえたちはこの教室を反時計回りに進め。オレたちは、その逆を進む。教室をくまなく調べ終えたあと、いずれ、後方の黒板のところでまた逢おう」
「……ああ、わかったよ」
やや憮然として、ぼくはうなずく。
どうして、こいつに、命令口調で……そんな割り切れない感情を持て余しながら。
一寸先は闇――。
そんな中、懐中電灯の灯りを頼りに、足もとに気を配りながら、ぼくとユウジは前に進む。
理科室は、一般の教室より空間が広い。その中に、天板の広い、ダイニングテーブルを彷彿とさせる白い机が、規則正しく並んでいる。
懐中電灯の灯りに照らされた天板が、かすかながら、白く、浮かび上がって目に入る。
まるで――いけないいけない、とぼくはかぶりを強く横に振る。
こういう不穏な気配の中で、その名はけっして口にしてはならないんだ、と思って。
にしても、そんなおぞましい『何者か』――それが、本当に、この教室のどこかに潜んでいるのだろうか……。
淡く、浮かび上がった天板を目安にしながら、ぼくたちは及び腰で、おずおずと前に進む。
幽霊は冬を好む――理屈ではわかっている。でもこのまがまがしい不穏な気配は、かなりヤバい。
ムシ暑さ半端ないというのに、悪寒が走って、肌が粟立つ。
本当に、何かが、どこかに潜んでいる、ような気さえしてきた。
やっぱ、あれだったなあ――さっきから、何度も、ため息交じりに、ぼくは思う。
こんなところに、こなければよかったんだ、と。だれかが、「行くな」と強く引きとめてくれればよかったんだ、とも。
そうすれば、イサムとの勝負に負けて表面上はがっかりして見せるけど、心の底では怖い想いをしなくてよかったとほっと安堵の息をつけてたはず……。
とはいえなあ――あれを考えたら、肝というより、タマタマが縮み上がる。
なるほど、幽霊は怖い。けれども、うちの姉ちゃんは、それよりもっと怖い。 それを考えたら……。
これじゃ、まるで前門の虎後門の狼だよ、とぼくは苦い顔で舌を打つ。
だいたいさ――いまにして思えば、むしょうに、腹が立つ。
うかつにも、イサムの陥穽にはまって、たかが、十円をネコババしたばかりに、こんなのっぴきならない事態に陥ってしまうなんて、と。
だとしたら、昼間、ぼくの運もまんざら捨てたもんじゃないな、と喜んでいたあれも、撤回しなきゃならないな、とも。
そんなふうに、自虐交じりのため息をつきながら、ぼくは、おずおずと歩を進める。
すると、そのとき――。
キラリ、と窓際で、何かが光った。
ヒ、ヒェッ!
すんでのところで、叫びそうになる。でもそれは、からくも、こらえた。
イサムに聞かれたら、「ふん、おまえの負けね」と鼻で笑われかねない。
いまは、勝負のさなか。そう簡単には、匙を投げるわけにはいかない。
それに、そういうことでは、こんごの小学生生活に禍根を残すことになる。それだけは、なにがなんでも避けなくてはならない。
うん⁈
それはそうと、ユウジはどうした?
ぼく以上に気の弱いユウジが、なぜかおとなしい。
ユウジを窺う。見ると、何事もなかったよな顔をして、そこに平然と突っ立っている。どうやら、ユウジは、いまの光に気づかなかったようだ。
やれやれ、とぼくは安堵の息をつく。
それより――ふと、ぼくは思う。
いまの光はなんだったんだろう、と。
それを調べるのが先決だ、とぼくは心の中でつぶやいて、こわごわながら、懐中電灯の灯りを、いま、光った箇所にあててみる。
なんだよもう、おどろかさないでよね――なんのことはない、よく見れば、ただの三角フラスコ。そこは、無機的なガラスの実験道具類が収まった戸棚だった。
やっぱり、あれだよ。そう、例の状況に距離を置いて柔軟に眺める――それが、大事みたい。
改めて、自分にそう言い聞かせて、ぼくは、ふたたび、おずおずと歩き出す。
つづく
でもぼくはこの臭い、そんなにキライじゃない。むしろ好きかも。なんて、吞気なことを言ってる場合じゃないか。
一寸先は闇――。
そのことば通り、教室の中は墨をべったり塗りつぶしたように真っ暗闇で、なんとも気味が悪くてしょうがない。おまけに、ムシ暑さ半端ない。
だれが見ているかわからないという理由から、室内の灯りはもとより、空調すらつけられないらしい。
それでなくても、ムシムシするのに、道理で、やけにムシ暑いはずだ。
せめて、ほんの少しでいいから窓を開けてくれたらいいのに、とぼくはうらめしそうに窓際をチラ見する
何分、今年も酷暑だ。空調が効いてないぶん、いっそう空気が重たく感じるし、その上、濃密でもある。 それが、べったりと肌にまとわりつくものだから、うっとうしいたらありゃしない。
それと、だんだん、息苦しくさえなってきた。ユウジの粗い
できることなら、いますぐにでも逃げ出したい。 そして、空調の効いた涼しいわが家に戻って、冷えたスイカをほうばりたい。
そういう弱気の虫さえ、知らず知らずのうちに顔を覗かせてくる。のみならず、ここで、ようやく、初めて、ユウジに申し訳ないことをしたな、と悔恨の念にもかられる。
「おい、カツユキ」
肩がピクンと跳ねて、思わず心臓がドキッとする。
だから、急に、声をかけるなよな、もう……ぼくは内心つぶやきを洩らして、顔をしかめる。
だとしても、絶対に、弱気の虫は見せられないんだぞ、とぼくは自分に強く命令する。イサムなんかに負けてちゃいられないんだ、とギュッと唇を噛みしめて――。
肩でひとつ息をつく。その上で、ぼくは「な、なんだよ?」 と、わざとぶっきらぼうに訊く。
うまくことばが、出てくれた。ホッと胸を撫でおろす。
「いいか、おまえたちはこの教室を反時計回りに進め。オレたちは、その逆を進む。教室をくまなく調べ終えたあと、いずれ、後方の黒板のところでまた逢おう」
「……ああ、わかったよ」
やや憮然として、ぼくはうなずく。
どうして、こいつに、命令口調で……そんな割り切れない感情を持て余しながら。
一寸先は闇――。
そんな中、懐中電灯の灯りを頼りに、足もとに気を配りながら、ぼくとユウジは前に進む。
理科室は、一般の教室より空間が広い。その中に、天板の広い、ダイニングテーブルを彷彿とさせる白い机が、規則正しく並んでいる。
懐中電灯の灯りに照らされた天板が、かすかながら、白く、浮かび上がって目に入る。
まるで――いけないいけない、とぼくはかぶりを強く横に振る。
こういう不穏な気配の中で、その名はけっして口にしてはならないんだ、と思って。
にしても、そんなおぞましい『何者か』――それが、本当に、この教室のどこかに潜んでいるのだろうか……。
淡く、浮かび上がった天板を目安にしながら、ぼくたちは及び腰で、おずおずと前に進む。
幽霊は冬を好む――理屈ではわかっている。でもこのまがまがしい不穏な気配は、かなりヤバい。
ムシ暑さ半端ないというのに、悪寒が走って、肌が粟立つ。
本当に、何かが、どこかに潜んでいる、ような気さえしてきた。
やっぱ、あれだったなあ――さっきから、何度も、ため息交じりに、ぼくは思う。
こんなところに、こなければよかったんだ、と。だれかが、「行くな」と強く引きとめてくれればよかったんだ、とも。
そうすれば、イサムとの勝負に負けて表面上はがっかりして見せるけど、心の底では怖い想いをしなくてよかったとほっと安堵の息をつけてたはず……。
とはいえなあ――あれを考えたら、肝というより、タマタマが縮み上がる。
なるほど、幽霊は怖い。けれども、うちの姉ちゃんは、それよりもっと怖い。 それを考えたら……。
これじゃ、まるで前門の虎後門の狼だよ、とぼくは苦い顔で舌を打つ。
だいたいさ――いまにして思えば、むしょうに、腹が立つ。
うかつにも、イサムの陥穽にはまって、たかが、十円をネコババしたばかりに、こんなのっぴきならない事態に陥ってしまうなんて、と。
だとしたら、昼間、ぼくの運もまんざら捨てたもんじゃないな、と喜んでいたあれも、撤回しなきゃならないな、とも。
そんなふうに、自虐交じりのため息をつきながら、ぼくは、おずおずと歩を進める。
すると、そのとき――。
キラリ、と窓際で、何かが光った。
ヒ、ヒェッ!
すんでのところで、叫びそうになる。でもそれは、からくも、こらえた。
イサムに聞かれたら、「ふん、おまえの負けね」と鼻で笑われかねない。
いまは、勝負のさなか。そう簡単には、匙を投げるわけにはいかない。
それに、そういうことでは、こんごの小学生生活に禍根を残すことになる。それだけは、なにがなんでも避けなくてはならない。
うん⁈
それはそうと、ユウジはどうした?
ぼく以上に気の弱いユウジが、なぜかおとなしい。
ユウジを窺う。見ると、何事もなかったよな顔をして、そこに平然と突っ立っている。どうやら、ユウジは、いまの光に気づかなかったようだ。
やれやれ、とぼくは安堵の息をつく。
それより――ふと、ぼくは思う。
いまの光はなんだったんだろう、と。
それを調べるのが先決だ、とぼくは心の中でつぶやいて、こわごわながら、懐中電灯の灯りを、いま、光った箇所にあててみる。
なんだよもう、おどろかさないでよね――なんのことはない、よく見れば、ただの三角フラスコ。そこは、無機的なガラスの実験道具類が収まった戸棚だった。
やっぱり、あれだよ。そう、例の状況に距離を置いて柔軟に眺める――それが、大事みたい。
改めて、自分にそう言い聞かせて、ぼくは、ふたたび、おずおずと歩き出す。
つづく