第1話
文字数 2,283文字
司会、入ります!
理想の声が、女性の姿で立っている。……じゃなくて。
新宿の某ホテルの、ウェディングパーティーの真っ最中。
ホールスタッフのアルバイト・松乃美咲 は、さっきからドキドキと胸を高鳴らせていた。新郎新婦より緊張しているのは、初めて派遣されたホテルだから……じゃ、なくて。
「松乃さん。アミューズのお皿、早く下げて。次のお料理が待ってるわよ」
「あ、はい!」
ホールチーフに注意され、美咲はユニフォームであるロングスカートの裾 をひるがえし、担当テーブルへ足を急がせた。
でも、その間も美咲の意識は、女性司会者の声に吸い寄せられる。
『……ご祝辞、ありがとうございました。続いては乾杯のセレモニーです。新郎タカシさんの、テニスサークル同期の皆様に、お祝い酒のボトルをオープンしていただきます…──』
ゆったりとして、深みがあって、鼻骨にうまく響かせる発声が心地いい。
みごとな滑舌は音の輪郭が明確で聞き取りやすく、抑揚はクラシック音楽のよう。気づけば聞き入り、手が止まっている。
ゴホン! と背後からホールチーフに咳払いされ、美咲は追われるようにして自分の担当する円卓の皿を下げた。
私だって────と切ない嫉妬がちらつくたび、弱々しく首を横に振る。
いまはバイトに集中! と自分を励まし、美咲はゲストが食べ終えた皿をキッチンへ運び、次の料理をテーブルへ運んだ。
大きな皿の真ん中に、エレガントに盛りつけられているのは、春らしく桜の花が飾られた、サーモンのタルタルキャビア添え。
美味しいものや綺麗なものには目がない美咲だから、視覚と嗅覚を奪われてもおかしくないのに、今日は五感が聴覚一点に集中しているせいか、ご馳走を前にしても、ときめかない。それほど司会者の声に引き寄せられる。
見れば、モデルのように長身だ。ノーカラージャケットとレースのタイトスカートのバランスが絶妙。薄暗い照明の下でもわかる表情は、ウェディングパーティー開始から、ずっと微笑みを浮かべていて、すべてに余裕が感じられる。
襟足でひとつに結わえられた髪は、ひと筋の乱れもなくて、きりりと清潔。マイクに添える手の角度や、指の形にも品がある。
私だって────。再びこみあげる感情に、慌てて美咲は目を瞬 き、ともすれば涙で歪みそうになる視界に目をこらした。
『テニスのスマッシュさながらに、コルクの栓を勢いよく飛ばしていただきましょう。皆様、ご準備はよろしいですか? では、ボトルオープン……どうぞ!』
テニスサークルにうまく絡めた司会者のコメントを合図に、シャンパンの栓が飛び、宙に大きな孤を描く。
円卓に座っているゲストたちが歓声を上げ、拍手する。その間に美咲たちは、フルートグラスに「お祝い酒」を注いで回るのだ。
『ただいま皆様のお手元にご用意しておりますお祝い酒は、パチパチと弾ける音から、天使の拍手に例えられ……』
華やかで伸びやか。余韻は甘くて、ほんのりまろやか。一時間でも二時間でも聞いていたくなる声だ。
「……あの!」
傾けていたボトルを突然押し戻され、はい? と美咲は意識を戻し、あっ! と叫んだ。
なんと、目の前のフルートグラスから、シャンパンがしゅわしゅわと噴きこぼれている!
「申し訳ございませんっ!」
とっさに謝るが、泡立つ炭酸の勢いは止まらず、シーズンカラーの桜色のテーブルクロスに染みこんでゆく。眺めているゲストは困惑顔だ。
おろおろしていたら、ホールチーフがやってきた。目が完全に吊りあがっている。
「松乃さん。グラスを下げて、クロスを拭いて!」
早く! と叱られ、美咲は急いでグラスを取り替え、ナプキンでテーブルの水分を吸い取った。
ゲストたちの視線が集中する。司会者も、こちらを見ている。せっかくの乾杯のタイミングを乱してしまった。どうしよう……!
美咲はゲストに頭を下げながら桜色のクロスを重ねて敷き、カトラリーを整えた。その間に司会者は、乾杯の発声者を紹介し、前へ出るよう促している。
名を呼ばれた新婦の勤務先の上司がお祝いのスピーチを手短に済ませると、司会者が優しく誘導した。
『それでは皆様、ご起立ください。そして……』
美咲と司会者の目が合った。
大丈夫よ────と、言われた気がした。
円卓みっつぶんほど離れているのだから、声が聞こえるわけもないのに。
そして美咲からフ……と視線を外すと、司会者は明るい声で、こう言ったのだ。
『溢れんばかりの愛情に満ちたグラスを、お持ちください』
お手元のグラスをお持ちください────美咲は、そう習ったけれど。
気の利いた司会者の言葉に、さっきまで困惑顔だったゲストの顔に、笑みが生まれた。それどころか、「私のグラス、愛情に満たされましたね」とまで言って、気遣ってくれたのだ。
感極まって言葉にならず、美咲は深々と頭を下げた。そして、司会者にも感謝した。
美咲のミスを、さりげない言葉でプラスのイメージに変えてくれたプロの仕事に、「美」を感じた瞬間だった。
もう一度、挑戦したいと思った。
諦めるたびに憧れる、未練のループと化した夢を、もう一度見たいと思った。
そんな美咲の意思表明が吉と出たのか、凶と出たのか。
パーティーのお開き後、夢を叶えるより先に。
なんと、バイトをクビになってしまった。
第二話へ続く♪→→→
理想の声が、女性の姿で立っている。……じゃなくて。
新宿の某ホテルの、ウェディングパーティーの真っ最中。
ホールスタッフのアルバイト・
「松乃さん。アミューズのお皿、早く下げて。次のお料理が待ってるわよ」
「あ、はい!」
ホールチーフに注意され、美咲はユニフォームであるロングスカートの
でも、その間も美咲の意識は、女性司会者の声に吸い寄せられる。
『……ご祝辞、ありがとうございました。続いては乾杯のセレモニーです。新郎タカシさんの、テニスサークル同期の皆様に、お祝い酒のボトルをオープンしていただきます…──』
ゆったりとして、深みがあって、鼻骨にうまく響かせる発声が心地いい。
みごとな滑舌は音の輪郭が明確で聞き取りやすく、抑揚はクラシック音楽のよう。気づけば聞き入り、手が止まっている。
ゴホン! と背後からホールチーフに咳払いされ、美咲は追われるようにして自分の担当する円卓の皿を下げた。
私だって────と切ない嫉妬がちらつくたび、弱々しく首を横に振る。
いまはバイトに集中! と自分を励まし、美咲はゲストが食べ終えた皿をキッチンへ運び、次の料理をテーブルへ運んだ。
大きな皿の真ん中に、エレガントに盛りつけられているのは、春らしく桜の花が飾られた、サーモンのタルタルキャビア添え。
美味しいものや綺麗なものには目がない美咲だから、視覚と嗅覚を奪われてもおかしくないのに、今日は五感が聴覚一点に集中しているせいか、ご馳走を前にしても、ときめかない。それほど司会者の声に引き寄せられる。
見れば、モデルのように長身だ。ノーカラージャケットとレースのタイトスカートのバランスが絶妙。薄暗い照明の下でもわかる表情は、ウェディングパーティー開始から、ずっと微笑みを浮かべていて、すべてに余裕が感じられる。
襟足でひとつに結わえられた髪は、ひと筋の乱れもなくて、きりりと清潔。マイクに添える手の角度や、指の形にも品がある。
私だって────。再びこみあげる感情に、慌てて美咲は目を
『テニスのスマッシュさながらに、コルクの栓を勢いよく飛ばしていただきましょう。皆様、ご準備はよろしいですか? では、ボトルオープン……どうぞ!』
テニスサークルにうまく絡めた司会者のコメントを合図に、シャンパンの栓が飛び、宙に大きな孤を描く。
円卓に座っているゲストたちが歓声を上げ、拍手する。その間に美咲たちは、フルートグラスに「お祝い酒」を注いで回るのだ。
『ただいま皆様のお手元にご用意しておりますお祝い酒は、パチパチと弾ける音から、天使の拍手に例えられ……』
華やかで伸びやか。余韻は甘くて、ほんのりまろやか。一時間でも二時間でも聞いていたくなる声だ。
「……あの!」
傾けていたボトルを突然押し戻され、はい? と美咲は意識を戻し、あっ! と叫んだ。
なんと、目の前のフルートグラスから、シャンパンがしゅわしゅわと噴きこぼれている!
「申し訳ございませんっ!」
とっさに謝るが、泡立つ炭酸の勢いは止まらず、シーズンカラーの桜色のテーブルクロスに染みこんでゆく。眺めているゲストは困惑顔だ。
おろおろしていたら、ホールチーフがやってきた。目が完全に吊りあがっている。
「松乃さん。グラスを下げて、クロスを拭いて!」
早く! と叱られ、美咲は急いでグラスを取り替え、ナプキンでテーブルの水分を吸い取った。
ゲストたちの視線が集中する。司会者も、こちらを見ている。せっかくの乾杯のタイミングを乱してしまった。どうしよう……!
美咲はゲストに頭を下げながら桜色のクロスを重ねて敷き、カトラリーを整えた。その間に司会者は、乾杯の発声者を紹介し、前へ出るよう促している。
名を呼ばれた新婦の勤務先の上司がお祝いのスピーチを手短に済ませると、司会者が優しく誘導した。
『それでは皆様、ご起立ください。そして……』
美咲と司会者の目が合った。
大丈夫よ────と、言われた気がした。
円卓みっつぶんほど離れているのだから、声が聞こえるわけもないのに。
そして美咲からフ……と視線を外すと、司会者は明るい声で、こう言ったのだ。
『溢れんばかりの愛情に満ちたグラスを、お持ちください』
お手元のグラスをお持ちください────美咲は、そう習ったけれど。
気の利いた司会者の言葉に、さっきまで困惑顔だったゲストの顔に、笑みが生まれた。それどころか、「私のグラス、愛情に満たされましたね」とまで言って、気遣ってくれたのだ。
感極まって言葉にならず、美咲は深々と頭を下げた。そして、司会者にも感謝した。
美咲のミスを、さりげない言葉でプラスのイメージに変えてくれたプロの仕事に、「美」を感じた瞬間だった。
もう一度、挑戦したいと思った。
諦めるたびに憧れる、未練のループと化した夢を、もう一度見たいと思った。
そんな美咲の意思表明が吉と出たのか、凶と出たのか。
パーティーのお開き後、夢を叶えるより先に。
なんと、バイトをクビになってしまった。
第二話へ続く♪→→→