第15話

文字数 1,184文字

 ―ぱちん、ぱちん、ぱちん。
日曜日の夜に右手の爪を切った。
ぱちっ。
ふと、切った爪がどこかに飛んだ。
真下にティッシュを置いていたので、飛んで行った爪もそこにポトリと落ちた。
ぱちん、ぱちん、ぱちん。
残りの爪も問題なく切った。


 それから私は仕事を辞めた。
辞めたいと上司に申し立て、「代わりがいないんだよ」と嘆かれたが知ったこっちゃなかった。
こちとらずっと我慢していたんだ。
頑なに辞めさせてくれなかったけど、こちらも退職の意思を固めていることをはっきり伝えると、本社から代わりの者が来た。代わりいるじゃん。


 もう仕事に行かなくてもいい。
朝早くに鳴り響くアラームも止めなくていいし、暗い浴室で熱いシャワーを浴びて体を飛び起こさせなくてもよくなった。
朝日の淡い光どころか、お昼近くに起きても誰にも文句を言われない。
買い物に行こうと思い、ゆったり支度をして最寄り駅まで歩いた。
満員電車に乗られて体を押しつぶされなくなった。
朝、灰色でくすんだ空気の中では皆、大抵俯いて苦しそうに歩いているが、お昼にもなると穏やかな顔の人たちばかりが道を歩く。
背を伸ばし、視線を上げると、木々の鮮やかな緑がぱっときらめいていた。
電車に乗る人はいるものの、椅子に座れたので本も読めた。
乗りたいタイミングで乗車ができる。スペースを無理やり確保して乗り込むこともない。
換気もしっかりされているのか、息苦しさは感じられなかった。

 平日の昼の電車には色々な人間が存在した。
イヤフォンを繋いで動画を見ている、髪がピンクの女の子。
少し前に流行った自己啓発本を熱心に読み込む大学生らしき青年。
キャリアウーマンの格好をしたお姉さん。営業中か。
そして、私は家から持ってきた本を見てゆったりと電車に揺られていた。


 27年間の人生を、特に定職に就くわけでもなく、ふらふらと生きていた。
会社のために朝早く起きることも、満員電車に乗ることも大嫌いだし相変わらず苦手だ。


 理解されなくてつらいこともあるだろう。
周りとの思考の違いにギャップを感じ、焦燥感に駆られることもあるだろう。
でも、生きていれば何とかなるかもしれない。
私の人生なのだから、私の好きにしてもいいのだ。
こんな簡単なことに気づくのに27年もかかってしまった。


 飽き性の私も、私なんだ。仕事が続かないのであれば短期で探したり、週1でも可能な仕事にすればいい。
朝が苦手なのであれば、お昼から勤務可能な仕事でもいい。
人がたくさんいるのが苦手なら、在宅という仕事も考える。
知識がないゆえに、色々な選択肢が存在すること知らなかった。今更ながら痛感した。

 自分を認め、短い人生を好きなことをして生きる。
こんな簡単なことを、なぜ我慢して生きていたのだろうか。
自分自身じゃできないことは、他人を遠慮なく頼っていいのだ。
 

 私を大切に。私を労わっていく。これが私の道なのだから。


おしまい

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