第5話 クリア
文字数 2,097文字
彼女の声を聞くのはこれが初めてだったので、しばし余韻に浸るような感覚になっていたが、今なおガサツな声は止まず、気分がそがれる。気が付けば発車メロディーは止み、車掌さんが慎重に扉を閉める段になっていた。多少の駆け込み客もあって、十号車は程々の入りになっている。そして今、優先席には数人の年配客。車掌さんは視野を確保しつつ、今度は早々にアナウンスを入れた。
「お客様にお願いです。思わぬトラブルのもとになりますので、優先席付近での携帯電話のご使用はおやめください。特に通話はもってのほかでございます。」
他の車両の様子は不明だが、少なくとも十号車ではざわめきのようなものが起き、乗客の目線はその通話人に注がれ始めた。それでもなお輩は話し止めない。むしろ聞こえよがしに大声で笑いたてるなど、一層悪質になっている。
男性客は他にもいたが、何らかの動きを起こしたのは三雄以外にはいなかった。と、彼を抜き去るように足早に歩を進める女性がいた。車掌さんである。
「あのぉ、他のお客様のご迷惑にもなりますので、ご遠慮いただけませんか?」
「あん?」
両者しばし睨み合いのような構図となり、俄かに緊張が走る。三雄はいつしか車掌さんの隣に来ていた。
「ですから・・・」
「るっせぇ!」
ケータイを持ったまま、その腕を高々と上げる。
「キャー!」
車内暴力沙汰に発展しそうだったので、とりあえず制止。三雄はそいつの腕首をつかんで軽口をかけてみた。
「兄さん、これじゃ暴行未遂だぜ」
「ケータイの何が悪ぃんだよ、え?」
「電車ってのは閉鎖空間だろ? 通話だとただでさえ電波が必要な上に、閉ざされた空間だと余計に強調される。特に通話してる本人の頭を直撃するって話さ。何かあんましいい気しないんじゃね?」
本当かどうかはよくわからないが、説得力があったようで、輩は黙ってうなだれてしまった。通話の相手は自分から切ったようで、今は音なし。助ける用意をしていた衆人が何人かいたのは幸いだったが、出番がなかったからか、あっさり退散。車内には静けさが戻った。
女性車掌さんは途中から配置に戻るも、無線連絡を入れていた分、アナウンスが遅れ、さらには開扉するのにも時間を要した。
「どうも失礼しました。水道橋、水道橋です。あ、開けなきゃ・・・」
小声ではあったが、マイクを握ったままだったので入ってしまった。ちょっとしたハプニングネタに乗客は一様に薄笑いを浮かべる。十号車に限って言えばブーイングはなかった。
扉が開くのが遅れたのが幸いし、待機していた駅員、警備員にしっかり認識された上でその身柄は委ねられた。三雄は期せずしてアクシデントの当事者になってしまったので、そのまま立ち会うことになる。
「危なかったですが、被害はありません。強いて言えば迷惑防止条例違反?」
「え? マジ?」
すっかり観念したらしく時に頭を掻きながら聴取に応じている。被害者になりかけた張本人も立ち会った方がいいのだが、車掌が離れてしまってはいけない。こういう場合、どうなるのだろう。
「車内トラブルがありましたが、間もなく発車致します。そのままでお待ちください。」
とアナウンスを入れてから、男衆のところにやってきた。
「どうもお呼びたてしてスミマセン。この通り無事ですので・・・あぁ、先ほどは。」
三雄に目を向け再び礼。対する三雄は名札を一瞥。ちょっと珍しい名前だ。
「佐・・・」
「サカタ・アキと言います。どうもありがとうございました。」
「いえ、こちらこそお招きくださって」
「あぁ、そうでした、ネ」
被害届を出すレベルではなかったことと、男の降りる駅がもともと水道橋だったことでそれほど大騒ぎにはなっていない。だが、各駅停車はまだ停車したまま。この際だ、訊ねてみようと三雄は意を決する。
「ところで佐方さん、どうしてあの時、こっちを見て目配せを?」
「イイ男いないかなぁっていつもチェックしてるんです。なんちゃって。」
突飛な質問だったが、返答はもっと突飛だった。だが、こういうタチでなければあんな車中劇は演じられまい。この女性、とにかく度胸があることだけは確かだ。
「で、ご連絡先ですが、あとで駅事務所通してでもいいんですが、その・・・よければ名刺か何か」
いつもと出で立ちは異なるが持つべきものは持っている。三雄は恭しく真新しい一枚を取り出した。
「申し遅れました。並岡三雄です。じゃ、あとは僕が。」
「はい、では」
今度は敬礼しながら最後尾へ。発車メロディーのボタンを押すや否や乗務員室にすかさず戻る。電車は急ぎ足で発った。彼女の笑顔も瞬間しか拝むことはできなかった。
そのまま乗って行く時間的余裕はあった訳だが、事情が事情だから仕方がない。今は一人、ホームに佇む三雄。とんでもない目にはあったが、そのおかげで隔てていたものがクリアされ、思いがけず接点もできた。
「それにしてもよく止められたなぁ」
腕っ節に自信がある方ではなかったが、どうやらパーティションを扱っているうちに腕力がついていたようだ。何が幸いするかはわからないものである。
「お客様にお願いです。思わぬトラブルのもとになりますので、優先席付近での携帯電話のご使用はおやめください。特に通話はもってのほかでございます。」
他の車両の様子は不明だが、少なくとも十号車ではざわめきのようなものが起き、乗客の目線はその通話人に注がれ始めた。それでもなお輩は話し止めない。むしろ聞こえよがしに大声で笑いたてるなど、一層悪質になっている。
男性客は他にもいたが、何らかの動きを起こしたのは三雄以外にはいなかった。と、彼を抜き去るように足早に歩を進める女性がいた。車掌さんである。
「あのぉ、他のお客様のご迷惑にもなりますので、ご遠慮いただけませんか?」
「あん?」
両者しばし睨み合いのような構図となり、俄かに緊張が走る。三雄はいつしか車掌さんの隣に来ていた。
「ですから・・・」
「るっせぇ!」
ケータイを持ったまま、その腕を高々と上げる。
「キャー!」
車内暴力沙汰に発展しそうだったので、とりあえず制止。三雄はそいつの腕首をつかんで軽口をかけてみた。
「兄さん、これじゃ暴行未遂だぜ」
「ケータイの何が悪ぃんだよ、え?」
「電車ってのは閉鎖空間だろ? 通話だとただでさえ電波が必要な上に、閉ざされた空間だと余計に強調される。特に通話してる本人の頭を直撃するって話さ。何かあんましいい気しないんじゃね?」
本当かどうかはよくわからないが、説得力があったようで、輩は黙ってうなだれてしまった。通話の相手は自分から切ったようで、今は音なし。助ける用意をしていた衆人が何人かいたのは幸いだったが、出番がなかったからか、あっさり退散。車内には静けさが戻った。
女性車掌さんは途中から配置に戻るも、無線連絡を入れていた分、アナウンスが遅れ、さらには開扉するのにも時間を要した。
「どうも失礼しました。水道橋、水道橋です。あ、開けなきゃ・・・」
小声ではあったが、マイクを握ったままだったので入ってしまった。ちょっとしたハプニングネタに乗客は一様に薄笑いを浮かべる。十号車に限って言えばブーイングはなかった。
扉が開くのが遅れたのが幸いし、待機していた駅員、警備員にしっかり認識された上でその身柄は委ねられた。三雄は期せずしてアクシデントの当事者になってしまったので、そのまま立ち会うことになる。
「危なかったですが、被害はありません。強いて言えば迷惑防止条例違反?」
「え? マジ?」
すっかり観念したらしく時に頭を掻きながら聴取に応じている。被害者になりかけた張本人も立ち会った方がいいのだが、車掌が離れてしまってはいけない。こういう場合、どうなるのだろう。
「車内トラブルがありましたが、間もなく発車致します。そのままでお待ちください。」
とアナウンスを入れてから、男衆のところにやってきた。
「どうもお呼びたてしてスミマセン。この通り無事ですので・・・あぁ、先ほどは。」
三雄に目を向け再び礼。対する三雄は名札を一瞥。ちょっと珍しい名前だ。
「佐・・・」
「サカタ・アキと言います。どうもありがとうございました。」
「いえ、こちらこそお招きくださって」
「あぁ、そうでした、ネ」
被害届を出すレベルではなかったことと、男の降りる駅がもともと水道橋だったことでそれほど大騒ぎにはなっていない。だが、各駅停車はまだ停車したまま。この際だ、訊ねてみようと三雄は意を決する。
「ところで佐方さん、どうしてあの時、こっちを見て目配せを?」
「イイ男いないかなぁっていつもチェックしてるんです。なんちゃって。」
突飛な質問だったが、返答はもっと突飛だった。だが、こういうタチでなければあんな車中劇は演じられまい。この女性、とにかく度胸があることだけは確かだ。
「で、ご連絡先ですが、あとで駅事務所通してでもいいんですが、その・・・よければ名刺か何か」
いつもと出で立ちは異なるが持つべきものは持っている。三雄は恭しく真新しい一枚を取り出した。
「申し遅れました。並岡三雄です。じゃ、あとは僕が。」
「はい、では」
今度は敬礼しながら最後尾へ。発車メロディーのボタンを押すや否や乗務員室にすかさず戻る。電車は急ぎ足で発った。彼女の笑顔も瞬間しか拝むことはできなかった。
そのまま乗って行く時間的余裕はあった訳だが、事情が事情だから仕方がない。今は一人、ホームに佇む三雄。とんでもない目にはあったが、そのおかげで隔てていたものがクリアされ、思いがけず接点もできた。
「それにしてもよく止められたなぁ」
腕っ節に自信がある方ではなかったが、どうやらパーティションを扱っているうちに腕力がついていたようだ。何が幸いするかはわからないものである。