月イチ隣人

文字数 4,984文字

「マジで最悪だよ。だって朝の5時だよ? 毎朝、爆音のデスボイスでたたき起こされるんだから。あれが目覚ましとかありえない。壁薄すぎ」
 付きあってもうすぐ1年のカナちゃんは、最近引っ越してきた隣人のモーニングルーティンにご立腹だった。思いだしてまた怒りがこみ上げてきたのか、カフェオレの氷をがしがしとストローでつつく。約1年を共に過ごしても、そんな姿さえかわいいと思えるのだから相性がいいのだ、とぼくは一人にやついた。
「ちょっとなに笑ってんの?」
「ごめんごめん」
「マジで引っ越したい。でもお金ないしなあ」
 カナちゃんが唇をとがらせてぼやく。これはフラグだ。ぼくは前々から温めていた計画を提案した。
「じゃあさ、もうすぐ付きあって1年だし……一緒に暮らさない?」
 感激してくれるかと思いきや、カナちゃんは店員を呼んでロールケーキを追加注文した。聞こえなかったのか、と不安になっていると、カナちゃんは真っ直ぐにぼくを見つめてくる。
「部屋の間取りってどうだったっけ」
「1LDKだけど、広めだから窮屈じゃないと思うよ」
「お隣さんってどんな人? 前に泊まったときは気にならなかったけど」
 ううむ、とアパートの情景を呼びおこす。が、下の階のサラリーマンや、上の階のおばさんの顔は浮かんでも、ついぞ隣人の輪郭は形を成さない。角部屋なので、隣はただ1室のみ。そこさえクリアできればカナちゃんと同棲できる、という下心が慎重さを上回って「全然問題ないよ」と軽く答えていた。
「本当に? 毎朝デスボイスじゃない?」
「それだけはないよ」
「なに、それだけはって?」
「いやいやまあまあ。とにかく、なにかあっても2人でいたほうが安心じゃない?」
 その一言にカナちゃんの心が確かに動いたのがわかった。ロールケーキをハムスターのように頬張りながら、
「前向きに検討する」
 と言われたときは、テーブルの下で小さくガッツポーズを取っていた。

 同棲という輝かしい2文字が脳内を占拠した帰り道、月がとてもきれいなことに気づいた。明日はバイトが早番だと帰ってしまったカナちゃんに『月がきれいだね』とメッセージを送りたくなってしまうくらい、大きく真ん丸な月が夜空に浮かんでいた。
 これは完全にぼくたちの前途を祝してくれている。舞いあがったぼくは、スマホを満月に向けて写真を撮った。部屋に着いたら送ってやろう。
 と、目指すべきアパートに目をやると、ぼくの部屋の隣のドアが開いた。思わずその場で固まった。開かずの扉レベルに動きがなかったのに、ついに隣人の顔を拝むことができようとは。このタイミング。やはりぼくたちの前途を、
「あ、こんばんは」
 敷地内で立ちつくしていたぼくと視線を合わせて、隣人は挨拶をしてきた。構えるでもなく、砕けすぎるでもない、さわやかな挨拶だった。
 だが、ぼくはとっさに返事ができなかった。隣人があまりに整った顔立ちをしていたからだ。下手なモデルやアイドルなんぞ足元にも及ばないほどの美形。おまけにスタイルもいい。白シャツにジーンズというシンプルな装いでも様になってしまう長身。
 ぼくはまるで観客席からステージを見上げるファンよろしく、ただただ隣人のオーラに圧倒された。隣人は軽やかに階段を下りてきて、あろうことかぼくの目の前に舞いおりる。
「お隣さんですよね、はじめまして」
 その微笑みはキラキラと光を放ち、同棲という2文字を影へと追いやる。おまけにネガティブな未来まで連れてくる。カナちゃんと暮らしはじめて数週間、ゴミ出しで彼女はこの隣人と出会ってしまう。あまりのイケメンぶりにカナちゃんは動揺し、胸をときめかせ、部屋に戻って現実の冴えない彼氏に落胆してしまうのだ。
「普段はあまり部屋にいらっしゃらないんですか!?」
 初対面の隣人に、不躾だとわかっていながら問わずにはいられなかった。日頃そうそう家にいない生活をしているのであれば、カナちゃんと遭遇する確率も低くなろう。引いてはぼくが幻滅されてしまう確率もぐっと下がるはずだ。
「ほとんど部屋にはいないです」
 本日2度目のガッツポーズを小さく取った。気分がよくなって「お仕事ですか?」と、つい踏みこんでしまう。
「満月の日以外は働いてます」
「えっ……満月の日だけがお休みということですか?」
 隣人はうなずいた。それは月1回くらいしか休日がないということではないか。完全にブラック企業ではないか。
 ぼくの苦い表情に気がついたのか、隣人はあわてて「違いますよ」と手を振る。
「自分の希望です。とにかく働いてお金を稼がないと実家に帰れないんです」
「ははあ。そんなに遠いんですか?」
「月です」
 隣人は満月を指さした。ぼくの目はそれと同じくらい真ん丸になっていたに違いない。ただのイケメンが急に不思議ちゃんへと変貌した。冗談とは思えぬ真面目な口調と顔つきなので、幾分冷静になれた。当たりさわりのない相づちを打っておく。
「へええ。そりゃあ遠いですね」
「はい。おまけに満月の日じゃないと帰れませんからね」
「ほおお。かぐや姫みたいですね」
「ですが、迷っています。月に帰れば、もうなかなか地球に来ることはできないんです」
 ぼくの中のぼくがジャンプして小躍りを始めた。
「迷う必要なんてありませんよ。故郷が一番!」
「地球の人はとても親切ですし、楽しいこともたくさんあるので」
「いやいや。月のほうがいいですって。すごいきれいじゃないですか」
「地球も美しいですよ」
「地球なんてだめですよ! 温暖化だし人と人は争うし変な虫もいっぱい出るし!」
 己の私利私欲のために、己の住む星を貶めるとはバチが当たりそうだ。しかも最後の欠点はぼくのアパートにかぎる問題だ。これを言ったらカナちゃんは絶対に引っ越してはくれないので秘密である。
 それでも隣人はためらい、その迷いが夜空に投影されたかのように、満月には薄い雲がかかってしまう。イケメンが「ああ」と甘い吐息を漏らす。
「まただ。迷っているあいだに、いつも雲がかかって月に帰れなくなってしまうんです」
 なんと! 曇天だと帰省中止になるのか! 小学校の運動会のほうがまだ天気に寛容である。
「来月に持ちこします。今夜はお会いできてよかった。久しぶりの休日を謳歌します」
 隣人は会釈をして、夜の街へと消えていった。その行動だけ切りとれば、ただの健全な若者である。
 しかし困る。ちゃんと月へ帰ってくれねば、カナちゃんをここに呼ぶことはできない。ぼくは欲望だけに従順になり、なんとか隣人を月へ帰さねばと使命感に燃えた。

 個人的な使命感からいろいろと調べた結果、月からの地球滞在者は案外多いことがわかった。就労ビザだの入管だの煩雑な手間などは現在設けられておらず、またどういう基準にすればいいのか物議をかもすこともあり、暗黙の了解で地球に溶けこんでいるケースがほとんどのようだ。
 他星の侵略と声を荒げる人もいるが、月は友好的であるといったなんの根拠もない議論が交わされていたりもする。まだまだ世論へ投げるには未知数すぎる問題は、メディアに乗っかる場面はなく、ぼくのようになにも知らない人間のほうが多い。
 カナちゃんにその話題を振ってみても「なにそれ、ハリウッド?」と返されただけだったので、ひとまず胸をなでおろした。
「それよりさ、引っ越しの件。マジで考えてるんだけど」
「うんうん、ぜひぜひ」
「善は急げだし、今月中にと思ってるんだけど」
 せっかくのカナちゃんの乗り気に水を差すのは忍びない。だが、ぼくは涙をのんで「それはまだ早いよ」と却下した。「なんで?」と不機嫌そうに追及されたが「なんでも」「日が悪い」「無理だよ」と語気を荒げて、最終的には「来るな!」とまで突きはなしてしまった。自分から誘っておいてこれはない。けれど、詳しい事情は話せない。
 カナちゃんはおかんむりになって、爆音デスボイスが隣に潜む自宅へと帰ってしまった。最近、全然お泊まりができていない。だが、同棲すればこんな問題も一瞬で解消する。
 ぼくは次の満月の日までに片をつけようと決意した。

 真っ黒な夜空に満月がぽっかりと浮かぶ。その存在感は圧倒的で、おそらく周辺では星が瞬いているのだろうが、月の光にかき消されてしまうほどである。ながめていると、うっかり吸いこまれそうになる。月の引力は本当にあるらしい。
 ぼくは巨大なリュックをかついで、隣人のチャイムを鳴らした。気の抜けたメロディが響き、満月のように美しい隣人の顔が現れる。
「ちょっとお時間よろしいですか」
 有無を言わさず、ぼくは部屋に上がりこんだ。隣人は驚きはしたものの、特に抵抗もなく招きいれ、お茶まで出してくれる。月が友好的であるというのは真実なのかもしれない。
 華美な顔立ちにそぐわない、質素で飾り気のない部屋だった。卓袱台をはさんで、ぼくたちは対峙する。そうしてぼくは演説を始めた。
「月に帰りましょう!」
「ですが、地球はとてもいい星です」
「このまえも言いましたが、地球はさほどいい星ではありません。月からの移住者にだって、これから容赦なく労働力としてこき使うでしょう」
「ですが、働くというのは美しい行為です」
「なにを浮世離れしたことを! 労働とは害悪です!」
 なにを隠そう、ぼくはつい先日までニートだった。バイトをしては辞め、バイトをしては辞めを繰りかえし、天職は無職とまで錯覚するようになった。カナちゃんには適当な嘘でごまかしている。
 だがしかし、来る同棲に向けて、カナちゃんとの将来に向けて、つまりはまず目の前の隣人を月へ帰すために、ぼくは一念発起してある職を得た。毎日辞めたくて仕方がないが、人は明確な目標があるとなけなしの根性を発揮するらしい。なんやかんやで勤続1カ月を迎えようとしている。
「ですが、今日も雲がかかりそうです」
「心配にはおよびません」
 ベランダの向こう側、満月には薄い雲が覆いかぶさろうとしていた。だが、ぼくは持参したリュックから黒光りするバキュームを取りだした。さすがに隣人が怯えたように退く。
「ぼくは清掃請負会社に勤務しています。これは職場から拝借した、雲をも吸いこむウェザーサポートです」
 無断での拝借だがやむを得ない。これで満月を邪魔するものは吸いとってくれよう。隣人はどこまでも友好的なのか、ぼくの異様なお節介を純粋な親切と捉えてくれたようだ。ここは畳みかけねばなるまい。
「月にはあなたを待ってくれる人がいるんでしょう? 家に帰って『おかえり』と迎えてくれる人がいる。それはすばらしいことです! 感謝しなくてはなりません!」
 鼻息荒い熱弁は完全に自分の願望そのものだったが、見事に隣人の胸を打ったらしい。郷愁に駆られたのか目を潤ませ「そのとおりです」と、胸ポケットから竹筒を取りだした。地球へのパスポートだ。チャージは日々の労働で十分にたまったらしい。
「帰ります。サポートをお願いいたします」
 その言葉を合図に、バキュームのスイッチをオンにする。すると凄まじい吸引力で、遥か彼方の雲をみるみるうちに吸いこんでいく。ゴジラにデコピンされたかのような反動に吹きとばされたが、隣人が後ろで力強く支えてくれた。
 雲一つない満月へ向けて、隣人は凛とした佇まいで竹筒をかざした。するとそれは光り輝き、隣人は晒されるように本当の姿を現していく。
「地球用のフォルムにしていましたが、これが本当の姿です」
 隣人はつるんとした、凹凸も表情もない、伸びた白餅のような姿となった。これならカナちゃんの浮気を心配する必要などなかったのでは……という思いが頭をかすめるが振り払う。不安の芽はすべて摘み取るべし!
「ありがとうございます。さようなら」
 竹筒が放つ強い閃光に包まれて、ぼくが目を閉じた隙に隣人は月へと帰還した。なにもない部屋だけが残る。こちらを疑う素振りなど微塵も見せなかった、紳士淑女的な隣人。
 卓袱台のつるんとした表面をそっとなでた。ほんの少し、鼻の奥がつんとした。

 後日談だが、月からの地球滞在者は、いずれ地球人が月へ移住するための架け橋だとして受けいれていく方針となった。そして、ぼくは清掃業者を地道に続けている。ちなみに職は得たが、帰りを待つ人は失った。
 カナちゃんは爆音デスボイスと付きあうことにしたらしい。
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