Dr.ニコルの検死FILE

エピソードの総文字数=3,323文字

 急ぎ足で駆けてきたため、デイヴィッド警部の呼吸は乱れに乱れていた。
「と、到着ぅ……」
 おかげで、目的地の聖ニコラオス孤児院を前にしても、息も絶え絶えに、そうぽつり呟くのが精いっぱいだった。
 そしてその横には、そんな呟きに対して無言のまま、返事をしようともしないニコルの姿があった。
 ただ、それは意地悪で返事をしなかったわけではなかった。返事をしようにもできなかっただけだった。
 なぜならそれはデイヴィッド警部同様、しきりに喉をぜいぜいと鳴らしていたから。これでは如何なる者でも答えようがない。
 もっとも、ニコルの息が乱れているのは、走ってきたせいもあるが、途中まで襟首を引っ張られていたせいというのが、どっちかというと主たる原因でもあった。
 だからニコルは返事の代わりに、これでもかと強い眼差しで訴えた。
「うん?」
 と、なにかを気にして、デイヴィッド警部が首を傾げる。
 だが、彼が気にしたのは、当然ニコルの視線などではなかった。そもそも、そんなものを気にするデイヴィッド警部ではない。
「なんか様子がおかしくないか?」
 睨みつけるニコルなどお構いなしに、デイヴィッド警部がその疑問を口にした。
 もはや怒りすら通り越して、ニコルはただただ呆れるばかりだった。
 しかし言われてみれば、たしかにどこか様子がおかしい。
「なんなんでしょうか。この静けさは……」
 そう。いつもなら子どものはしゃぎ声が通りにも響いているぐらいなのだが、今日に限っていやにシーンと静まり返っているのだ。
 ニコルも同じく首を傾げた。
 すると、これ以上考えても無駄と思ってか、
「ま、呼んでみりゃ誰か出てくるって」
 大きな門の前にデイヴィッド警部が一歩進み出て、ガンガンと門柱を叩いてみせた。
「おーい! 誰かいないかぁ!」
 だが、しばらく待ってみても、なんの反応も返ってはこなかった。
 焦れたデイヴィッド警部が再び声を上げる。
「おーい、マリアさーん! シスター・マギー! いたら出てきてくれないかぁ!」
 されど、待てども待てども、やはりなんら返答はなし。聖ニコラオス孤児院は静まり返ったまま、である。
 と、こうまで反応がないことに、はたと杞憂を覚えたのだろう。みるみる顔色を変えるデイヴィッド警部。
「ま、まさかっ!」
 言うが早いか、強い眼差しをニコルの方へギッと向けてきたではないか。
 だが、一方ニコルは涼しい顔のまま。一応はその眼差しが訴えんとしているところを読み取ったものの、
「いやいやいや、考えすぎでしょう……」
 その杞憂は飛躍しすぎとばかりに、軽くたしなめる程度で留めておいた。
 しかし、そのぐらいで言うことを聞くデイヴィッド警部ではなかった。だいたいそれぐらいで済んでいたら、スティーヴ警視との軋轢だって、ないはずなのだから。
 ゆえに次の瞬間には、苦笑いのニコルなぞ気にも留めず、先ほどより五割り増しの大声で、叫び出していた。
「誰か、誰かいないのかぁっ!! マリアさーん! いたら返事してくれぇっ!!」
 同時に、ガンガンガンと門柱を連打。あたかも借金取りの怒号に等しいほどだった。 
 すると、その叫び声が届いたのか、はたまたけたたましいほどの乱打に嫌気が差したのか、ようやく孤児院の重そうな扉が開かれた。
 ギィィィィ。
 で、中から顔をのぞかせたのは、白髪の混じった髪を丁寧に整えた厳格そうな初老のシスター。そして、その口から吐き出された言葉も、
「なんの御用でしょう」
 その厳めしい顔と同じく、なんとも威圧の篭もった静かなものだった。
 これにはさすがのデイヴィッド警部も気圧されることしきりだったようで、
「い、いや……、ちょいと野暮用で」
 若干怯み気味の物言い。
 すると今度はその言葉尻を捉えた、
「野暮な御用など、我が教区には必要御座いません!」
 ピシャリと二の句も告げない言い方をされたものだから、さしものデイヴィッド警部もこれ以上ないほどタジタジとなってしまった。
 だからこそ助けを求めようと、しきりにあたりをキョロキョロと見回したのだ。
 なのに助けを求めようにも、肝心のニコルの姿が──、
 いや、いた!
 あろうことかデイヴィッド警部の大きな背に隠れるように身を小さくして、コソコソしている始末だったのだ。
 で、このあまりの情けない絵面に、デイヴィッド警部はムカつくやら、呆れるやら。一先ず情けないついでに、ニコルの首根っこをつかんで、
「お前さん、そんなところで、またなにやってんだ」
 皮肉の笑顔でチクリとやりながら、ひょいとつまみ出しておいた。
 すると、その様子を脇から見ていた初老のシスターが今度はわずかに口の端に笑みを含んで、先ほどまでよりは若干穏やかな口調で話しかけてきたではないか。
「あら、ニコル。ひさしぶりですね」
 このいきなりなご挨拶には、ニコルも慌てて応じる他はなかった。だからこそ若干言葉に詰まりつつ、
「こ、これはミネルバ修女長。相変わらずお元気そうで。こんな時間におられるなんてめずらしいですね」
 顔には引きつり笑いまで張り付いた状態となったのだ。
 しかし、ミネルバ修女長と呼ばれたシスターはそんなことなど露とも気にしない。
 いや、そればかりか、
「ええ、今日は牧師様のお説教のある日なのでね」
 そう、さらりと一言だけ返すや、今度はついっとデイヴィッド警部の方へと視線を戻し、
「で、こちらの方は?」
「あ、はい。こちらはスコットランドヤードのデイヴィッド・ターナー警部といいまして──」
 と、そこでニコルの説明を遮って、
「まあ、あなたがあのデイヴィッド警部ですか。私はここの修女長を務めている、ミネルバ・ファーガソンと申します。いつもいつもマリアとマギーがお世話になっているようで……」
 丁寧な挨拶と同時に、深々と礼にかなったお辞儀までしてみせた。
 まさに溜め息が出るほどの、かくも見事に洗練された一連の流れの出来事だった。
 だが、穏やかな空気が流れたのはそこまで。なんせ次の瞬間には、再びピンと張り詰めた空気を身に纏い、鋭い視線をデイヴィッド警部にギッと向けていたのだから。
「ですが、これ以上あの子たちを物騒な事に引きずり込まないでいただけますか?」
 この刺すような眼に、思わず後ずさざるを得なかったデイヴィッド警部。
 しかしここで怯んでは負けと判断してか、気を引き締め直し、必死に強い視線で睨み返した。
「なにをおっしゃいますか! 俺はシスターたちを危険に巻き込んだりはしてやしませんぜ!」
「あら、そうでしょうか? 聞くところによると、マリアとマギーには、あれこれと情報を集めるように言ったとか。それは巻き込んだことになるんじゃなくって?」
「っうぐ! あ、あれは彼女たちの自発的な協力であって、俺が命令した訳では……。それに、情報収集ぐらいでそこまで危険とは……」
「本当に危険がないと言い切れますか? 聞くところによると、昨晩も例の事件が起きたというではないですか」
「そ、そう! そうなんだ! 今日はその注意を促しにきたんだ。なっ、ニコル? なっ?」
 脇にいたニコルに、デイヴィッド警部は激しく同意を求めた。
 ニコルも反射的にコクコクとうなずいてみせた。
 だが、そんなことなど意にも介さず、ミネルバが追い討ちをかけるかける。
「でしたら、今日はその注意だけでよろしいのでは?」
 ここまで揚げ足を取られれば、さすがのデイヴィッド警部もおよび腰にならざるを得ない。
「も、もちろんだ。だったら、マリアさんかマギーを呼んで──」
「私が承りましょう!」
 なのにまだこれでもかと、デイヴィッド警部の言葉をバッサリと切り捨てるミネルバ。
「い、いや、できれば直接……」
 それでもなんとか二人を呼び出そうと、必死のデイヴィッド警部。
「私では不服でしょうか?」
「そ、そういう訳では……」
「でしたら、なんの問題もありませんわね?」
「も、問題はないのだが……」
「なら、さっさとお言いなさいな!」

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