十八~二十

文字数 16,762文字

 十八
 15時03分
 東京都港区汐留
 テレビ東邦は放送が途絶し、ネットも完全につながらなくなった。電話の加入回線も通じない。松木は晋治のことが心配でならなかった。昼過ぎまで保育園に行っているはずで、一時過ぎに保育園に電話をかけてみたのだが、ずっと話し中だった。保母の携帯にもかけたのだが、そっちは通信制限を受けて通じなかった。加入回線経由で自宅の電話にはつながった。義父は孫を迎えにいくと言っていたが、松木は猛反対した。保育園にいるのなら、むしろそこでじっとしていてもらうのがいい。へたに霧のなかに連れだしたりしたらたいへんなことになる。松木は息子のことを心から締めだし、目下のこと、つまりいま自分たちがいる場所の安全をどう確保するか考えることに集中した。
 上層部による対策本部が設けられ、米倉報道局長の進言もあって社長が英断をくだした。全館のシャッターを下ろしたのだ。それが下りるようすが報道局のテレビモニターにも映しだされた。巨大な化け物につぎつぎに変貌していく男女、彼らに襲われて内臓に食らいつかれる者たち。そして難を逃れようとわらをもすがる思いでテレビ局の社屋に駆けこもうとする人々。しかし人道主義の観点はこの際、目をつぶらざるをえなかった。たとえエゴと言われようと、あの霧を浴びた者たちをなかに招じ入れることには正直、松木も反対だった。すくなくとも“発症”を抑制する手段なく、化け物たちを制圧する手段もない現状では。
 二階の報道局フロアには、四十人ほどが残っていた。奈央もまだいる。逃げるに逃げられないのだ。米倉局長が指揮をとっているが、じっさいには籠城をつづける以外にできることはなかった。前田CPはいつの間にかどこかに消えていた。おそらく社長室で最後まで社長に尽くしているのだろう。
 きのうリポートでいっしょだったディレクターの大石が、窓の外にカメラを向けていた。濃い霧のせいでなにも見えないが、小さなモニター画面は緑色に切り替わり、無数の赤い点が光っていた。「サーモグラフィーモードで撮ってるんだ。赤い点が人間……てゆうか化け物たちと彼らに襲われている者たちだ。でかいほうが襲撃者だな」化け物はみな体長二メートル以上ある。そっちの数にだれもが言葉を失った。もうほとんどの者たちが変身している。
 「このあたりにいるのはなんですかね」タニちゃんが画面を指さした。大石が向けるカメラの方角から考えて、向かいのシティホテルの壁のあたりだった。
 「壁を登ってるんだよ。なんてやつらだ」大石が苦りきる。
 そのとおりだった。無数の化け物たちがホテルやほかのオフィスビルの壁を難なく登りだしていた。そして窓をのぞいては獲物を探しているのだ。
 「いったいどうなっちゃうんだろう……」タニちゃんが両腕で自分の体を抱えた。
 「機動隊と自衛隊が出動することになっている」米倉がそばに来て言った。「ゴジラじゃないんだ。火を噴くわけでもなさそうじゃないか。腕力が勝ってるだけなら銃を使えばなんとかなるはずだ」
 「だけど」米倉のうしろでアナウンス部長の森嶋優子が声をあげた。「数が多すぎるわ。つぎからつぎへと変身するんだし。あの霧をなんとかしないかぎりどうしようもないじゃない」ハンカチを髪にあてながらまくしたてた。森嶋は局長とは同期だ。だからなんでもずけずけとものが言えるし、森嶋自身、報道局の女帝のようなものだった。男も女も関係なく、ディレクターやアナウンサーたちを締めあげ、自分の思いどおりに物事を進めようとした。それに社長の愛人だなんてうわさまであるほどだった。「ねえ、どうなのかしら」矛先は気象予報士である松木に向けられた。
 松木は周囲の目が自分に向けられるのを感じた。だがこればかりはどうしようもない。一般論を話すほかなかった。「霧が晴れるには太陽が照りつけて気温が上昇して、さらに風が吹くのを待つしかないです。でも衛星画像を見るかぎり、上空には分厚い雲がかかってきていますし、霧をもたらしている低空の雲自体は拡散をつづけているわりには、密度が高いままなんです。そこがふしぎな点です。いずれにしろ待つほかない。もしこれが自然現象なのだとしたらね。でも政府は正式には認めていないようですが、米軍があざみ野の一件で細菌化学兵器の使用を視野に調査に入ったらしいじゃないですか。だったらなんらかの特効薬というか解毒剤のようなものだって開発されているかもしれない。開発されていないとしても、対処法があるはずだ」
 「たしかにそうだ。しかし情報が途絶されてしまっているからな。せめて電波障害だけでも回復できればいいんだが」米倉が言った。
 「マスターのほうでいま、いろいろやってるところだけど」技術局長も報道局に来ていた。「強力な磁場が霧のなかで発生しているんだ。電波の出力を最大まであげても干渉されてしまう」
 「だったらせめてあいつらから見つからないようにしたほうがいいんじゃないかしら」森嶋が咳きこみながら言った。しきりにハンカチで髪を拭っている。「ものすごい獰猛なのよ……わたし、見たんだから……」ようすがへんだった。手にしたハンカチを取り落とし、口もとをおさえる。「目の前で……一歩遅かったら――」
 目の前で……見た?
 松木はアナウンス部長の頭から爪先までまじまじと見た。白いブラウスがうっすらと濡れている。真っ赤なパンプスには泥がはね、ストッキングのふくらはぎにも飛び散っていた。どうやら外でランチを取り、走って会社までもどってきたようだ。ハンカチで拭いていたのは、霧に濡れた髪だったのだ。
 森嶋は天井をあおぎ、苦しそうに喉をかきむしりだした。すでにそのときには周囲にいた者たちは、水に落とした油滴のようにさっと彼女のそばから離れた。つぎに森嶋がこちらを向いたとき、松木ははっきりと見た。隣にいる奈央もおなじものを目にしたらしく、松木のひじのところをつかんできた。その手はがたがたと震えている。
 森嶋の白目の部分が真っ青だったのだ。
 あとはスローモーションのようだった。
 報道局の女帝の体は急速に変化していった。そこに米倉が飛びかかり、床に倒しながらその首に両手をかけた。化け物に成り変わる前に始末してしまおうというのだ。とっさの判断だった。しかしだれもがあっけに取られ、加勢することができなかった。気道をふさがれ森嶋はわずかに苦しげなうめきをあげたが、変身速度のほうが勝った。
 わずか一分前まで森嶋だったものは、首もとに報道局長を巻きつけたままモンスターへと変貌し、最後は長い左右の前肢で邪魔者を外骨格に包まれた体から引きはがし、つぎの瞬間には相手の頸動脈のところに正確無比に顎を打ちこんでいた。テレビ東邦のなかでも一、二を争うぐらい松木が信頼していた上司が、たったいま絶命した。あまりにあっけない最期だった。
 新たに生まれた化け物は奇怪な鳴き声を雄叫びのようにひと声あげると、手近なところにいたスタッフに食らいつき、殺戮を開始した。
 全員が廊下にいたる出口に殺到した。ところが一同は大波に襲われたかのように押しもどされた。まるで報道局の視察に来たかのように、べつのカミキリモンスターが三匹そろって出現したのだ。
 フロアにはたちまち血生臭さが満ちた。
 松木は奈央の手をつかみ、フロアを走り抜けた。併設されるスタジオに逃げこもうと思ったのだ。だが分厚い扉の把手に手をかけ、力をこめながら小窓をのぞいた瞬間、絶望的な気分に陥った。把手は内側からロックされていたが、もはやこじ開ける気も起きない。すでに五、六匹の怪物たちが壁を這いずりまわっているのが小窓の向こうに見えたのだ。床にはハゲタカに食い散らかされたような血まみれの死体がごろごろ転がっている。先に逃げこんでいた連中が内側から錠をかけ、シェルターにしようと思ったらしいが、外の霧に感染していた者たちがつぎつぎになかで変身を遂げたのだ。
 背後から化け物が大股で近づいてきていた。
 「こっちです!」いっしょについてきたタニちゃんが叫ぶ。スタジオの手前にある副調整室(ルビ、サブ)だった。ディレクターや技術スタッフが、ガラス越しにスタジオに指示を出しながらカメラの切り替えや音声の調整を行うために陣取る小部屋で、なかは無人のようだった。タニちゃんのあとに松木と奈央がつづく。カメラをかついだまま大石も飛びこんできた。大石は即座に振り返り、ドアにロックをかける。同時にアルミの扉になにかが激突する重苦しい音が響いた。間一髪だったようだ。
 「意外と動きがすばやいぞ」大石が息をきらせながら言う。「カミキリってあんなに速く動けたんだっけか」
 「銃があればきっと始末できるのに。警察も自衛隊もなにをやってるんだ」松木は怒りにまみれて吐き捨てた。だが冷静に考えればさっき森嶋が口にしたことが正しい。怪物たちの数が多すぎるのだ。もし関東全域でこんなことが起きているのなら、とてもでないが全警察、全自衛隊が出動しても制圧は不可能だろう。しかしだからこそなおさら理解できない。いったいこの事態はなんなのだ。なにが起きたというのだ。本当に細菌化学兵器なのだろうか。
 奈央が悲鳴をあげた。
 松木の頭上を指さしている。見あげた瞬間、松木は凍りついた。天井の換気口の隙間から太い電気コードのようなものが二本顔をのぞかせ、わなわなと震えている。変身はここでも起きていたのだ。襲撃から逃れようとサブの換気口に身を潜めた者がいたようだが、自らが感染者であることに気づかなかったらしい。
 音を立てて換気口のフレームが落下し、松木の頭に激突した。それが合図となって松木も奈央もほかの者たちもサブの奥へと逃げ進んだ。それに追いすがるように怪物が換気口から姿をあらわし、天井づたいに獲物たちに迫ってきた。
 サブの奥に短い下り階段があり、その先にドアがあった。すでにタニちゃんがノブをつかんで押し開けている。「早く!!」
 最後に飛びこんだのは松木だった。タニちゃんが力いっぱいドアを閉める。
 機材庫だった。カメラや音響機器のたぐいが、高い天井ぎりぎりまであるスチール棚にずらりと並んでいる。
 ドアにはいちおう錠がついていたが、見るからに脆弱だった。松木は大石と協力して棚の一つを動かし、つっかえ棒にした。
 「安心できないぞ」
 大石が緊張した声でつぶやく。明かり取りの窓はあるが、全体に薄暗く、あちこちに危険が潜んでいそうだった。大石は壁に立てかけてあった黒い金属製の竿のようなものをつかんだ。先端にマイクを接続して遠くの音を拾うブームだ。化け物が出てきたら、槍のようにして使おうというのだろう。たしかに比較的やわらかそうな腹を狙えば串刺しにできるかもしれない。大石はそれをつかんだまま、ドアのわきにある電灯のスイッチをオンにした。たちまち部屋全体が明るくなった。入ってきたドアの向かいの壁にもう一つドアがあった。廊下につながっているようだった。大石はそっちのドアにも錠がかかっていることをたしかめた。松木もブームを一本つかみ、こわごわと部屋を点検した。
 案の定、避難先には先住者がいた。奥の棚と棚の間にしゃがみこんでいた。それを見つけた松木はあやうく槍をかまえるところだった。
 「おい、おまえら、明かりなんかつけるなよ」スコッチのボトルを小わきに抱えながら前田CPが文句を言った。「なかに人がいるのがわかっちまうじゃないか。さっきもそこの窓の向こうを這いあがってきたんだからな」
 みんなを守ろうとした米倉局長がどんな犠牲を払わされたか、この男には知る由もあるまい。しかしそれをここで問いただすのは時間のむだだ。かわりにもっと有益な情報を得ようと、松木は怒りを押し殺して訊ねた。「ここにはあの怪物たちはあらわれていませんか」
 「いまのところは来ていない。おまえたちが変身しないかぎりは、という条件つきだがな」
 松木は本気でこの男の胸にブームを打ちこんでやろうかと思った。それは大石もおなじだったようだ。「あなただって、いつ変身するかわからないでしょ」
 「はは、おれはだいじょうぶさ」空気を読めないにもほどがある男だった。それともわざとこっちの神経を逆なでするような態度を取っているのだろうか。松木はほとほとあきれ果てた。「もう一時間もここにいて、なに一つ変わったことなんかないんだからな。あとはおまえらさえ騒がずにいてくれりゃ、なんの心配もない」
 棚の隙間からオオサンショウウオのようの四つん這いであらわれ、前田はドアのわきまで進んで明かりのスイッチをオフにした。「ところでおまえら、本当にだいじょうぶなのか」
 「外には出ていませんから」タニちゃんがぴしゃりと言った。
 そのときサブのほうでガラスが割れる音がした。化け物だろうか。前田は飛び跳ねてドアのわきから逃げだした。「おい、もうすこしバリケードを増やしたほうがいいんじゃないか」亀のように首をすくめてびくついている。
 たしかにそのとおりかもしれない。松木は嫌味のように口にした。「じゃあ、前田さん、手伝ってくれますか。そんなもの飲んでいないで」
 「うるせえな。おまえにそんなこと言われる筋合いなんかねえぞ」なんだか呂律が回らなくなっている。いったいどれだけ飲んだのだろう。
 「いいから、危ないから前田さんはそっち行っててください」タニちゃんがあきれて言い放ったとき、ドアがノックされた。つづけて押し殺した声が聞こえてくる。
 「すいません……開けてください……山口です……」ノックがふたたびつづく。
 「リョウタか……」大石がドアに近づこうとした。
 その肩を前田がつかむ。「だめだ。絶対に開けちゃならん」
 上司の手を振り払い、大石が対峙した。「どうしてです」押し殺した声で口答えする。「リョウタはきょうは朝からフロアの担当だ。外には出ていない。感染なんかしちゃいないよ」
 「ふん、わかりゃしないさ」嘲笑うように前田が言う。「心を鬼にしてでもリスクは減らしたほうがいい」
 「ばか言わないでくれ」大石の怒りが爆発した。それもそうだろう。山口涼太は元社会部記者で大石の部下だった。「モーニング・ストリーム」のディレクターの一人で、松木も好印象を抱いていた。「もしここが安全なら、生存者全員を連れてきてもいいくらいなのに」
 「ばかを言ってるのはおまえのほうだぞ、大石」前田は酒のにおいを撒き散らしながらすごんだ。「なにさまだと思ってやがるんだ」
 「やめてくださいよ、前田さん」タニちゃんは前田の腕をつかんでいた。「リョウタならだいじょうぶですよ。わたしもいっしょでしたから」タニちゃんにはCPも言い返せないらしい。ぶつぶつと独り言を口にしはじめた。
 そのすきに松木は大石と協力してスチール棚を移動させ、手早くドアを開けて若いディレクターをなかに入れてやった。
 「ずっとスタジオにいたんです。そしたら何人かが変身して……セットのわきに身を潜めていたんですが、さっきサブから化け物が飛びだしてきまして、逆にそこからサブに逃げてきたんです」
 なるほど。先ほどサブの換気口から姿をあらわし、襲ってきたモンスターはガラスを破ってスタジオに向かったのだ。
 「おい、山口」また前田が前に出てきた。「おまえ、本当にきょうは外に出ていないんだな」
 「出てませんよ。朝からずっとフロアです。昼飯だって食べていないんですから」
 「そんなことは聞いてないんだよ」CPらしく前田はリョウタをにらみつけた。そして大石と松木に向かって申しつける。「いいか、こいつにもしも妙なことがあったら、おまえら、責任取って始末しろよ。変身する前ならただの人間だ。できないことはないだろう」
 米倉局長のことがふたたび頭に浮かび、松木はつい怒鳴りつけそうになった。しかしそれより先にタニちゃんがズバッと言った。「この場で一番の凶器になるものを持っているの、前田さんだと思うんですけど」スコッチのボトルのことだった。
 前田は憤然として顔を真っ赤にしたが、大声をあげてどこに潜んでいるかも知れぬ化け物たちの気をひくほど愚かではなかった。かわりに凶器と名指しされたボトルをあらためてあおり、反抗的な部下たちへの怒りを慰撫しようとこころみた。
 それからしばらくの間、六人の避難者たちはじっと押し黙っていた。話し声をやつらに聞かれたくないし、なにより疲れきっていた。まるでひと晩じゅう全力疾走をつづけさせられたみたいだった。だがそれもすべて精神的なストレスのせいだった。おそらくこの霧に包まれた世界にいるだれもがおなじ不安を抱えていることだろう。
 ついに終末が訪れたのだろうか。
 それに答えられる者はだれもいない。松木は何度もスマホを操作した。晋治のことが気になってしかたなかった。肝心なときにそばにいてやれない。あのときとおなじじゃないか。紗英のことが胸をよぎり、陰鬱な気分が増していく。結局また家族を守れずに終わるんじゃないか。考えないように努めても波のようにぶり返してくる。
 「なにか聞こえませんか」ふいに山口が言った。
 松木ははっとして耳をすませた。
 銃声だった。
 午後三時半を回っていたが、ようやく反撃が始まったのだ。しだいにその響きははっきりと、しかもたしかなものへと変化していく。それまで海外ニュースでしか耳にしたことのない戦場の音だった。
 そう、戦場になってしまったのだ。
 しかも怪物といっても元はみな人間だし、日本人をせん滅させるべく送りこまれた外国の兵士でもない。あざみ野とまったくおなじだ。ふつうに暮らしていた人々なのだ。
 そう思ったとき松木の頭に疑問符がともった。あざみ野であの雨にあたり、事件を起こした者たちは、みな被害者に対して特殊な憎悪のような感情を抱いていたはずだ。ならばいまはどうだろう。これだけの大量殺戮だ。個別の事情なんてあるわけがない。
 無差別だった。
 それはある意味、人間なんかよりずっと原始的な生きものである昆虫ならではの、純粋な生存本能が関係しているかのようだった。
 窓ガラスが割れたのはそのときだった。
 警察の機動隊か自衛隊かわからないが、彼らが放った流れ弾があたったらしい。
 「まずいぞ」大石がつぶやいた。事態の急変にはだれもが気づいた。
 霧が入ってきたのだ。
 大石の判断は早かった。廊下にいたるドアのロックを解除し、慎重に外に顔をのぞかせた。「だいじょうぶそうだ」
 それを合図に機材庫にいた者たちは次々と廊下に転がり出た。「会議室が開いてるはずです」こんどはタニちゃんが先頭に立ち、松木たちはまるで忍者のように音を立てずに廊下を進んだ。そのあとを渋々といったようすで前田CPがついてくる。
 ところがやはり見通しが甘かった。つぎの廊下を曲がったところで、目の前の壁に巨大カミキリが二匹はりついていたのだ。アンテナのように弧を描いていた触角が動きをとめ、こちらのにおいを感じとるや、ガサガサと音を立てながら壁づたいに突進してくる。
 一同は踵を返して全力疾走を開始した。バタバタと足音が響くが気にしていられない。大石がつぎの角を曲がったところで足をとめた。非常階段にいたる鉄扉だった。まだ化け物は背後の角に姿をあらわしていない。有無を言わさず六人はそこに飛びこんだ。
 二階だったが、非常階段はしんと静まり返っていた。外の銃声もどこか遠くの異世界の出来事のようにしか聞こえてこなかった。ただ、空気が気持ち悪いほどむっとしていた。エアコンがきいていないこともあるが、あの雲の内部温度が異様に高かったことが気になった。だったら霧だって熱を帯びているはずだ。それがいまいる建物内に相当量、流れこんでいるのではないか。
 「とりあえず上に行こう」松木は大石に言った。「流れ弾も飛んでこないはずだし」
 「だな。あえてやつらの巣に飛びこんでいくこともないからな」

 十九
 16時40分
 東京都港区汐留
 飛行高度を千メートルに保ちながら、ブラックホークは時速280キロで関東地方に接近した。夕映えのような薄紫色の雲を副操縦士席の西条が眼下に確認したのは、静岡市の上空でだった。雲の上では通信も生きているし、GPSも作動しているが、雲の下では電波障害がひどく、霧のなかの街がいまどんな惨状になっているかだれも正確に把握できていない。NTTの有線回線のみが頼みの綱だったが、それも満足につながらない状況だった。ただ、はっきりしているのは関東地方が壊滅に近づいているということだった。
 それは関東だけでは終わらない。グプタから聞いた話が頭に渦巻き、西条は暗澹たる気持ちになった。日本はもちろん、世界が、人類が築いた文明そのものが脅威にさらされているのである。それもこれも人間の「自我」そのものに原因があるなんて。しかしクリスの内に潜むなぞの意識体は、それを人類に突きつけ、死をもたらそうとしているのだ。とはいえ人類が人類であることをやめれば、宇宙的な進化が可能だともいう。それはモノリスへの接触とおなじ変異であり、脆弱な肉体との決別につながる。スカイプの向こう側でグプタは慎重に言葉を選びながら説明してくれた。
 「クリスという男は身の危険を感じて逃走したんですよね」インカムをとおして操縦席の兼村が訊ねてきた。「長年いっしょに暮らしてきた教授を殺して」
 「おそらくそうだと思う」
 「もしその男がすべての事件を操っているのなら、やつを見つけるのが手っ取り早い」
 「CIAもFBIも躍起になって捜しているところだろう。だがそれを待っているわけにいかないからな。雲がどんどん広がっているんだし」
 「そこですよ。わたしが疑問に思うのは。どうして日本なんかが狙われたんでしょうか」
 「人口の集中具合とか殺害効率が高かったのかもな」
 「だったらニューヨークとかロサンゼルスだっていいはずですよね」
 「わからん。なにか理由があるとは思うんだが」
 進行方向の十キロあまり先に不気味な雲の合間から鉄塔が突きだしているのが確認された。東京スカイツリーだ。兼村は速度を落とした。GPS画面によると、ほぼ汐留の上空に到達している。ここから先は雲のなかに降下していく。電波障害のせいで計器飛行は不可能だろう。しかし有視界飛行といっても霧が濃すぎたらフライトは危険だ。だが引き返すわけにはいかない。直近のビルの屋上に緊急着陸して、あとは自力でテレビ東邦までたどり着くほかない。防護服が身を守ってくれればいいのだが。西条は祈りながら兼村がブラックホークを慎重に降下させるのを見守った。
 視界は思ったほど悪くなかった。五十メートルほど先までかろうじて目視することができる。太陽光を乱反射しているせいか、雲の外から見るよりずっと紫色が濃くなっている。まるで異次元世界のような感覚だった。そのなかに湾岸エリアのビル群が広がっている。兼村は新橋駅を目印にして降下をつづけた。急に操縦席が蒸し暑くなってくる。兼村がだまって外気温計を指さした。故障していないかぎり、外は五十三度に達しているようだ。まるでミストサウナ状態だ。地上はどうなっているのだろう。西条はそのままヘリを操縦して広尾のマンションまで飛んでいきたい衝動に駆られた。
 そのときだった。
 地上三百メートルほどのところで、なにか黒っぽい大きなものが目の前にあらわれた。前方からまっすぐに飛来してきたのだ。兼村が反射的に操縦桿を左に倒して回避する。「なんだいまのは……」
 それが何度となくつづいた。西条はサイドウィンドーに目をやった。綿菓子のようなもやのなかをふらつきながら飛行する物体がいくつも確認できた。「カミキリなら飛んだっておかしくないだろう」西条はつとめて冷静に言った。「ただ、でかすぎるな。あんなのがローターにぶつかったらたいへんなことになるぞ」
 「自爆テロはごめんですね」兼村は周囲を飛び交うようになった化け物たちを巧妙によけながらさらに降下をつづけた。
 ヘリポートのあるビルの屋上が四か所見えた。新橋駅の位置から考えてまちがいなく汐留エリアだ。南東側の空白地帯は浜離宮庭園だろう。兼村はぎりぎりまで降下して周囲を旋回しながらそれぞれの屋上をたしかめ、切迫した声で告げる。「テレビ東邦のロゴが見えました。着陸態勢に入ります。ただ……何匹かいるようです」
 「屋上で待ちかまえているってことか」
 「あいつらがいたら建物内に入るまでにかなり手こずりますね」
 「やむをえん。排除するほかあるまい」怪物たちも元は人間であることを思うとつらかったが、すでに地上では掃討作戦が展開されているはずだった。西条は防護服を着たまま副操縦士席から立ちあがり、出入り口の内部にセットされた機関銃を手早く準備した。「いいぞ。こっちはいつでもOKだ」西条は扉を開け、銃把を握りしめた。
 「了解」兼村は平板な声で答え、ヘリポートぎりぎりまでさらに高度を下げ、そこでゆっくりと転回を開始した。
 ローターの巻き起こす突風が霧を掃き散らし、十匹以上の化け物が近づいてきているのが見えた。しかし火を噴く機関銃が放つ七・六二ミリ弾の威力は絶大だった。怪物たちは次々に八つ裂きにされ、青緑色の体液があたりに飛び散った。
 車輪が着地する重々しい衝撃が起こり、直後に兼村がインカムを外して叫ぶ。「急ぎましょう!」
 ローターの回転速度が落ちるとともに扉を開けた機内に霧が漂いこんでくる。西条は身につけている防護服をたしかめた。もうここまで来たら覚悟を決めるしかない。常軌を逸した異次元世界についに西条は降りたった。
 「待ってください」背後で兼村が声をかける。持参した大きなバッグのジッパーを開いていた。「念のためこいつを持っていきましょう」
 二丁の自動小銃だった。小さなデイパックには交換用の弾倉が相当数入っている。兼村ははなから戦闘を意識していたのである。一丁を西条に渡すと、さらにバッグから二連式のボンベを取りだした。背嚢式の火炎放射器だった。それを担いで兼村が先をうながした。ふたたび霧が近寄ってきていた。
 小銃が最初に役立ったのは、屋上から建物内に入るドアの錠前の破壊だった。霧がなかに入らぬよう手早くドアを閉める。しかし西条も兼村もこの場で防護服を脱ぐ気にはなれなかった。窓が割られてすでにビル内に霧が侵入している可能性が高いからだ。
 ドアからリノリウム張りの廊下がのび、エレベーターと非常階段につながっていた。三十三階だった。フロアガイドによると報道局は二階にある。電力は保たれており、エレベーターは作動中のようだ。しかし途中で停止しないとは言いきれない。二人は非常階段を使うことにした。気象予報士の松木と、ある特殊能力を持つという女性がまだ生存していることを祈りながら。

 二十
 17時02分
 6階
 よりによってテレビ東邦の非常階段はガラス張りで外から丸見えだった。地上攻撃の流れ弾は飛んでこなくなったが、上階を目指す奈央や松木たちの姿は、巨大な羽を広げて霧のなかを飛ぶようになった怪物たちの関心をいやでもひいた。何度も何度もガラスにタックルしてきては、そのままべったりと張りついて巨大な複眼で見つめてくるのだ。これではいつ窓が破られるか知れたものではない。
 「…………!」いつの間にか先頭を進んでいたタニちゃんが声にならぬ声をあげ、その場に立ちつくした。視線は六階にいたる手前の踊り場を見あげている。髪の生え際がひどく後退した中年男性が、まるで奈央たちのことを待ちかまえるかのようにして立ちはだかっていたのだ。見覚えのある顔だった。
 「武中さん……」ディレクターの山口が口走り、奈央も記憶がよみがえった。個性派俳優の武中尚登だった。しかしそれはもはや武中本人ではない。白目がどろりとした青色に染まっていたからだ。
 「タレントクロークまでやられたか」大石が悔しそうに吐き捨てる。その間にも武中は変身を開始し、身長はみるみる二倍ほどになった。胸郭からのびる三対の肢はどれも頑丈そのもので、棘状に生えた束子(ルビ、たわし)のような体毛はごわつき、人を寄せつけぬ気色の悪さに満ち満ちていた。手のひらほどの大きさのある両眼は狙った獲物たちをじっと見すえ、その下で黒光りする顎は手に負えぬ残虐さを象徴している。いつもひょうきんでコミカルな動きが印象的だった男の名残りなどどこにもない。
 ギィィィィ――。
 恐ろしい鳴き声が合図となって一同は階段を逆もどりした。だが五階と四階の間の踊り場を過ぎたところでとまらざるをえなかった。霧が足もとからまるで人喰いアメーバのように漂いのぼってきていたのだ。上階からの襲撃者と忍び寄る霧の間に五階のフロアにいたる鉄扉があった。突き出た腹を揺すって前田CPが階段を駆けのぼり、いち早くドアノブ飛びつく。だがそれは扉の向こう側の壁を這っていたべつの一匹と、廊下のすみで淀む霧を非常階段に招き入れただけだった。前田は転がるように奈央たちのいる踊り場までもどってきた。一畳半ほどしかない場所に六人がひしめいた。霧が放つ異様な蒸し暑さがいや増した。
 「ちくしょう……」進退窮まり、松木は階段の上と下を交互に目をやりながらうなった。
 人にはない能力を持っていたからって、こういうときに役立たないのでは意味がない。絶望感にいつの間にか奈央は泣きだしていた。
 そのとき山口が、獲物を見極めながら一歩ずつ下りてくる怪物に向かって飛びだした。比較的やわらかそうな腹に向かってアメフトのようなタックルをお見舞いしようとしたのだが、それが成功する前に中肢によって左右から肩をつかまれた。直後、骨が折れたような音が奈央たちのいる踊り場まで聞こえてきた。
 「リョウタ……!」叫びながら大石がたすけに入る。しかし大石は前肢で顔面に強烈なパンチを食らい、もんどりうって踊り場までもどってきた。その間にも山口の体は軽々と怪物の頭部まで持ちあげられた。怪物は、両手でパンチをくりかえしながら必死に抵抗する若者をものともせずに開いた顎の前にその体を近づけた。山口はパンチをやめて両手で左右の顎をつかんだが、力の差は歴然としていて首筋にそのまま食らいつかれた。奈央は目をそむけ、耳を覆った。一生忘れられないような鈍い音が聞こえたからだ。
 つぎに飛びだしたのは前田だった。たすけに入ったわけではない。捕食に忙しい怪物のわきをずる賢くすり抜けて階段を駆け上がろうとしたのだ。しかし巨大な複眼に死角はなかった。山口の首を完全に切断する寸前で怪物はその体を放りだし、それまでのゆったりとした動作からは想像できないすばやさで身をかがめ、CPの首根っこに食らいついた。前田は一瞬その場にくずおれたが、たちまち圧倒的な力で二メートル以上持ちあげられ、そのまま頭から壁に激突させられた。それだけで前田の体から力が失われた。それでも怪物は許さず、二本の顎で首をはさんだまま、前肢と中肢でまるで恋人を抱擁するように膨張した腹をうしろから抱きしめた。前田はこちらを向いたまま、意識を失っている。それはドラキュラ公に磔刑にされた敵軍の兵士のようだった。そして巨大な顎に力がくわわり、じわじわと首が切断されていく――。
 甲高い連続音が非常階段に響いた。
 難燃剤でできた白壁に青緑色のゲル状のものが飛び散り、前田の体が落下した。ごろごろと奈央たちのほうへ転がり落ちてくる。銃声はなおもつづき、化け物はその場から逃げようと本能的に羽を広げたが、それも一瞬のことだった。何発もの銃弾に外骨格を貫かれ、肢を丸めてその場にひっくり返った。
 期せずして広がった静寂のなか、硝煙のにおいが漂う。
 「霧が上がってくる。さあ、早くこっちへ!」男性のくぐもった声が階段の上で響く。原発事故のニュースで見慣れた防護服を着た二人の人物――フード前面のバイザーの奥にはいずれも男性の厳しい顔がのぞいていた――が、すでに息絶えた怪物のわきに下りてきた。手にはそれぞれ自動小銃を構えていて、一人はダイビングで使う酸素ボンベのようなものを担いでいた。「急いで!」
 それにうながされ、奈央たちは階段を駆けのぼった。五階も六階も扉を無視して七階まであがったところで防護服の男がドアノブをつかんで扉を引き開けた。「ここはだいじょうぶみたいです。いまのところ」全員がなかに入るなり扉を閉める。鋼の扉は霧を完全にシャットアウトすることができた。
 大きなスタジオの入るフロアだった。スタジオは改装中らしく開放された分厚いアルミ扉の向こうには足場が組まれ、ビニールシートが張りめぐらされていた。工事用の照明がついたままだったが、作業員たちの姿はない。すでにどこかに避難したようだった。それでも防護服の二人が急ぎ足で点検する。入り口の向かいに二十人ほどがくつろげるラウンジがあり、ソファが並んでいる。大きな窓が広がっていて、晴れているなら東京湾が見渡せそうだった。しかしいまは立ちこめる霧で細かな水滴が窓に付着していることもあり、近くのビルの輪郭さえおぼつかない。逆にモンスターたちがいつ飛来してなかをのぞきこまれるか知れたものでない。先ほどチーフ・プロデューサーが殺されたとき、信じがたい腕力を見せつけられた。あんな窓なんて飛びながらぶつかられたらひとたまりもないだろう。
 おなじくそれを感じたらしくディレクターの大石が壁際のスイッチを操作してラウンジと廊下、そしてスタジオの明かりもすべて落とした。日中とはいえ、太陽光が遮られているせいでいっぺんに暗くなった。そのせいで霧が放つ奇妙な薄紫色の光がかえって目だつ。ただの霧でないことはあきらかだった。
 窓から死角になるひと組のソファに一同は向き合って腰かけた。この先どうなるかまったく見えなかったが、それでもこの数時間の出来事で奈央の疲労感はピークに達していた。それをアドレナリンでなんとかごまかしてきたのだが、やわらかな座面に腰をおろした途端、奈央のなかでなにかがこと切れた。もはやこのままやつらの餌食になるか、仲間になるかのどちらかだ。しかしいまは恐怖をおぼえる感覚すら麻痺していた。
 近くに清掃スタッフが置きざりにした清掃用具を入れたカートが残されていた。防護服の男たちはそこから乾いた雑巾を取りだし、たがいに濡れた防護服を念入りに拭いあった。外から来たのなら霧にあたっている。感染防止のためにも不可欠だった。
 ボンベを担ぐほうの男が小銃をかまえて警戒の視線をあちこちに走らせるなか、片割れが立ったままフードを外した。白髪交じりだったが強い目力が表情を引き締まらせている。「防衛省の西条ともうします。彼は陸上自衛隊の兼村二佐」警戒にあたる男に向かって手を広げる。男はフードの内側から小さく会釈を返してきた。「かつての同僚でして、わたしのたってのねがいで協力してもらっています。じつはわたくし、今回の一件でどうしてもお会いしたかったのです。気象予報士の松木さんでいらっしゃいますね」
 奈央の隣にいた松木ははっとして立ちあがった。「ええ、そうですが。もしかして――」
 「白人青年の頬のほくろについて訊ねさせていただきました。わたしはペンタゴンに勤務しているのですが、あざみ野の事件にはじまる今回の一件について個人的に調査していまして」
 「個人的に調査……?」
 西条はソファに腰掛けるよう松木にうながし、自分も向かいに座った。「米国政府が秘密裏に進めるある研究がかかわっているんです。それが暴走した、というか来るべき日が来たと言ったほうがいいかもしれない。それはわたしの管轄外の話なんですが、日本がかかわっている以上、調べないわけにいかなかった。それで松木さんのブログにいきあたったのです」
 「あの、すみません」思わず奈央のほうから訊ねた。「あの白人の若者がなにかかかわっているんですか」
 真剣な目で西条は奈央のことを見た。それでもその奥には穏やかで温かいものが流れているのが感じられた。「CIAの主導でNASAの研究者を中心に八年前からつづくプロジェクトです。研究対象となったのが一人の青年。その白人青年です。クリスと呼ばれています。彼の右頬に大きなほくろがあるんです。幼いころ、父親にたばこ火を押しつけられたやけどの痕です」西条は手袋を装着したまま防護服の胸ポケットからビニール袋に入った紙束をつかみだした。そのなかに一枚の写真があった。
 奈央は息をのんだ。旅行代理店の同僚たちを殺傷した義姉の頭にタッチしたときに流れこんできたイメージのなかにあらわれたブロンドの白人青年だった。「まちがいないです」奈央は松木のほうに向きなおった。「彼です。わたしが見たのは」
 「すみません」西条が先を急ぐように訊ねてくる。「見たというのは、いったいどういうことなのでしょう。彼はこの八年間、ノース・カロライナの陸軍基地に収容されています。完全隔離状態です」
 この場で西条の体に触れてみてもよかった。それがいちばん手っ取り早く自分の能力について理解してもらう方法だった。しかし西条自身、うすうすそのことはわかっているはずだ。でなければ危険をおかしてこんなところにはやって来ない。たった二人で乗りこんできたところをみると、おそらく自らの判断にもとづく単独行動だろう。組織人としての一線も踏み越えての決行にちがいない。奈央は一つだけ訊ねてみた。「説明しがたい話なんですが、驚かないでいただけますか」
 「サイキックということでしょうか。つまり予知能力とか透視力とか」西条の口調にはばかにしたようなところがなかった。「米軍はいまでも真剣に研究をつづけていますよ」
 いっしょにいる大石やタニちゃんのことは気にせずに奈央は自らの能力について口にした。見せられた写真のクリスが、義姉のイメージにあらわれたときのようすも具体的に話して聞かせた。
 「虫かごをさげていたのですか。いまの彼は広々とした部屋に大きな水槽を置いて、そこで観察していますよ。カミキリムシの一家を」
 「そのときはかごの中身まではわかりませんでした。話しかけようと思ったところでイメージが消えてしまったので」
 「話はできなかったのですか」
 「はい、だめでした。両腕にものすごい痛みが走ったんです。腕を切られるみたいな。それでおしまいです。たぶんそのクリスという青年から拒絶されたのだと思います」
 「クリスはあなたに敵対感情を抱いていたということでしょうか」
 それは奈央にもわからなかった。「ものすごいパワーだった。そうとしか言えないです」
 「クリスと話ができるのはグプタ教授というNASAの研究者だけなのですが、これまでのセッションのなかで、クリスが攻撃的だったことは一度もなかったといいます。ただ、彼はなんらかの方法で他人の思考を操れる。もっと言えば、他人の思考を完全に排除したうえで、自らの意思で相手の肉体を操ることができる。そう考えられるだけの証拠があるんです」
 「証拠……?」
 「クリスといっしょに八年前からおなじ施設に収容している人間が三人いるそうです。いずれもずっと口を閉ざしたままですが、脳波の変化が完全にクリスのそれと一致しているというのです」
 「脳波が一致するって――」
 「仮説ですが、一つの意思が別々の肉体に同時に発露しているとも考えられる」
 奈央は信じられなかった。「クリスと三人の関係は?」
 「おなじルイジアナ州の田舎町に暮らしていまして、八年前のある晩、同時多発的に起きた殺傷事件のいずれも容疑者です」
 思わず松木が声をあげた。「同時多発的に起きた殺傷事件って……」
 「そうです。あざみ野とおなじです」
 「米軍が調べてるんですよね」
 ペンタゴン勤務の男は大きくうなずいた。「ただ、細菌化学兵器なんかじゃないし、ロシアや中国がなにかしたわけでもない。でも侵略であることはまちがいないと思います。その意味ではそれを防げなかったことに米国政府は責任を感じるべきなんです」
 「ちょっと待ってください」松木は目を瞬かせて訊ねた。「なんですか……侵略って」
 「すべては八年前に観測された宇宙的事象に端を発しているんです」そう言って西条は、おおいぬ座の方角に三十億光年離れた矮小銀河から放たれた高速電波バースト(FRB)という莫大なエネルギーが、二〇〇九年七月に地球でキャッチされた話をした。「グプタ教授によると、FRBは川の激流のようなもので、それ自体の爆発的なエネルギーもさることながら、それによって運ばれてくるものが問題だというのです」
 「なにが運ばれてきたんだろう」訊ねたのはタニちゃんだった。なんにでも興味を持つらしく、こんなときにも目をきらきらとさせている。
 西条は穏やかな表情のまま彼女のほうに向きなおって言った。
 「宇宙人です」
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