85 転移

文字数 3,347文字

 派手な着水音と高く上がった水飛沫に、ビヒトはヴァルムが落とされたことを知る。

「ヴァルム!」

 声を上げた時には先の無くなった触手がビヒトに迫っていて、発動させておいた風の盾(パリエース)に阻まれ弾かれる。だが、その一度で籠めた魔力は使い果たしてしまったらしい。守りの壁が割れるような感覚と共に、少し離れた触手から距離を取るようにビヒトは下がった。
 次の攻撃に身構えたビヒトの目の前で海獣の躰が大きく膨らんだ。
 球を撃ち出すのかともう少し桟橋を戻るが、海獣は両方の触手を出鱈目に振り回すだけで筒は出してこなかった。
 時々向かってくる触手を避けながら海獣の様子をよく見ると、背の方に淡い光が見える。光はじわじわと這うようにその躰に沿って広がっていった。

 岸壁の方でサポートしてくれていた魔術師たちも野次馬も、声を上げたのは最初だけだった。
 動きも、もしかしたら息も止めているのか、徐々にざわめきは遠くなり、妙な静けさの中、海獣の立てる水音だけが耳についた。
 空を切る二本の触手の軌跡から細かい光の粒子がはらはらとこぼれ始め、水の中の躰も光に覆われていく。
 異常な光景のはずなのに、ビヒトはしばらくそれに見惚れてしまった。
 光の流線が自分に向かってくるのも、うっかりと。

 ぶつかる直前、耳の痛くなるような叫び声に我に返り、咄嗟に短剣を構えてガードする。
 瞬間目を瞑り、備えた衝撃は来なかった。薄く開いた瞳にパッと散った細かな光が見える。もう一度しっかりと見渡す頃には、光も、海獣も、闇の中に飲まれてしまったかのようだった。
 橋脚や橋桁に当たる水音が乱れていて、今まで確かに何かが暴れていたのだと証明している。
 ぱしゃんとまた別の水音がして、ビヒトはヴァルムのことを思い出した。
 首から鎖を外すとマリベルの陣を発動させて掲げる。

「ヴァルム! こっちだ!」

 実は転移に失敗していて、まだ海獣がいる可能性もあった。それでも、その水音はヴァルムの立てたものだとビヒトは疑わなかった。
 少しして、ビヒトの頭上と海上にいくつか光の玉が浮かんだ。
 振り返ったけれど、岸壁はまだ明かりを落としていてよく見えない。だが、多分、魔術師たちだろう。

「ヴァルム! 無事か?!」

 光の当たる範囲に人影が見えなくて不安になる。
 一歩でも近くにと橋板の端まで踏み出したビヒトの足元を、水中から出てきた何かがガシっと掴んだ。
 思わず飛び退く。
 それが人の手だと見て取ると、ビヒトはそれに飛びついた。
 同時に腰に下げた小物入れから笛を取り出し、人を呼ぶ。数人がかりでようやくヴァルムを引き上げると、彼は服を搾りながらゆっくりと歩き出した。

「ヴァルム、大丈夫なのか?」
「痛ぇくらいだ。のんびりしとる時間はねえ。他人に丸投げする気はねえんだ」

 ビヒトは少しふらついたヴァルムの腕をとる。
 痛いなんて口にするということは、どこか折れたか罅でも入っているのかもしれない。
 
「任せろ、って言いたいとこなんだが」
「心配すんな。腕も足も大丈夫だ。泳ぎはそう上手くもねえからな。ちと疲れただけだ。冒険者協会(ギルド)まで肩でも貸してくれりゃあ、充分だ」

 ニッと笑ってがっしり肩を組むと、ヴァルムはいてて、と口元を苦笑に変えた。
 ビヒトは肋骨だろうと当たりをつけて、右側に回り込む。

「こっちならどうだ?」
「ん? ああ。いくらかマシだな」
「動けるのか?」
「やり始めりゃあ、痛みはなくなるだろ?」

 当たり前のような顔をして言われると、自分が間違っている気になるビヒトだったが、今までの話を鑑みるに、ヴァルムは戦闘中にかなりあちこち魔力で強化しているようだ。自覚はさっぱりないようだが。だから、罅くらいなら本当にしばらく休んでいればなんとかなるのかもしれない。
 希望的観測だったけれど、アレと対するのにヴァルムがいないと不安だというのが正直なところだった。
 パエニンスラのヴァルムの姉に心の中で謝りながら、ビヒトはヴァルムを連れて冒険者組合(ギルド)へと向かった。


 ◇ ◆ ◇


 すぐに転移(とば)せと言うヴァルムを、看護官のご婦人が迫力のある笑顔で却下した。
 ビヒトに処置室に連れていくように指示を出すと、腰に手を当てて怖い顔で見張っている。

「転移は身体にも負担がかかるんですからね! 他人(ひと)に肩を借りてるような人が使うもんじゃないんです!」

 布にツンとする臭いの薬品を塗って、ヴァルムの左脇に貼りつけると、ご婦人は怪我人にするとは思えないほどの力を籠めてぎゅうぎゅうと包帯を巻いた。

「たたたっ! そ、そんなにすっと動き難いじゃねーか!」
「動いてほしくないんですけどね!」

 このくらいで寝てられないという冒険者は山ほどいるのだろう。彼女もやめろとは言わなかった。
 ヴァルムはおとなしく痛み止めを飲んで、深々と溜息を吐いている。
 ビヒトは治療の間に彼にも善意で用意してくれた着替えに腕を通していた。すれ違う人々は皆、無言で肩や背を叩いて行く。

 地下の目立たない場所に隠された扉を潜ると、すでに淡く光る魔法陣が出迎えてくれた。
 陣の外側で四人の魔術師が向かい合わせになって待機している。他にも事務員が何名かとギルド長も立ち合いのために緊張の面持ちで立っていた。
 一緒に行きたいと手を上げた冒険者は多かったようだが、いかんせん小さな冒険者組合(ギルド)のこと、主に消費魔力の関係で二人を送るのが精いっぱいと断るしかなかったらしい。

 ビヒトがヴァルムと共に陣に入ると、前後左右の魔術師が目の前に置かれた魔石に手を伸ばした。それぞれ色は違うが、どれも高品質なのは間違いない。その色が薄れて輝きを失い、代わりに魔法陣が光を増した。ゆっくりと床から浮き上がる陣を事務員たちが固唾をのんで見守っている。
 胸の辺りまで光が昇って来た時、ヴァルムが左脇に手を添えた。
 そんなことはきっとないのだが、ヴァルムが倒れないようにと、ビヒトはその腕を掴む。向けられた瞳がゆるく弧を描いた。
 ヴァルムも思い出しただろうか。自作の陣で跳んだ日のことを。
 あの日、掴まれていたのはビヒトの方だった。

「怖ぇのか」
「誰が。怪我人は黙ってろ」

 くくっと笑う顔が光に覆われた。
 もう魔力の流れに翻弄されたりしない。そのくらいには、成長したつもりだった。
 視界が白く埋め尽くされ、キィンと耳鳴りがした。



 足下が確かになり、軽い眩暈を頭を振って無理矢理追い払うと、ビヒトはアレイアの冒険者組合(ギルド)地下に居並ぶ面々を見据えた。
 ギルド長以下、何名か見覚えのある事務員が数名。騎士団の制服を着た者が何名か……

「お待ちしてまし……っ……あ、あっ!」

 突然の素っ頓狂な声に、全員が声の主を向いた。
 本人は片手で口を覆って「しまった」という顔をしている。一度咳払いをして誤魔化すと、二人に近付いた。

「プハロスからおこしで間違いありませんね? アレイア第三騎士団副団長のアウダクスです。ヴァルムさんのお噂はかねがね……それと」
「……ビヒトです。お久しぶりです」

 アウダクスは「やはり」と小さく呟いてじっとビヒトを見つめた。何か言いたげな瞳は、一度伏せられるとヴァルムへと移っていく。

「何をしたのかは後で聞きましょう。アレをどうにかしなくては。壁は作りました。陸上では上手く動けないのか、木々に阻まれているのか、今はじりじりと湖に向かっているようです。何か策がおありですか?」
「特にねぇな。皮膚が厚いのか、特殊なのか、あの表面にはあまり魔法は通らんみたいだ。真空魔術(ワクウム)もゆるく逸らされる。湖に突き落とせば破裂して死ぬと思うが、できそうか?」
「簡単にはいきませんね。岸からしばらくは浅いですし……あの大きさだと重さもあるでしょうから」
「放っておいても、そのうちくたばると思うが……」
「岸まで辿り着かれると、水球を作られる可能性がある。あと、わずかだとは思うが、長引けば真水に耐性を持たれるかも……」

 口を挟んだビヒトに、年長者二人は渋面を作ってみせた。

「なんで嫌なことを言うんだ」
「水球とは? 帝国の方からは聞いておりませんが」
「失礼しました。陸上戦になるとしか、こちらも聞いておりませんでしたので」

 割って入った別の声に振り向くと、帝国の軍服を着た魔術師参謀の姿がそこにあった。
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登場人物紹介

ビヒト:主人公。本名、ヴェルデビヒト・カンターメン。魔術師の家系に生まれ、豊富な魔力を持つが、魔法は発動できない。ヴァルムに出会い、感化され、実家を出て自分なりの魔法との向き合い方を模索する。髪と瞳はうす茶。


イラスト:観月さん

ヴァルム:「鬼神」の二つ名を持つ名の知れた冒険者。破天荒でマイペース。家族には弱い。白灰色の髪に灰緑色の瞳。

ラディウス:パエニンスラ領主の息子。明るく快活。性格は領主似。よく騎士団に交じって訓練している。プラチナブロンドの髪にブルーグレーの瞳。

セルヴァティオ:ヴァルムの息子。ラディウスとは兄弟のようにして育った。真面目で繊細。酒が入ると人が変わる。ヴァルムと別れた母とは時々会っている。白灰色の髪に青い瞳。

マリベル:線細工師。背が低いので成人女性に見られないが、ラディウスと同い年。勝気で犬嫌い。金茶の髪に青い瞳。

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