第三章・第三話 予期なき暗雲
文字数 7,729文字
建前として結局あれから四日後、一旦城に戻って来た、城主であり将軍たる
実美の隣には、
そして、同席を申し出た
「早速ですが上さんには、我々の訪問理由は、お聞き及びであらしゃいましょうか」
「はい。攘夷推進のご催促にいらしたとか。
背筋を伸ばした家茂は、今日はきちんと髷を結い、その上に
一房落ちた前髪の下に見える涼しげな美貌から余所行きの言葉が漏れると、とてもではないが、整った容貌と落差がありすぎる普段の言葉遣いは連想できない。
実美たちは、
二人は満足げに頷き、実美が口を開いた。
「それでは、我らが来た以上、すぐにでも攘夷を決行いただけますな」
実美は、ニヤニヤとどこか嫌らしい笑みを浮かべて家茂を見ている。大方、見掛け通りのナヨナヨしい(美)少年と思っているのだろう。
和宮は、実美を瞬時睨み付け、次いで家茂に目線を移した。直後、彼はその薄く引き締まった唇の端を、不敵に吊り上げる。
が、それは一瞬のことで、勅使の目には留まらなかったに違いない。
「そうしたいのは山々ですが、将軍としての仕事はそれ一つではない。それに、宮様ご降嫁に際していただいた攘夷の期限は、七、八年は先のはずです。婚儀からまだ一年経たぬのにもう催促を受けるとは、こちらとしては
思わぬ迎撃だったのか、実美のほうが困惑した表情になった。が、唖然とした口を急いで閉じた彼は、改めて口を開く。
「いえ、そんな……ですが、婚儀より、
今度は、家茂がかすかに唇を噛んだ。政略結婚の件を突かれると、さすがに反撃の手がないらしい。
「左様なことはございませぬ」
透かさず口を挟んだ和宮に、勅使が見開いた目を向ける。その目線を、しっかりと捉え、和宮は顎を引いた。
「確かに、初めは攘夷の約束と引き替えに、わたくしは幕府に差し出されました。されど、先日も申しましたが、わたくしは上様と一緒になれたこと、ほんに幸せと思うております。主上には、わたくしの幸せよりも攘夷のほうがお大切なのかも知れませぬが……」
「いいえ、宮様!」
「滅相もござりませぬ、主上はそのようなことは決して……!」
大慌てで兄帝を庇うように言い立てた二人は、ふと、同時に同じことに気付いたような表情で、口を閉じる。言葉を発したのは、やはり実美だ。
「……しかし、宮様。つかぬことをお伺いしますが」
「何です?」
「今
「まさか」
「失礼ながら、確証は?」
「わたくしは、上様を心よりお慕い申し上げているが、この婚儀に際しての幕閣の
そしてそれは、
「ですが、それすら言わされていない確証がおありで?」
「と言うと?」
「つまり……上さんを心よりお慕いしてあらしゃると」
「バカなことを……ここまでにわたくしは散々自分を曲げなければならなかった。
思い切り不快感を全面に出してやるが、実美も公知も、負けずに思い切り不信げだ。
「……よかろう。信じるも信じぬも、そなたらの好きにいたせ。だが、その代わり、先日約した口添えはなかったことにさせてもらう」
「宮様!?」
「もちろん、呼称の件は、わたくし
というか、あの翌日早速書いて、邦子に京へ届けるよう頼んだ。彼女は
文には、呼称の
「――が、そなたたちを庇うことはやめよう。無論、わたくしが呼称についての詔を辞退した件が、何事もないのに京へ届く可能性は低い。されど、わたくしの口添えのない状態でそなたたちが京へ戻ったのち、万が一まだ城内でわたくしの呼称が『和宮様』となっていない現状が主上の耳に入ったら、そなたたちはどうなるかな」
和宮が畳み掛ける内に、実美と公知の顔色は、見る
(あー、いい気味ね)
爆笑を
「――そっ、それはともかく!」
微妙な沈黙が落ちたのも刹那のことで、実美がそれまでの空気を叩き切るように咳払いする。
「こちらの用件の本題は、攘夷推進! それも速やかに
「万が一、即時ご返答、またはご説明がなき場合、
和宮は目を見開いた。
家茂の横顔も、似たようなものだ。彼は瞠目し、和宮に横目をくれる。
その表情は、険しいものだった。
***
家茂直筆の、『攘夷実行について説明するため、上洛する』旨の返答書を
和宮から兄帝に対する取りなしをやめる、という言葉に対する意趣返しにしては破壊力のあり過ぎる切り札――要は、攘夷を決行しなければ家茂と和宮は離縁させられるというそれには、和宮も、家茂さえ
ただの脅迫だと切って捨てるには、あまりにも危険が大きい。兄帝も朝廷も本来、この婚姻によって
対して、和宮たちは個人的な感情からだが、別れることなんてもう考えられないのだ。
「……本当なら、離縁を受け入れるほうがいいかも知れないけどね」
「何でそう思う?」
家茂は、以前とは違い、静かに確認する。
「だって、そうでしょ? 攘夷なんて実行すれば、異国との
呟く内に、鼻の奥が痛んで、制御する
「……無理だよ。今更あんたと別れるなんて、考えられない。あんたを失うくらいなら、ほかはどうだっていい」
濡れた頬を乱暴に拭って目を伏せる。
「……ごめん。軽蔑するよね、こんな……」
「……いや。
不意に手首を掴まれ、引き寄せられた。気付いたら、彼の腕の中にきつく抱き竦められている。
「……家茂」
「言ったろ。お前を手放さない為なら、主上に土下座だってできる。最悪、二人で逃げたっていいって」
折角引っ込めた涙がぶり返した。それを呑み込もうとする
「俺だって為政者失格だよ。お前と別れること考えたら……正直、民のことまで考える余裕なんかない」
「家茂……」
彼の名前以外何も言えず、和宮は縋るように彼の背に回した手で、必死に彼の着物を握り締めた。
「……けど、このまま済ます気もねぇよ」
「え」
耳元に囁く声音は、どこか物騒なものを
顔が見える所まで離れると、視線の先にあった彼の目は、不敵な笑みを浮かべていた。
***
キョトンと丸くなった目を見ながら、家茂は彼女の顔に、自分のそれを伏せる。軽く口付けて、そのまま彼女を押し倒した。
「えっ、ちょっ……家茂?」
戸惑ったような声に、答える気はない。彼女の帯を解いて、その隙間から掌を滑らせる。
「家茂ってば、急に何……!」
反論する唇を今度はやや強引に塞いで、抵抗する手を押さえ付けた。
呼吸の限界まで口付けた唇を離すと、先刻までとは別の意味で潤んだ
「家、茂……?」
名を呟く声に、すでに甘いものが含まれていれば、家茂としては煽られるだけでしかない。
「……嫌?」
何に対する質問か、彼女に分からないはずがない。
彼女はたちまち眉根にしわを寄せ、困ったように眉尻を下げる。
「嫌ならやめるよ。ここんトコ、ずっとお預けだったけど……無理強いは趣味じゃねぇから」
「……バカ……」
彼女が手首に力を入れたので放してやると、彼女の両腕が家茂の首に回る。引き寄せられ、彼女から口付けられたのを了承と取った家茂は、顔を傾け直して、自分からも彼女の唇に、自分のそれを押し付けた。
今すぐ彼女が欲しい――これは、半ば本音だった。
けれど、もう半分は、彼女に言えないことを誤魔化す為だった。それと、少しの
だから、彼女が結局、気を失うまで抱き潰した。
今は意識を手放した彼女の頬に、家茂は緩く握った拳をそっと這わせる。手枕して彼女の隣に横になっていた家茂は、伸び上がるようにして彼女に顔を近付け、唇を啄んだ。
どんな状況でも、やっぱりその唇が甘く思えることに苦笑する。
そっと息を
(……このままじゃ済まさねぇ)
脳裏で呟いた先にいるのは、先日やって来た勅使の二人だ。
建前上、勅使には『攘夷について説明する』という帝への返信を持たせたが、それが不可能なのは前々から承知だ。しかし、その約定の
その弱みがあるからこそ、朝廷にいいようにいたぶられる今の状況に、家茂は苛立ちを覚える。結局、その約束の下にしか、自分たちの夫婦関係は成り立たないのかと思うと、不条理に身が焦げそうだ。
もちろん、それがなければ、自分たちが出会うことはなかった。無理難題な感のある政治的な契約の結果、出会って愛し合うようになってしまったのだから、皮肉な巡り合わせとしか言い
それとも、朝廷は家茂と和宮が、互いの手を放せなくなることを見越していたのか。朝廷、延いては帝は、家茂に向かって『和宮を手放したくなければ早く攘夷をしろ』といくらでも脅迫できるのだから、結婚が成立する前より
無意識に唇を噛み、突いた拳を握り締める。
(くっそ……!)
中性的な美貌に不似合いな文句が、脳裏でだけ吐き捨てられた。
まだ婚儀から一年も経たないのに、家茂は時折、政略だけなかったことにできないかを考えてしまう。何のしがらみも枷もなく、ただの夫婦として和宮と暮らしていけたらどんなにいいだろう。
将軍でさえなければ、そもそも攘夷なんて気にせずにいられる。が、将軍でなければ、彼女と出会えなかった矛盾には、胃が捩れそうになる。
攘夷と引き替えに彼女と一緒になったという立場上、
いざとなれば本当に、二人で駆け落ちする日が来ないとは言い切れなくなって来た。
言うまでもなく、家茂は和宮と想いを通わせてからはずっと、いつもどこかでその覚悟はしている。今のような生活はできないかも知れないけれど、彼女が一緒なら気にならない。
もっとも、狭い日本国内では逃げ回るしかなく、異国への逃亡も視野に入れる必要はあるが、すでに英語と蘭語は修得済みだ。言葉ができれば、あとはどうとでもなるだろう。
和宮も聡明な女性だから、教えれば言語は修得できると思っている。けれども、今の彼女が異国をどう思っているかは分からないし、このことはまだ家茂が個人的に考えているだけなので、ギリギリの手段だ。
(……第一、真っ先に逃げるのも、やられっ
立てた膝の上に肘を突き、前髪を掻き上げる。
理由はどうあれ、朝廷の者たち――帝も含めた、京の皇宮に棲む者たちは、またも和宮の人生を壊そうとしている。彼女の意思を頭から無視して、彼女が
(冗談じゃない。
苛立った吐息と共に腕を下ろし、眠る和宮のほうへ視線を落とす。と、横たわった彼女の右前腕部に走る、刀傷が目に入った。
家茂は眉を
熾仁と慶喜が襲撃して来た夜に受けた傷は、抜糸はとうに済んでいるものの、まだ痕が薄く残っていた。
(……何とかこのまま消えてくれりゃいいけど)
白くて滑らかな彼女の肌に、見るからに痛々しい刀傷など残しておきたくない。それも本音だが、もっと奥にある本心は、
彼女の身体に痕を残していいのも触れていいのも、自分だけだ。彼女を泣かせるのさえ自分以外の人間がするのが許せない、とまで考えて、家茂はふと我に返る。何だかもう狂気染みていて、自分でも
(……アホくさ。何考えてんだろ、俺)
溜息を
「……悪い。起こした?」
苦笑しつつ、彼女の頬へ指先を滑らせる。彼女は、小さく首を振って、自分も家茂へ手を伸ばした。
「……ごめん。無理、させたよな」
いつだかも同じことを訊いた気がする。状況が違うとは言え、彼女に関しては自分の理性は本気でまったく当てにならないことを再確認した気分で、家茂はまた小さく溜息を漏らした。
だが、和宮はこれにも「ううん」とまた横へ頭を振る。家茂の背にしがみつくように回された彼女の腕に、力が込められるのが分かる。
「……平気」
それに、何と返していいか分からなくて、家茂は抱き締めた和宮のこめかみへ、そっと唇を押し当てた。
「……家茂」
「うん?」
不意に呼び掛けられ、首を傾げた家茂に対する和宮の答えは、言葉ではなかった。胸元から伸び上がるように家茂に顔を近付けた彼女は、自身の唇を家茂のそれに押し当てる。
触れるだけの口付けは、温もりだけを残して離れたが、見える距離まで離れた彼女の瞳は、泣き出しそうに潤んでいた。
「
「……抱いて」
家茂が目を見開く
和宮はそのまま、覆い被さるようにして家茂に口付けた。繰り返される、辿々しい接吻に、彼女の望むまま
ふと、それが途切れて目が合う頃には、彼女の頬は濡れていた。口付けによる、生理的なそれではない。
「……どした?」
「……怖いよ、家茂」
頬を拭ってやる動きが、瞬時止まる。和宮はこちらの反応に構わず、まくし立てるように続けた。
「怖い。ねぇ、何であたしたち、周りに運命を握られてなきゃなんないの?」
「
「嫌だよ。二度と嫌。こんなに好きになっちゃって、どうして離れられるの。あたしたち、人形でも駒でもないわ」
「分かってるから、少し落ち着け」
先刻、まったく同じことを思った家茂は、首を伸び上がらせ、和宮を宥めるようにその唇を啄む。
目の前で取り乱されると、意外と冷静になれるもんだな、と脳裏でだけ呟いた。だが。
「落ち着いてられない! あたしは嫌よ、あんたと別れるくらいなら死ぬから!」
彼女の言葉に、家茂のほうも
瞠目した直後には、彼女の身体を押して天地を入れ替える。組み敷いた和宮の身体を抱き竦め、それ以上言わせないとばかりに激しく口付けた。
暴力的な衝動に任せ、彼女の口腔をめちゃくちゃに掻き回し、呼吸の限界を感じてやっとその唇を解放する。
「ッ、家、」
「……死なせるかよ」
「俺だって御免だ。二度と惚れた女を先に死なせるくらいなら、心中するくらいの覚悟はできてる」
「家茂」
「お前を死なせない為なら、何だってしてやる。将軍の座なんて惜しくない、最初から
けれども、将軍の座にいなければ、
「愛してる」
無意識に言って、また最初から深く口付ける。
息継ぎさえ惜しいほどに、角度を変えて接吻を繰り返す。
「家茂」
唇が離れた瞬間、和宮の潤んだ目が、家茂を見上げた。
「……ごめん。もう言わないから……今日だけいいから、朝まで放さないで」
「……
「何も考えさせないで。何も、考えたくないの、おかしくなりそう」
嗚咽の合間に続く必死の訴えを聞いていられなくて、家茂はまたその唇を自分のそれで塞ぐ。
「……分かった。何も考えられなくさせてやるよ」
思ってもみなかった、法的な離縁の危機。それが、自分たち以外の人間の意思で成されるなんて、確かに思えば気が狂いそうだ。
それを避ける為の策も、反撃も、最悪あの世へ逃げることも――今は、何も考えたくない。
この夜が明けたら、動こう。だけど、今だけは――脳裏で言い訳を繰り返し、家茂は愛しい妻の肌に溺れて思考放棄することを選んだ。
©️神蔵 眞吹2024.