第1話 下田逸郎「さりげない夜」

文字数 834文字

 うまれて初めて、自分の心の中、奥底… 自分でも分からなかった自分自身の何かに、触れてきた音楽。
 隠して、ごまかして、表面だけ、上っ面だけを、取り繕おうとして、薄氷踏む思いで、生きていたのだけれど、その氷、スッと、はがされた。いや、自然に、さっと、溶かされた。ぼくは他愛もなく、涙ぐむしかなかった。

 下田さんとの「出逢い」は、この「さりげない夜」。
 小学6年か、中1の時、兄のステレオの、大きなスピーカーの上に、このアルバムがあった。
「男が、綺麗に見えるとき。それは、男が、素直になったとき」とか、帯に書かれていたと思う。

 夜の都会。雨と、ネオンがきらきら、輝いて、瞬いているけれど、男はひとり、途方に暮れている。どこにも、行けない。どこにも、自分の場所はない。「夜の雨」から、そんな情景が浮かんだ。

 下田さんとは、二度、お話をしたことがある。長野は鬼無里村で、ライブの後、その場で宴会になって、ぼくの座るテーブルの前に下田さんが座った。ぼくは「いのちをかけて、文章を書きたい」と言っていた。すると下田さんは、「いいじゃない、かけて」と、真っ直ぐぼくを見ながら、笑って、「オレ、いつか名曲書けるって、思ってるから」。

 二度目は、渋谷のライブハウスで。別れた妻と、子どもと、一緒に行った。演奏前に、客席にいた下田さんに、話し掛けた。子どもが「まだ保育園に行っていた頃、わたし、お父さん達とライブに来たんですけど、最後の方で、たぶん眠くなって、泣き出しちゃいそうになったらしいんです。そしたら下田さん、マイクのスイッチ切って、歌ってくれた、って、あとから聞きました」と言うと、下田さん、ニヤニヤして、「あ、下田さんって、いい人なんだねえ」。みんなで、大笑い。

 … この「さりげない夜」で、ぼくはギターの美しさを知った。こんなに、きれいな音が出るんだ、と思った。音楽を聴いて、本気で涙ぐんだのも、このアルバムが最初だったと思う。
 心に入ってくる、うた。初めての、体験だった。
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