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文字数 3,323文字
チェックインを済ませて、部屋に入った私たちは、余計な準備などはすべて省いて抱き合った。
何度も唇を重ねながら、引きはがすように洋服を脱いだ。彼は途中で私の両頬に手を添え、濃厚なキスを始めたので、私が彼のシャツのボタンを外し、ベルトに手をかけた。
昔、『恋におちて』というハリウッド映画をレンタルして観たことがあるが、主人公の男女が久しぶりに会い、部屋で二人になるなり激しいキスをしながら洋服を脱いでいくシーンがあって、当時高校生だった私には、いい大人がそこまでの欲望をむき出しにして事に及ぼうとしている姿がとても生々しく、滑稽にすら映った。ところが今、まったく同じことをしている自分がいる。
映画では、主人公たちは確かその場では結ばれることはなかったという記憶があるが、もちろん私と彼は違っていた。
夕食がまだだったにもかかわらず、部屋についてからたっぷり二時間あまり、溺れるように互いを求め合った。
過去に付き合ってきた男性は決して多いとは言えない私だが、それでもその何人かとは肌を重ねていた。
彼とも今日が三度目だったが、これほどまでに熱い欲望が全身を駆けめぐり、私を大胆にしたことはなかった。それにはちょっと、彼も驚いたようだった。
次はいつ会えるか分からない、いつ抱いてもらえるのか分からない。
その不安が私を怯えさせ、ひとつひとつの行為を激しいものに変えてゆく。
生々しかろうが滑稽だろうが、これが本当の姿なのだ。彼の心が欲しい、身体が欲しい、私のすべてを奪って欲しい。今はただそれだけ。
私は彼に身体をゆだねながら、あのときの高校生だった自分に「もう少し待ってなさい、あなたには時間が必要よ」と心の中で言っていた。
少しの間でも彼と離れているのが嫌で、彼がベッドを離れて飲み物を取りに行ったり、バスルームに行くときは、必ずキスをせがんだ。
彼はちょっと呆れていたが、いつも一緒にいられるわけではないのよと私が言うと、じゃあ、と私に向き直って、その都度ファースト・キスのように丁寧な口づけをしてくれた。
それで、私はますます彼と離れることが怖くなった。
九時近くになって、ようやく私たちは外出し、ホテルの近くのダイニングカフェで遅い夕食を摂った。私はあまり食が進まなかったが、昼間のことがあったので彼は心配し、もっと食べるようにと言い続けた。
──本当はね、胸がいっぱいで食べられないの。
こんなこと、ここでは言えるわけがなかった。
部屋に戻ると、さすがに私は何度か欠伸が出そうになった。その都度何とかこらえたが、おそらく目蓋が半分くらい閉じかけていたのだろう。彼に、
「少し眠れよ。いくら何でも完徹ってわけにゃいかないぜ」
と言われて、ちょっと恥ずかしくなって眠ることにした。本当は彼との時間を一分一秒でも無駄にしたくなかったが、彼の言う通り、明日も仕事がある以上それは無茶というものだ。
ベッドに横になり、ブランケットに包 まった私に添い寝をしながら、彼は私の頬に手を添え、そのまま親指で唇をそっと撫でてきた。私が「おやすみのキス?」と訊くと、彼は小さく首を振って、ブランケットをめくって両腕でしっかりと私を抱き寄せ、「……こっちの方がいいだろ?」と言った。私は腕を彼の背中に回し、胸に顔をうずめるようにぴったりとくっついて目を閉じた。
──うん。これだったら、眠ってもいい──
たぶん、二時間くらいは眠ったのかも知れない。
私が目を覚ますと、彼がちょうどバスルームから出てきたところだった。
上半身裸で腰にバスタオルを巻き、着ていたシャツを洗ったらしく、ハンガーに掛けて持っていた。
「あれ、もう起きたの」
彼はベッドでもぞもぞと動いている私に気づくと、少し目を細めた。
「あなたは眠ってなかったの?」
「いや、一緒に寝た。ついさっき起きたんだ」
「シャツ洗ってたんだ」
「ああ。一日着てたら、もう汗でぐっしょりだ」
彼はハンガーを窓際のカーテンレールに掛けると、少しだけ窓を開けた。
薄めのブルーのクレリックシャツが、入ってきた風に揺れた。衿はデュエボットーニで、おまけにボタンダウンというところが、まるで刑事らしくない。
「素敵なシャツなのに、手でごしごし洗っちゃって良かったの?」
「しょうがねえよ。日帰りのつもりだったから、着替えはないし。こうやっときゃ明日には乾くだろ。ノンアイロンだから、あんまり皺も目立たねえしよ」
彼は言うと私に振り返り、バスルームを指さした。
「あっちには、パンツも干してあるからな。盗むなよ」
盗まないわよ、と私は顔をしかめた。
「おまえは大丈夫なのか。洗ってこいよ、盗まねえから」
「わたしは替えを持ってるわ」
「え、それってなんだか用意がよくねえ?」彼は訝しげな表情を浮かべた。
「同じ刑事なんだから、分かるでしょ」と私は言い返した。「泊まりになることだってしょっちゅうだもの」
「分かってるって。ムキになっちゃってよ」と彼は笑った。
何だろ、わたし簡単にからかわれてる。
私はブランケットから手を伸ばした。こっちへ来て、と言う意味だった。
彼は小さく溜め息をつくと、一人掛けのソファとテーブルの前を横切ってこちらへ来た。ところが、なぜか目の前のガラステーブルで膝を強く打ち付けると、
「痛てえっ」
と向こうずねを抱えてベッドに倒れ込んできた。
「大丈夫?」私は思わず身を乗り出し、足下のバスローブを羽織った。
「……大丈夫じゃねえ」ベッドに顔を伏せたままの彼が言った。
「どうやったら、あれにまともにぶつかれるの?」
彼は顔を上げた。苦痛で口元が歪んでいた。「コンタクト外したから」
「見えないんだ」
「透き通ったものは特にな」
「眼鏡は?」
「持ってきてる。カバンの中」彼は言うと二人掛けのソファに置いてあった自分のカバンを指さした。「取ってくれ」
私はベッドから這い出して、部屋の一番奥にあるソファまでいくと彼のカバンを開けて黒い眼鏡ケースを取り出した。戻ってきて、ようやく起きあがった彼に渡した。
細めのスクエア・フレームの眼鏡を掛けた彼は、「見えた」と言うとそばに立っている私の手を取って引き寄せた。私は彼の膝の上に腰を落とした。
「俺たち、今日何回キスした?」
私を腕の中に抱え込んで、彼は私の耳に囁いた。
「分からないけど……五十回くらい?」
「じゃあもうじゅうぶんだな」
私は首を振った。
「唇が腫れちゃうよ」
そう言いながらも、彼はバスローブから覗いた私の首筋にキスしている。
私は彼の首に腕を回し、彼に向き合う姿勢を取った。彼は私のバスローブを脱がせると、裸になった身体を倒して覆い被さってきた。
私は今、掛けたばかりの彼の眼鏡を外すと、ヘッドボードの棚に置いた。
「やっぱり、こっちの方がいい」私は言った。
「インテリっぽくて良かったと思うけど」
私は頭 を振った。「あなたの素顔の方が好き」
「そりゃそうだろ。だって俺の顔、ほぼ完璧だもん」
「それはまたたいそうな自惚れね」
私は言うと人差し指で彼の鼻を触った。「そのうちへし折られちゃうわよ」
「何度も折れてるさ」
彼は笑って、私の額にキスをした。「さ、じゃああと何回?」
「あと五十回」
「まさか。朝になっちまう」
「まだ一時半よ」と私はすねるように言った。「……夜が明けてからのことは言わないで」
「……分かった」
一瞬だけ真顔で答えた彼は、すぐに甘い笑顔になって「一回目な」と言うとゆっくりと顔を近付けて、今までよりもずっと丁寧に、包み込むようにして唇を合わせてきた。
あと四十九回。彼が本当にあと五十回キスしてくれるとしても、残りは
彼には言わないでと言いながら、私はすべてが終わったあとのことを考え始め、身を切り刻まれるような悲しさに襲われていた。
※『恋におちて』(Falling In Love)……1984年 アメリカ ユニバーサル映画
何度も唇を重ねながら、引きはがすように洋服を脱いだ。彼は途中で私の両頬に手を添え、濃厚なキスを始めたので、私が彼のシャツのボタンを外し、ベルトに手をかけた。
昔、『恋におちて』というハリウッド映画をレンタルして観たことがあるが、主人公の男女が久しぶりに会い、部屋で二人になるなり激しいキスをしながら洋服を脱いでいくシーンがあって、当時高校生だった私には、いい大人がそこまでの欲望をむき出しにして事に及ぼうとしている姿がとても生々しく、滑稽にすら映った。ところが今、まったく同じことをしている自分がいる。
映画では、主人公たちは確かその場では結ばれることはなかったという記憶があるが、もちろん私と彼は違っていた。
夕食がまだだったにもかかわらず、部屋についてからたっぷり二時間あまり、溺れるように互いを求め合った。
過去に付き合ってきた男性は決して多いとは言えない私だが、それでもその何人かとは肌を重ねていた。
彼とも今日が三度目だったが、これほどまでに熱い欲望が全身を駆けめぐり、私を大胆にしたことはなかった。それにはちょっと、彼も驚いたようだった。
次はいつ会えるか分からない、いつ抱いてもらえるのか分からない。
その不安が私を怯えさせ、ひとつひとつの行為を激しいものに変えてゆく。
生々しかろうが滑稽だろうが、これが本当の姿なのだ。彼の心が欲しい、身体が欲しい、私のすべてを奪って欲しい。今はただそれだけ。
私は彼に身体をゆだねながら、あのときの高校生だった自分に「もう少し待ってなさい、あなたには時間が必要よ」と心の中で言っていた。
少しの間でも彼と離れているのが嫌で、彼がベッドを離れて飲み物を取りに行ったり、バスルームに行くときは、必ずキスをせがんだ。
彼はちょっと呆れていたが、いつも一緒にいられるわけではないのよと私が言うと、じゃあ、と私に向き直って、その都度ファースト・キスのように丁寧な口づけをしてくれた。
それで、私はますます彼と離れることが怖くなった。
九時近くになって、ようやく私たちは外出し、ホテルの近くのダイニングカフェで遅い夕食を摂った。私はあまり食が進まなかったが、昼間のことがあったので彼は心配し、もっと食べるようにと言い続けた。
──本当はね、胸がいっぱいで食べられないの。
こんなこと、ここでは言えるわけがなかった。
部屋に戻ると、さすがに私は何度か欠伸が出そうになった。その都度何とかこらえたが、おそらく目蓋が半分くらい閉じかけていたのだろう。彼に、
「少し眠れよ。いくら何でも完徹ってわけにゃいかないぜ」
と言われて、ちょっと恥ずかしくなって眠ることにした。本当は彼との時間を一分一秒でも無駄にしたくなかったが、彼の言う通り、明日も仕事がある以上それは無茶というものだ。
ベッドに横になり、ブランケットに
──うん。これだったら、眠ってもいい──
たぶん、二時間くらいは眠ったのかも知れない。
私が目を覚ますと、彼がちょうどバスルームから出てきたところだった。
上半身裸で腰にバスタオルを巻き、着ていたシャツを洗ったらしく、ハンガーに掛けて持っていた。
「あれ、もう起きたの」
彼はベッドでもぞもぞと動いている私に気づくと、少し目を細めた。
「あなたは眠ってなかったの?」
「いや、一緒に寝た。ついさっき起きたんだ」
「シャツ洗ってたんだ」
「ああ。一日着てたら、もう汗でぐっしょりだ」
彼はハンガーを窓際のカーテンレールに掛けると、少しだけ窓を開けた。
薄めのブルーのクレリックシャツが、入ってきた風に揺れた。衿はデュエボットーニで、おまけにボタンダウンというところが、まるで刑事らしくない。
「素敵なシャツなのに、手でごしごし洗っちゃって良かったの?」
「しょうがねえよ。日帰りのつもりだったから、着替えはないし。こうやっときゃ明日には乾くだろ。ノンアイロンだから、あんまり皺も目立たねえしよ」
彼は言うと私に振り返り、バスルームを指さした。
「あっちには、パンツも干してあるからな。盗むなよ」
盗まないわよ、と私は顔をしかめた。
「おまえは大丈夫なのか。洗ってこいよ、盗まねえから」
「わたしは替えを持ってるわ」
「え、それってなんだか用意がよくねえ?」彼は訝しげな表情を浮かべた。
「同じ刑事なんだから、分かるでしょ」と私は言い返した。「泊まりになることだってしょっちゅうだもの」
「分かってるって。ムキになっちゃってよ」と彼は笑った。
何だろ、わたし簡単にからかわれてる。
私はブランケットから手を伸ばした。こっちへ来て、と言う意味だった。
彼は小さく溜め息をつくと、一人掛けのソファとテーブルの前を横切ってこちらへ来た。ところが、なぜか目の前のガラステーブルで膝を強く打ち付けると、
「痛てえっ」
と向こうずねを抱えてベッドに倒れ込んできた。
「大丈夫?」私は思わず身を乗り出し、足下のバスローブを羽織った。
「……大丈夫じゃねえ」ベッドに顔を伏せたままの彼が言った。
「どうやったら、あれにまともにぶつかれるの?」
彼は顔を上げた。苦痛で口元が歪んでいた。「コンタクト外したから」
「見えないんだ」
「透き通ったものは特にな」
「眼鏡は?」
「持ってきてる。カバンの中」彼は言うと二人掛けのソファに置いてあった自分のカバンを指さした。「取ってくれ」
私はベッドから這い出して、部屋の一番奥にあるソファまでいくと彼のカバンを開けて黒い眼鏡ケースを取り出した。戻ってきて、ようやく起きあがった彼に渡した。
細めのスクエア・フレームの眼鏡を掛けた彼は、「見えた」と言うとそばに立っている私の手を取って引き寄せた。私は彼の膝の上に腰を落とした。
「俺たち、今日何回キスした?」
私を腕の中に抱え込んで、彼は私の耳に囁いた。
「分からないけど……五十回くらい?」
「じゃあもうじゅうぶんだな」
私は首を振った。
「唇が腫れちゃうよ」
そう言いながらも、彼はバスローブから覗いた私の首筋にキスしている。
私は彼の首に腕を回し、彼に向き合う姿勢を取った。彼は私のバスローブを脱がせると、裸になった身体を倒して覆い被さってきた。
私は今、掛けたばかりの彼の眼鏡を外すと、ヘッドボードの棚に置いた。
「やっぱり、こっちの方がいい」私は言った。
「インテリっぽくて良かったと思うけど」
私は
「そりゃそうだろ。だって俺の顔、ほぼ完璧だもん」
「それはまたたいそうな自惚れね」
私は言うと人差し指で彼の鼻を触った。「そのうちへし折られちゃうわよ」
「何度も折れてるさ」
彼は笑って、私の額にキスをした。「さ、じゃああと何回?」
「あと五十回」
「まさか。朝になっちまう」
「まだ一時半よ」と私はすねるように言った。「……夜が明けてからのことは言わないで」
「……分かった」
一瞬だけ真顔で答えた彼は、すぐに甘い笑顔になって「一回目な」と言うとゆっくりと顔を近付けて、今までよりもずっと丁寧に、包み込むようにして唇を合わせてきた。
あと四十九回。彼が本当にあと五十回キスしてくれるとしても、残りは
たったの
四十九回……。彼には言わないでと言いながら、私はすべてが終わったあとのことを考え始め、身を切り刻まれるような悲しさに襲われていた。
※『恋におちて』(Falling In Love)……1984年 アメリカ ユニバーサル映画