それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。
(新約聖書『エペソ人への手紙』第1章10節)
教義を”事実”として信じる愛花、教義にとらわれる必要はないと考える聡美。2人はキリスト教徒でありながら、信仰者としての歩みは対照的なものであった。
じゃあ、イエス様が起こした奇跡についてはどう思う?病気になった人を癒したり、パンと魚が増えたり、水の上を歩いたり……。
うーん、癒しの奇跡については、それに近い出来事があったのかも知れない。でも重要なのは、奇跡そのものよりも、その記述を通して聖書記者が何を伝えようとしたかだと思ってるわ。
じゃあ、聖書の記述そのものが事実かどうかについては……?
事実かどうかはそれ程重要じゃないと思ってる。私の場合は、聖書に書いてある内容が歴史的な事実だとは思っていない。でも、人としての生き方の指針がそこに記されているから、真実の書物なんだと思う。
サイッコラさんは、聖書に書いてあることが事実だと信じてるし、キリスト教の教義も事実だと思っている。でも、友岡さんは、聖書に書いてあることもキリスト教の教義も事実とは違うかも知れないけど、それが生き方の指針になると思っている。みたいな?
そう!そういうことなの。聖書が事実だとは限らない。でも人は、聖書を羅針盤にして生きていくことができる。聖書は真実だけど、事実である必要はないんじゃないかな?
それだと、結局聖書も神様の教えも”だだの道徳的なお話”になっちゃうんじゃない?
いやー、それでも私は神の存在を信じてるし感じてるし、単に聖書が道徳的な寓話と思ってるわけじゃなくて……伝われこの感じ。
2人は”信じ方”が異なるのみならず、”信じる”という概念そのものが違うように、陽太には思われた。教義や聖書を事実ととらえて”信じる”愛花と、教義や聖書を事実と考えず”信じる”聡美。2人の信仰の溝は深まっていくばかりに思われた。
沈黙が続き、愛花が腕を組んでうなり始めたが、そこで幸音が口を開いた。
ところで2人は、イエス様がどんな方だと思う?神学的な解釈というより、人柄っていうか人となりっていうか……。
イエスは、社会で疎外されている人々に寄り添い続けた。本当に人の痛みが分かる人だったと思う。だから私はイエスを救世主<キリスト>として信じている。
イエス様は、病気を持った人を癒して回ったし、徴税人や娼婦にも寄り添った方だった。苦しんでいる人の気持ちを分かってくれる方だと思うし、どこまでも見捨てない方だと思う。
幸音の表情がぱっと明るくなる。陽太もつられて驚きの表情になる。
愛花は何が一致したのかわからないという様子である。一方聡美は、概ね納得したようで、腕を組んでうなずく。
……なるほどね。イエスが弱くされた人にどこまでも寄り添うという点では、私たちの考えは一致している。多分どんなに信仰のスタイルが違っても、これを全否定する人はいないと思う。中には、イエスの厳しさの面も強調する人はいるかもしれないけど。
あー、そっかー。イエス様が優しくって苦しんでる私たちに寄り添ってくれるってとこだと、私たちの考えは一致してるんだね……。でもそれだけだと……。
イエスは自分の命を捨てて人々を愛し抜いた。超自然的な奇跡とか抜きにして、これって”奇跡”じゃない?普通の人道主義者<ヒューマニスト>でもここまでしないでしょ?社会の中で迫害された人々に寄り添って自分も迫害され、十字架刑のただ中にあっても、”彼らをお許しください”と自分を殺す人々のために祈る……。やっぱり私もイエスを”ただの人間”とは思ってないわ。
あー……。なるほど…………。でも、うーん。そっか。あー…………。
未だに釈然としない愛花。イエスの愛の行いそれ自体が奇跡的であるという、聡美の意見には納得できたが、かと言って自分と聡美の間に一致があるとは感じられない。そんなオーラが全身から滲み出ている。
うーん。イエス様の人柄について、私と友岡さんで考えが一致するっていうのか分かる。友岡さんがイエス様について、ただ単に優しい方ってだけじゃなくて、イエス様が地上にいたころの”生き方”自体も”奇跡的”って考えてるってことも分かった。でも、私にとっては、イエス様が神の子で、実際に色々奇跡を起こして、処刑された3日目には本当に復活して、天に昇って今も私達を見守ってくれるし、実際に助けてくれるっていうのは、譲れない一線なんだよねー。
一転して悲し気な表情になる幸音。愛花の反応を見て幸音が落ち込んだのを見た陽太は、もどかしい気持ちになる。陽太にとっては、キリスト教徒同士の相互理解なんぞどうでもよく、幸音が落ち込んでるのが嫌なだけであった。
うーん、難しいね。
(うわぁ……宗教ってめんどくせえ……。)
教派や個人によって、『この一線は譲れない!』ってのは違うよね。ある人は、この教義や伝統はそれほど重要じゃないと思ってても、別のある人は、『そこから外れたらキリスト教じゃなくなる』っていう程にその教義や伝統を大切に感じている。
キリスト教がいろんな教派に分かれてるのって、そのせいかも知れないねー。信じる相手は同じ神様なのに……。
手を頭の後ろで組んで反り返り、溜め息をつく愛花。
その時だった。小林と”オカルト研究会”の鷹尾と大谷が階段を上ってきた。1人の男子生徒を連れて。
放課後踊り場にいることは、愛花が”オカルト研究会”に伝えていたのである。
おー、愛花ちゃんとその仲間たちー!まだいたんだね!
早速サイッコラさんに治して欲しい人を連れてきたぞ。小林君に見つけてもらったのだが。
聡美は頭を抱える。『普通のキリスト教徒はそんなことしない』と言いたげである。
おう!なんか、小テスト前になると、いつもお腹痛くなるんだって。な、吉井ちゃん?
吉井と呼ばれた男子生徒は、おどおどした様子で頷く。雰囲気からして、小林の友人には見えない。
小林君の友達?
(なんか僕と同類っぽい感じがする……。)
いや、休み時間にトイレで調子悪そうにしてたから、声かけた!
吉井は不安そうにキョロキョロと辺りを見回す。突然チャラい風貌の男子生徒に、病気を治してもらえると連れてこられたのだから、不安になるのも当然である。
いたずらっぽい表情で笑う小林。愛花は小林の発言を歯牙にもかけず、吉井に話しかける。
小テストがある日は毎朝痛くなる……。それで、いつも授業前にトイレに行ってる。
合格点とれなかったらどうしようって思ったら、しんどくなるんだ……。
うん……。何かの拍子にカンニング疑われたらどうしようとか、ひどい点数とったら先生にどう思われるかなとか……。
実際には起きたことがないけど、すっごく不安になるんだね。
っていうことは、テスト前の不安と腹痛って、関係ありそう?
そっかー。今まで真面目に頑張ってきたもんね。何か突然トラブルがあったらどうしようって不安は辛いよね。
聡美はあからさまに警戒の表情で愛花を見つめる。癒しの奇跡なんて信じられないという風である。吉井も不安げに愛花の顔を覗き込む。
治してくれるのはイエス様。
祈る前に、吉井君に伝えないといけないことがあるけど、良い?
イエス様は吉井君を愛してる。吉井君がテストで良い点数を取ろうと、悪い点数を取ろうと、カンニングして先生から怒られようと、イエス様の愛は変わらない。
それでも、合格点を取り続けられているということは、もしかしたら、神様が吉井君に勉強する力を与えられたからかもしれない。でも、プレッシャーを感じながら苦痛の中で勉強しているとしたら、それは神様が望まれることじゃない。
警戒感を強める吉井。愛花の話に興味を持っているようには見えない。タチの悪い宗教勧誘に捕まった通行人のようなリアクションである。
一方小林は、にやにやしながら愛花を眺める。『お手並み拝見』という感じである。
(まあ、こうなるよねー。1年生は全員サイッコラさんの黒板事件目撃してるわけだし。)
テスト前の腹痛を治すには、テストへの不安をやっつけちゃうのが一番だよね。というわけで、不安から解放されるようにお祈りしよう!
吉井はあまり乗り気には見えない。小林に半ば無理矢理連れてこられたのであろう。
鷹尾を大谷は、半歩前に出て愛花を見つめる。その顔つきからは、これから起きる出来事への期待が感じられる。
ところで、幸音ちゃんは洗礼<バプテスマ>受けてたっけ?
うん……。ずっと教会に行ってないから、祈り方も忘れちゃったし。
幸音の戸惑いも聡美の忠告も無視する愛花。幸音の方を見て、笑って見せる。
おお!愛花ちゃん、今度は別の子に奇跡を起こさせるのか!
幸音は吉井のもとに歩み寄る。が、どうしたらいいかわからず凍り付く。
幸音の背後に密着する愛花。幸音の手をとり、吉井の肩にそっと置いた。愛花の手は、そのまま幸音の手の甲の上に置かれている。
(あ、サイッコラさんうらやm……けしからん!白附さんが嫌がってるじゃないか!)
幸音の耳元で囁く愛花。
幸音は顔を赤らめる。
幸音と密着している愛花に、密かにジェラシーを抱く陽太。心の中には負のオーラが充満している。
合格点をとれないことへの不安も、カンニングの疑いをかけられることへの不安も、全て出ていきなさい。
合格点をとれないことへの不安も、カンニングの疑いをかけられることへの不安も、全て出ていきなさい。
先生や他の人からどう見られるかという不安も、出ていきなさい。
先生や他の人からどう見られるかという不安も、出ていきなさい。
愛花は幸音から手を放し、一歩下がる。幸音も吉井から離れる。
今何も感じなくても大丈夫。逆に何か感じても大丈夫。幸音ちゃんの祈りが神様に届いて、イエス様が吉井君を不安から解放してくれるから。
明日の5時限目は漢字の小テスト……。一番嫌いなやつだ。
吉井は最後まで納得のいかない様子であったが、愛花と幸音に一通り例を述べ、帰っていった。小林、鷹尾、大谷の3人は、口々に明日起きる出来事への期待を語り、去っていった。
場に残ったのは、陽太と愛花と幸音と聡美。
満面の笑みで問いかける愛花とは対照的に、困り顔の幸音。
聡美は突然愛花の脇腹に肘打ちを入れる。
他の人いる前だから大人しくしてたけど、今言わせてもらうわ。白附さんに何させてんのよ!今まで見たことない祈り方だし!
(やっぱり普通のキリスト教徒はあんな祈り方しないんだ。じゃあサイッコラさんだけかな。)
だって、幸音ちゃんにもイエス様の力を体験してもらいたくって~。たしかにメジャーな祈り方じゃないけど……。
捨て犬のような表情で幸音に助けを求める愛花。
幸音は顔を紅潮させ、俯いている。
うん、無理強いしたはよくなかったね。
(よし、サイッコラさんに追い打ちかけてやろう。)
その時、幸音が何を語ろうとしていたか知る者は、1人もいなかった。