四十一の巻 沈みかけた船

文字数 2,517文字

 最後まで嘘を突き通した美麗(みれい)様が部屋を退出した。

 外の様子を探ろうと耳を澄ますと、シンと静まる部屋の中。
 聞こえて来たのは待機していたであろう、奥女中達の声だ。

「美麗様、御湯殿(おゆどの)に参られるのですか?」
「それとも、御用所(ごようどころ)でしょうか?」
「またこちらに戻られるのですよね?」
「お黙り、帰るのよ」

 苛々(いらいら)とした不機嫌さをもはや隠そうともしない美麗様の返答に、ハッと息を飲む奥女中達の声が響く。そしてバタバタと、普段ならばあり得ない、大きな足音を立てた集団が遠ざかって行った。

 事情を知らない奥女中達はだいぶ困惑している様子だ。

 (無理もないよね)

 奥泊(おくどま)りを拒否されたなんて、前代未聞(ぜんだいみもん)の事態なのだから。

「さて、ここまでは予定通りだな」

 美麗様がいなくなると、帷様が部屋に残された私達に向き直る。

岡島(おかじま)大義(たいぎ)であった」

 帷様はまず岡島様に礼を口にする。
 確かに今回の功労者は計画を練った私達ではなく、巻き込まれた形になった岡島様だろう。彼女の協力なしでは、そもそもこの場に正輝と私が立ち会う事すら出来なかったのだから。

「ご厚情(こうじょう)痛み入ります」

 恐縮した様子で岡島様が頭を下げた。

「お主も少しは美麗に仕返しが出来ただろうか」

 帷様が静かに問いかける。その問いに対し、答える事なく岡島様は畳に額をつけるほど、深く頭を下げた。

伊桜里(いおり)様の事は、本当に残念な事でございました。全て私のせいだと、心しております」
「お主のせいだけではない。伊桜里が抱えた闇に気付けなかった私もそうだし、大奥で勤める者、皆がそれぞれ己を責めているのは理解している」

 帷様が胸の内を吐き出しながら、岡島様を(かば)う。

 (そっか。そうだよね)

 帷様は大奥で「帷ちゃん」として過ごす中で、奥女中たちが今でも伊桜里様の死を(いた)む気持ちに触れる事が出来たのだろう。

 それは決して、表や中奥にいては気付けないこと。
 帷様が女装をし、大奥に忍び込んでいたから、気付けたことだ。

「お前が誰よりも世継ぎを残さねばと望み、そしてその責任を感じている事は重々承知しているつもりだ」
「けれど、私は……」

 顔をあげた岡島様は言い辛そうに(うつむ)く。

「まだ迷っておるのか。いくら天花院(てんかいん)殿がお前を欲しがっておっても、私はお主を彼女に譲るつもりはない」

 帷様が口にした言葉に私は驚く。何故なら初耳だったからだ。

 話の流れからすると、岡島様は大奥での奉公を辞退し、西の丸にいる天花院様の元に行きたいと思っていということだろうか。

 (それほどまでに、伊桜里様の死に責任を感じていただなんて)

 勿論、最近大奥に潜入した私には、伊桜里様と岡島様が紡いでいた関係はわからない。けれど、私の中の岡島様は、いつだって胸を張り威厳(いげん)に満ちた顔で、奥女中の先頭を(りん)とした姿で歩いている人。そんな強い女性である印象を勝手に抱いていた。しかし今目の前にいる岡島様は、弱々しく、迷いを抱えた普通の人に見える。

 (帷様だけじゃなく、岡島様もなんだ……)

 伊桜里様の死によって、心を砕かれた人は多く存在する。それは伊桜里様という人物が、いかに素晴らしい人格者だったかという証明でもある。

 (私が死んだら、ここまで影響は大きくないだろうな)

 家族と、伊賀者。流石にその人達は悲しんでくれると信じたい。けれど多くの人間にとって、私の死は江戸中をウロチョロするネズミが一匹駆逐(くちく)された程度のことだろう。

 私なんて、その程度でしかないのが現実だ。

 (って、私の事はいいってば)

 暗く落ち込みそうになる気持ちを、心から消し去る。

 そもそも母殺しの罪を背負って産まれてきた私だ。誰かにその死を悲しんでもらおうだなんて、おこがましいにも程があるというもの。

「公方様のお考えに背くつもりはございません。しかし私の心は帆が破れ、沈みかけた船のようでございます。そのような状態の者が大奥にいて良い道理がございません」

 岡島様は苦しそうな声を出す。

「では問うが、お主は例え沈みゆくかも知れぬ船だろうと信じ、乗船している仲間を見捨てるつもりなんだな?」
「それは……」
「岡島、よく聞け。私はな、自分の大切な者が傷つけられる事を何よりも嫌う。たとえそれが誰であろうとだ。私が大切に思う者を害する者がいるのであれば、容赦はせぬ。だから伊桜里の件はきっちりと方を付ける」

 まるで自分に言い聞かせるかのように、帷様は力強く言い切る。

「そして、全てが片付いた時。お主が未だ、沈みゆく気持ちに囚われたままと言うのであれば、天花院殿の元に参る件を一考しよう」
「ご厚情痛み入ります」

 深々と岡島様が頭を下げる。

「しかし、岡島。今日のお前は私が思う以上に、しっかりと美麗を窮地(きゅうち)(おとしい)れていたぞ」
「そうですね。正直、彼女の素行には随分と悩まされていました。ですから仕返しのつもりで、今宵(こよい)は楽しくもありました」

 顔をあげた岡島様がようやく笑みを漏らす。しかしすぐに顔を暗くする。

「そもそも私があの娘を連れ込まなければ、このように公方様のお手を煩わせる事もありませんでした。その罰はしかと受けたいと、心しております」

 岡島様はまたもや深く頭を下げる。

「色々思う事もあるだろう。しかし、もし仮に、お前が大奥を去りたいと望むならば、私と約束して欲しい」
「公方様との、ですか?一体どのような内容でしょうか」

 顔を上げた岡島様の表情に緊張が走る。

「一人で抱え込むな。気軽に相談しろ」
「私などが、公方様の御許(おんもと)におうかがいするなど、(おそ)れ多く……」

 驚いた顔で小さく首を振る岡島様。

「畏れ多くなどない。当たり前の事だ。私はお前の(あるじ)なのだからな」
「……かしこまりました」
「ああ、頼むぞ」
「……はい」

 小さく答えた岡島様の目から、涙の粒がぽろりと一つ落ちた。

「ここからは、俺たちでケリをつける。お前は疲れただろう。ゆっくりと休むといい」

 帷様が岡島様に優しく(ねぎら)いの言葉をかける。

「では、お言葉に甘え、失礼いたします」

 岡島様は少しやつれたような表情で、しずしずと部屋から出て行った。その姿は、大奥総取締役とも言える、御年寄の堂々たる風貌(ふうぼう)や雰囲気を、岡島様からすっかり消し去ってしまっていた。私は密かにそれを残念に思うのであった。
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