ラムネ

文字数 1,508文字

それは、こんな晴れた夏の日のことだった。

 顔を洗いに行こうと洗面所へ向かう。ふと覗き込んだ鏡には、何かを失ったような顔をした自分がいた。ミーン。ミーン。外ではけたたましく夏の音が響いている。そんな音には構わず、僕は洗面台で顔を洗う。冷たい水が肌に沁みた。うちの家は旧名家だった。祖父の時代にはそれなりに立派な名声を保っていたが、今となっては古い屋敷のような佇まいをしたぼろ家が残るのみである。祖父が死んだ相続の際、親戚中誰も喜んで手を上げなかったのだが、一方の僕はぼろ家ながらも日本庭園の面影を残した、うっそうと茂る合歓の木陰が縁側に差し込むこの家が大好きで、受け継いだ。この地域は地下水が豊かで、その透き通った水は生活用水としても利用され、夏でも冷たい水にあやかることができた。そういえば、と、冷蔵庫の中に冷やしたラムネ水が入っていたことを思い出す。ラベルには「銀ラムネ」と旧来からの古びたデザインの絵が施されている。僕は昔から変わらないこの絵を結構気に入っている。栓を開けるとカシュっと軽い音が耳に心地よく届く。零れそうな泡にあわてて口をつける。ごくりとのどを鳴らさずに舌の上でゆっくりと転がしてみる。ぱちぱちとした音が鳴り、いささか心地よい痛みを感じる。なるほど、味わってみると幼いころとは少し違う味な気がした。
 僕は昨日、切望し、あれほど夢であった教師という職を手放した。畳に無造作に置かれた深い色の欅の机には、ずいぶん前から手付かずで放置された書類が散乱している。丸付けが途中であった生徒の試験答案用紙である。まだ半分も完了していない。教師を辞めたあの日、僕は、我慢の限界だった。僕のことを信頼してくれている生徒たちには悪かったが、それでも僕は、教師という職に絶望し、落胆し、辞める決断を下すほかなかった。ふと、傍らにおいてある昼寝用の枕に視線を落とす。スマートフォンの通知ランプが点滅しているのがわざとらしく目に付いた。学校を飛び出てきた昨日の昼から着信が幾度も鳴っていたことは承知していたが、僕はあえて電話をとらなかった。改めて手に取り録音されたメッセージを数秒再生したが、予想どおりの内容に途中で消去し、その代物を再度枕元に投げた。
 教師生活は日々多忙で、自分に自由な休みなどなかった。来る日も来る日も生徒たちのための授業の準備で毎日が忙しく、好きだった海岸沿いの散歩も、きままな釣りも、天体観測も、できる時間など微塵もなかった。ほかの教員はロボットのように同じ毎日を繰り返していることに何も疑問を持たない様子で、時折お茶を入れてくれる若い新任の教員に愛想よく会釈する様が印象的だった。散乱した解答用紙に混ざって開かれた手帳を一瞥する。ぽっかりと空いた予定はいつぶりだろうか。教師になろうと思ったあの日、それはこんな晴れた夏の日だった。 その日はこんな日が来るなんて思いもよらなかった。あの時、暑い陽射しで熱がこもった僕の髪に風を吹き込むように、さらりと撫でたあの大きな手を、鮮明に覚えている。先生も、僕が抱えたように、息苦しく、思いに押しつぶされることがあったのだろうか。あの時の先生の顔は、思い出そうとしてもまぶしくて見えない。
 さあ、、 と、風に吹かれ、 いつの間にか誘われるように縁側に出ていた。そのまま冷たい 風が僕の髪を撫でた。夏の暑さを忘れたような、合歓の木の蒼ゝとした、心地よい湿気を含む爽やかな 、一瞬の風だった。思いがけず、僕は走った。気が付いたら垣根を開け放ち、走りだしていた。僕を止めるものは何もない。そうだ、このまま海へ行こう。眩しく晴れた夏の、あの日のように。
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