まわる半島

文字数 3,866文字

 俺は半島人だからね、というのはその男によるとジョークであるそうだ。

 飲み会でそう言っていた。何か悪化している国際情勢に絡んだ話と思わせておいて、能登半島ね、と言うのが笑いどころらしく、周りの連中はちゃんと笑っていた。
 国際情勢のほうは、日本にも海の向こうにも互いの悪口を言う人たちが近年どんと増えて、とても悲しいことになっている。それを冗談のネタにするなんて、ひどく趣味が悪い。

 という愚痴を、飲み会に行けなかった、少しだけ気を許した女性の先輩に言ったらそいつにバレている。それでかなり会社の居心地は悪くなった。

 Iターン募集、というので、ダーツを投げるように適当に選んだら就職は金沢になった。悪くはないと思った。東京という大都市から何とは無しに離れたいとは思ったが、さりとて、とてつもなく辺鄙な田舎にこもって仙人になりたいわけではない。
 近代では発展していないかもしれないが、何しろ加賀百万石である。昔都会だったところというのは、そこそこ便利でそこそこ不便で、歴史や風情がありそうではないか。

 東京には単に、自分を繋ぎ止めるものがなかった。だから適当に流れてくればそこそこ居心地のよい空間が作れるかと思ったがこのざまである。
 たかがひとりの男に生活をかき乱されるというのはくだらない体験だった。

 男は日高と言った。下の名前は知らない。

「健介っていいます。日高健介」そう言ってその男はよりによって私に近づき始めたのである。
 下の名前を知らないことを正確に言い当てるような口調はますます私を不快にした。
「こっちへ来て観光とかしました? 良かったら案内できますよ。兼六園とか、ベタだけど」

 私を口説いているように見える。が、それは自意識過剰というやつであって、どこまでも親切な人になりたいたぐいの人かも知れない。
 親切になりたい人が実際には親切でないことも、親切ではあるがいい人ではないことも世の中にはままあるから、あまり迂闊に首を縦には振れない場面だ。とりあえずやり過ごした。

 相談するにしてもあの先輩に相談したらまたひどいことになるので、東京のヤツヤナギさんにメールを送った。ヤツヤナギさんは友達のいない私におそらく唯一ぐらいでいる友達である。世の中の人は大抵いい人とは限らない中、ヤツヤナギさんはいい人である。

 そのヤツヤナギさんが、とりあえず案内してもらったら、と返事を寄越すので、この世に信頼に足る人は存在しないという結論に達した。
 だがもう少しメールを読み進めると、もし口説かれていてしかもあなたがその人を嫌いなのなら、少し付き合った後で振ったほうがその人が苦しんで楽しいじゃない、などと書いてあった。それもまあもっともだと思い、自分はあいつをもてあそぶのだ、という言葉の選び方をして自分を納得させた。やはりヤツヤナギさんは頭がいい。


 島の中には神様がいるんです。

 宗教勧誘は警戒せよ、というのを一般常識として育った一般的な日本人である。少し身構える物言いだが、日高は話し続ける。
 一年中美しく見えるよう作られた庭園だそうだが、紅葉しているのを見ると、ベストシーズンに来たのではないかと思える。他の季節を見たわけではないから無責任な考えだが、そう想像する。

「あの中にあるのが、蓬萊島」日高はそう言って指し示す。「そういう、神様の住む島に見立てて作られたんです。それが神様を崇めてるのか、神様を飼おうとしているのかよくわからないけれど」
 神様というのは単に、歴史上の造園の話らしいので警戒を解く。
「でもね、蓬萊島はもうひとつあったんですよ。この霞ヶ池じゃなくて、もうひとつの瓢池のほうに」
 そう言いながら、問題の瓢池のほうに歩いてゆく。

「ここには、最初三つも神様のいる島があったんです。でも、今はすっかり忘れ去られている。ひとつだけ島の状態を留めているけど……あの松が植わっているところ。蓬萊島があの島なのか、他のところなのかも何人かに訊いてみたけどはっきりしなくて」

 日高は、この地に割と思い入れがあるようだ。地元民だからなのか、正直自分としては美しいものを美しく一瞥してゆけばそれでいいように思うが、一応黙って聞いておく。自分の興味ばかり話し続けているきらいはあるが、もっと軽い男だと思っていたからそこは認識を改めた。

「二つの似たものが、片方は遠い存在になるのは悲しいですね」

 日高の視線は瓢池も兼六園そのものも越えて、妙に遠くに定められている気が一瞬した。だが、すぐに私の目をまっすぐに見た。
「お腹減りません? 食事にしましょう」


 結局私はその日、日高とデートというのものをしたことになる。
 別に付き合う気もないのに、あとで蹴落とせばいいのだと高をくくってデートをした、ということになるのだ。
 デートをしたその日にいきなり即物的な交わりを求めるような軽い男だと思っていたがそれもせず、ひたすら紳士的な態度を確認するだけだった。
 これがどういうことかといえば、愛情が湧いたわけではないが蹴落とすだけの牙を抜かれてしまったのである。残忍にはなれなくなった。
 というか、私はもともと残忍になりきれる人間ではなかった、などという考え方は傲慢でおめでたく、子供じみているだろうか。


 今度は海に誘われた。
 秋に海を見るというのは明らかに海水浴ではない。
 だが私はそもそも日本海というものを見たことがなく、少し興味を惹かれた。

 だが易々と受けると、日本海に惹かれたのではなく日高に惹かれたように見えてしまう。それは避けたい。だが日高はさらに情報を追加した。

「砂浜をドライブできる場所って世界でも少ないんです。それが日本に唯一、石川県にあるんですよ。あと、日本海側って地理的に水平線に夕日が落ちるのが見れるんです」

 私は日本海と砂浜ドライブと水平線に落ちる夕日に知的好奇心を刺激されただけだ。


 実に長距離を走れるものだ。
「8㎞ですね」この男はまた見透かしたような言い方をする。

 復路の中盤あたりで夕日が落ちてくるように日高は計算していたようだ。車を停め、外に出て夕日を眺める。人も車体も真っ赤に染まり、砂浜に影が大きく伸びてゆく。

「水平線の向こうで見えないけれど、そこをずっと越えたところに大陸があるわけです」日高はまた、兼六園で見せたような遠い目をしていた。「そこに半島もある。俺は思うんです。朝鮮半島を小さくしてぐるっと回転させると能登半島に似ていませんか」

 あまり形は覚えていない。日高はスマホで二つを図示して解説した。確かにわからないこともない。

「俺があなたに興味を持った理由を教えます。俺が半島人だって言ったとき、あなたは笑わなかったんですよ。あなただけが笑わなかったんです」日高の目はまっすぐに私派を見ていた。「俺はね、向こうの血筋なんですよ」

 どう反応していいかわからなかった。夕日のほうに目を逸らそうと思ったが、それはあまりに失礼だと思いこちらも正面から見つめた。

「あれを持ちネタにしたのは、その事実を隠すためです。あれで笑いを取っていたら、誰も俺がそうだとは思わないですよね。心は痛いけど。世の中の冗談というのは、全く面白くなくても笑っておけば間が持つものだから、皆適当に笑ってくるんです。でもあなたはとても嫌な顔をしました。だから俺はもっとあなたと話したいと思いました」

 大変でしょう、と言ったら良いのだろうか。民族としての誇りもあるだろう人は、不幸な人だろうか。
「今は、――大変な時代になっていますね」
 時代とか世の中とか、個人とは無縁ではないが遊離した言葉にして返す。
「そうですね。国の関係はかなりひどくなっています。俺は日本に生まれて日本に育って、日本語しか話せないけれど、血筋を忘れないわけにはいかない。でも、俺に流れている血は、ごくごく薄くかもしれないけど、特に日本海側の人たちには流れているんです。日本列島との交流は、もちろん対馬ルートが一番大きいんだけど、他のルートも日本海側は結構あるんですよ。能登は突き出ているから一層ね。だから、血は薄く流れているはずなんです」

 相変わらず私は返す答を持たない。そうやって、相手を重く受け止めること自体に彼は好感を持ってくれているのかもしれないけれど。

「日が――沈みます」私はそう返した。話題から逃げるような言動も彼は好意的に受け取ってしまうのだろう。そんな気持ちを申し訳ないと思ってもやはり好意的に受け取ってしまうのだろう。そういう人あたりの良さは、問題の血筋が身につけさせたものだろうか。
 すうっと水平線の向こうに太陽のてっぺんが消えてゆく。あたりは急激に暗くなる。
「俺と、交際してくれませんか」

 彼はきっと私という人間を買いかぶりすぎている。私はそんなに善い人ではない。だが、ならばあえてそれを目指して奮起することが彼の純粋な気持ちに応えるということに、なるのかどうか。

「――はい」

 善い人になるなど、まして好い人になるなど、私にそんな大それたことができるわけはない。だが、目指すぐらいなら大それてはいない。彼とずっと並んで歩いてゆけるかどうかはまだわからない。
 ただ、挑んでみたいとは思った。とりあえずは歩こうと思ったのだ。

 誇らしく突き出た、この半島で。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み