第1話

文字数 1,969文字

 松崎がそのレストランを訪れたのには理由があった。
 上場企業の役員である彼は連日の会議や他の重役からのプレッシャー、毎晩のように続く接待攻めで、ほとほと疲労が蓄積していたのである。

 彼には大学時代からの親友がいた。名を富田という。彼は社員が八名という小規模ながらも、業界内では一目置かれる程の証券会社を経営しており、噂によると年商は億を越えているらしい。
 富田も相当のストレスを抱えていたはずだが、半年ぶりにあった彼は五十代とは思えない程、元気に満ち溢れており、血色の良い肌の艶もまるで三十代。プレッシャーなんてどこ吹く風であった。
 会社の近くにある喫茶店で落ち合った松崎は、香り立つコーヒー片手に富田と昔ばなしに華を咲かせていた。
「……そういえばあの引退した教授、とうとう亡くなったらしいぜ。何でも大腸がんになったらしい」
「そうか、定年退職後も研究室で怒鳴り散らしていたらしいから、相当ストレスが溜まっていたんだろう。あれでも健康には気を付けていたみたいだが、やはりガンには勝てなかったか」
 松崎は遠い目をしながら感慨にふける。厳しいながらも時折見せる優しさをふっと思い出すと、熱くなる目頭を押さえずにはいられなかった。
「ところで松崎、調子はどうだ? 聞くところによると、最近、伸び悩んでいるらしいじゃないか。ライバル企業の躍進なんかでお前もストレスをため込んでいるんじゃないのか?」
「ストレス? ああ、常に抱え込んでいるさ。立場上仕方が無いと諦めているよ。いわば職業病みたいなもんさ」
 そうだ。松崎にとって職場でのストレスは避けがたい問題だ。会社だけではない。家に帰っても、妻や子供からのけ者にされ、家での番付はペットのシーズー以下だと言って良い。
「たまにはストレスを発散しないと、その内に教授みたく倒れても知らないぜ」
「富田。お前の方こそどうなんだ? 何でもまた業績を伸ばしているらしいじゃないか。一部上場も近いという噂まである。お前もかなりストレスを感じているんじゃないか?」
「俺は平気さ。何せストレス発散の必勝法があるからな」
「ストレス発散の必勝法? そんなものがあるのか」
 言われてみれば富田の顔色は悪くない。それどころかエネルギーに満ち溢れていて、清々しいオーラを放っている。前回会った時には松崎と同じように、いかにもくたびれ果てた絞り切ったレモンのような表情だったのは間違いない。このギャップはやはり必勝法によるものなのだろうか?
「実は隠れ家があるんだ」
「隠れ家?」
 その言葉を聞いて、松崎は卑猥な考えが浮かんだ。富田の奴、どこかのマンションで愛人を囲っているのだろうか。かつての自分もそうであったように。結局は妻にバレて修羅場になった事を思い出すと、いたたまれない気持ちがこみ上げてきた。
「お前まさか、スケベな想像してやしないだろうな。言っとくが全然違うぞ」
「じゃあ何なんだ? もったいつけずに早く教えろよ」
「レストランだよ」
「レストラン?」
「ああ、俺も知人から紹介されたんだが、調布に『隠れ家レストラン シークレット・ベース』ってのがあるんだ。今度連れて行ってやるよ」
「そんなに凄いのか? どんなところかは知らないが、たかがレストランだろ」
 正直、落胆の色を隠せない。松崎はもっと魅惑的な妄想をしていたからだ。きっと料理は素晴らしいのだろうが、わざわざ調布に出掛けるほどのグルメではない。
「行ってみればわかるさ。俺に任せてくれ。きっとレストランの概念がひっくり返るぜ」
 そこまで言われて断る理由がない。松崎は二つ返事で了解すると、早速スマホのスケジュール表を開き、空いている日を探した。

 二週間後、タクシーに揺られて調布までやって来た。時刻は午後二時でランチには遅く、ディナーには早すぎる時間だ。言われるがままこの時間帯を指定されたのだが、富田は一体どういうつもりなのだろうか?
 車を降りるとそこには三階建ての建物がある。その一階には富田が佇んでおり、松崎を見つけるとすっと手を振ってきた。
「時間丁度だな。さすがは大手企業の役員だ」
「止めろよ。時間厳守は社会人として当然だろう」
 丁々発止のやり取りが和やかに済んだところで、さっそく本題に入る。
「ところでその隠れ家レストランとやらは近くなのか?」
「ああ、すぐそこだ。案内するから付いてきてくれ」
 すたすたと歩きながら、富田はそのレストランが如何に凄いかを語っている。会員制で一見さんお断りだとか、予約が常にいっぱいだとか、一日三組しか受け付けないとか。しかしそのような店は松崎も知っている。何軒か廻ったが、どこも値段相応で期待以上のものが得られた試しがない。確かにプライベートが守られていたり、安らぎの効果が無いわけではなかったのだが、失念の思いの方が遥かにっていた。
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