第6話 走り抜ける魔法使い

文字数 982文字

「ご同乗よろしいでしょうか」

 何回かインキュベーターが訪問した世界なので、挨拶を変えた。「構わない」と了承を頂けたので実体化する。

「3分13秒だ」
「は、はい」
「それだけで良かったら、俺の運転を見ているといい」
「分かりました」
「ゴールって言えば良いのかな、まぁ、ふもとに着く手前で実体化は解いてもらおう」

 轟音が響き渡る。車のシートとは思えない揺れを感じる。目を閉じて音を消したら新発売のマッサージチェアと言われてもコアラの叡智は疑わない。慣性の法則がこれはくつろぐためのイスではない事を主張してくる。

「…結論だけ言ってしまったらな。オレは成らないよ」
「やっぱりそうですよね。走れなくなると言ってもですか」
「まぁ、そうなるな」

 急な振動を感じる減速した事を知った時には、身体が右側に引っ張られる。このカーブを時速60㎞で曲がれる人が隣にいる。

「まぁ、魔法なんだよ」
「このマシンがですか」
「いや、ほとんど全部だ」

 加速している事を感じる。ほんの数秒、メーターが示す速度は二倍に跳ね上がる。

「ここは、とうげ道なんだ。つまり、あまり大々的に舗装もされなければ、落ち葉も定期的にははかれない。つまり、こんな速度で走ったら滑って大事故さ」

 一番の難所なのだろう。ガードレールの向こうに人影が見えた。自分が見やすくする為ではなく、カーブが見える様に持ち込まれたライトが路面を照らしている。

「出来るなら、車の中で死にたいね」

 恐らく時間だ。実体化を解いて霊体化する。勧誘対象は、4点式のシートベルトを外して車外へと出た。ゴムが焼ける様な匂いの中、歓声が上がる。大群衆と言うには少ないが、知り合いというには多すぎる声だった。

『君も憧れてくれたのかね…インキュベーターさん』
『はい、学生の時に』
『君みたいな人でもゲームセンターで小銭使って走ったのかい』
『はい、本当に数回だけですが』
『そうか。同じインキュベーターと会った事はないから言っとくよ…』
『何でしょうか』
『ちょっと擦っただけで、命に係わる事故になるからな』
『はい、心得ていませんが、肝に銘じます』
『誰かが憧れたら言ってやってくれよ』

 『それでは失礼します』と伝えて、この世界を離れる為に準備する。そして、丁寧に離脱した。その日、仕事で車を使った。普段通る道のガードレールに新しい傷を見つける。
 彼の言葉が耳奥で響いた気がする。
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登場人物紹介

コアラの叡智……インキュベーター。心優しく、死ぬ運命にあった魔法少女ちゃんを弟子として引き取った。

魔法少女ちゃん……死ぬ運命にあった女の子。現在は一人前のインキュベーターを目指して勉強中。

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