2020年8月 夏の魔物がやってきた

文字数 2,036文字

夏は魔物が出る季節なんだろう。東北三大祭りで有名なねぶた祭りも、夏の疲労から睡魔に襲われるのを祓うための踊りが由来だと聞いたことがある。

事故がおきたのはお盆も間近の暑い盛りだった。事故後、家人は警察署へ出向き、調書を作成する刑事と一緒にドライブレコーダーを確認することになった。今どきの現場検証が以前と比べて簡易になったのは、デジタル機器が発達普及したおかげだろう。特に路線バスは車内車外ともにドライブレコーダーが搭載されており、映像とその際の運転出力をデジタコグラフで照らし合わせれば、事故の瞬間を再現することさえ可能だ。
転倒した乗客は買い物帰りらしく、大きなショッピングカートを持ち両手が塞がった状態で、手すりにつかまっていなかった。そして発車後に車内を移動したのち、ふらりと倒れる様子が映し出されたモニターを見て、刑事は不思議そうに首を傾げていたという。

車内の転倒事故は多くの場合ブレーキをかけた時に発生する。停車の際に前のめりに揺さぶられ、そのまま転んでしまうのは想像がつくだろう。しかし今回は転倒事故のセオリーには当てはまらない「発車時の事故」であり、しかも急加速や急ハンドルを切ったわけでもないことは、一緒に乗り合わせた他の乗客に、ふらついたりよろけたりする様子がないのを見れば一目瞭然だ。何よりデジタコグラフ(自動車運転時の速度・走行時間・走行距離などの情報をメモリーカード等に記録する運行記録計)でも記録がなされ、証拠として採用されている。「ここで転ぶって不思議だね」と刑事も思わず口にするような現場の状況ではあるが、被害者が出ている以上事故であることに間違いない。そして事故を起こしたドライバーにはペナルティが待っている。

事故を起こして以降、家人は出勤はするものの、一切の乗務がなくなった。ドライバーは恒常的に不足しているにも関わらず内規は厳しく、事故を起こした乗務員は慣例上公道に出ることができないのだという。つまりダイヤを割り振られることもなく、営業所内の場内整理をすることが仕事になる、ということだ。傍目に見れば体力的に楽だろうと思うかもしれないが、心理的には辛いばかりだろう。
もとは商社勤めの営業をしていたが、憧れだった乗務員を諦めきれずに大型二種の免許を取得し、転職してこの職についた家人にとって、乗務はやりがいと誇りそのものだっただろう。そういう熱意を持たず、収入や待遇だけを目的にこの仕事を続けることはほぼ不可能だと言っていい。お世辞にもいいとは言えない給与の上に、前回も記載したように道路交通事業者の労働環境は、ここ10年で最悪の状態になっている。

東日本大震災の時にも問題になったが、電車が減便や運行停止を決めると、客はその代わりの足をバスに求める。最近は台風や大雪などの際にも、鉄道はあらかじめ運転を見合わせたりするが、バスに計画運休はない。台風は線路の上だけでなく道路の上にも来ているはずなのに、悪路であっても定時運行を求められる。外出をためらうような悪天候でも、自分に割り振られたダイヤをこなすためには出勤するしかないし、なんとなれば前日から営業所に泊まり込みだ。
加えて鉄道業界では職員に対する暴力が増えており、被害を防ごうとポスター類で啓発が繰り返されているが、バスの乗務員とて同じことだ。いわゆるカスタマーハラスメントはバスの乗務員相手にも横行している。酔漢に胸ぐらを掴まれたり、車内名刺(乗務員名を運転席上部に掲示する名札)を大声で読み上げられて、脅迫まがいの罵声を浴びせられることもある。駅員なら他の職員が助けに来てくれるかもしれないが、路線バスは営業所を出てしまえば全てがワンオペで、無線で応援を呼ぶまではトラブルも客あしらいも、ひとりでどうにかするしかない。

人手不足は深刻を通り越して悲惨ですらあった。事務員は少ない乗務員のやりくりにいつも頭を悩ませている。公休日にはもちろん、乗務を終えて今帰宅したところだというのに、営業所は欠員補充のための休日出勤を相談する電話をかけてくる。
一つの営業所が管轄する、路線の全てを運転できる乗務員もいれば、そのうちの数本の路線だけ担当する乗務員もいる。家人は前者であり、どこかに欠員が出ればすぐさまそこを埋められる「オールマイティーなカード」として重宝なのだろう。外出中でも食事中でも、休日に高尾山に登っている時でさえお呼びがかかる。一人増員するよりも、誰かが休暇を潰してくれる方が安く済むと経営側は踏んでいるのだろう。およそサスティナブルとは思えない、場当たり的な労務管理は更なる人手不足を呼ぶ。そしてこれはバスに限った話ではなないのだろうが、精神を病む乗務員も少なくない。鬱を患って休職する社会人の話は、近頃では珍しくもなくなった。バス営業所とて同じことだ。
少しずつ柱が歪み梁がたわんで、あちこちからキシキシと音が響いているこの国の、バスだけが例外ではいられるわけもないのだった。
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