第154話 大切なこと

文字数 1,065文字

「ショウ」
 藍を抱えるようにして、その腕をさすっていると、教祖に名前を呼ばれた。ぎくりとしながら、顔を上げる。
――君の気持ちも聞かせてくれないか。

「僕は……」

 翔は、言葉を選びながら話し始める。
「自分の境遇に、ずっと違和感を持っていました。教祖の子供なのだと言われても、まったく実感がわかなかったし、自分たちが教祖の後継者なのだと言われても、とても現実のこととは思えなかった。
 管理された中で暮らすことは窮屈だったけれど、だからと言って、自分がどうしたいのかも、どうすればいいのかも、よくわかりませんでした」
 
 藍の肩に回していた腕を外し、膝の上で両手の指を組み合わせる。
「そうしているうちに、ある日、屋敷に侵入した反対派の男に襲われて怪我をして、それ以来、外の世界が怖くなりました。でも……」
 野本が、教祖に通訳する。そのまま言いよどんでいると、教祖が、問いかけるように翔を見た。
 
 翔は、ためらいながら口を開く。
「そのことがあったせいで、大切なことに気づきました。屋敷を去ることになって、もう学校にも行けないことがわかったとき、どうしても、もう一度だけ会いたいと思う人がいたんです。
 彼は、藍以外では、初めて、心を開いて僕を受け入れてくれた人でした」
 
――彼とは、会えたのかい?

「はい。彼は、教団の信者となって、今日も、ここに一緒に……」
 教祖は微笑むが、翔は、意を決して、次の言葉を言った。
「でも、僕のせいで、彼の人生を変えてしまった。彼が生きるためには、信者になるしかなかったんです。
 簡単に人の命を奪う教団のやり方には納得出来ない。こんなの、宗教なんかじゃない!」
 
 興奮のせいなのか、恐怖のせいなのか、体がぶるぶると震える。
 自分は、教祖の逆鱗に触れたかもしれない。取り返しのつかないことを言ってしまったのかもしれない。
 だが、どうしても言わずにはいられなかったのだ。
 
 躊躇している野本を、教祖がうながした。野本は、またも汗をぬぐいながら通訳する。
 それを聞いた教祖は、しばらくの間、黙ったまま翔を見つめた。視線をそらすことが出来ず、翔もまた、碧い瞳を見つめ返す。
 やがて、教祖が言った。
――君にも、辛い思いをさせてしまったようだね。私の力不足で、済まない。

「辛いのは、僕だけじゃない。僕の周りだけでなく、僕の知らないところでも、教団のために人生を変えられた人も、命を落とした人も、大切な人を亡くした人も……」
 翔の横で、藍がむせび泣いている。教祖は、しばらくの間、二人を見比べるようにした後、おもむろに話し始めた。
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