第2話

文字数 1,964文字

 ゴミ捨てといっても、団地内のゴミ収集所にゴミを運ぶ簡単な作業だった。
 本来ならこの家事はお父さん唯一の担当なのだけれど、あの日、お父さんはゴミ袋を持たずに出社してしまった。お母さんも弟も遅刻ギリギリで家を飛び出す事態となっており(弟が牛乳を盛大にぶちまかしたので、洋服を着替え直したりした結果、時間がなくなったのだ。)その結果、わたしを除いて誰もゴミ捨てができない状況になっていた。
「ゴミ捨てだけしといてね! 鍵は閉めといてね! じゃあ、お母さん行くからね!」
 ヒールのないパンプスを履きながら、お母さんは一息に注意事項だけしゃべり、一度もわたしの方をを見ることなく、弟の手を引いて大騒ぎしながら家を出ていった。
 嵐が去ったあとの静けさがやってくる。すると、今までなりを潜めていた「なつやすみ」がとたんに家の空気をのっとった。
 このだらりとした空気に取り込まれると、動けなくなる。
 それを知っていたからこそ、わたしはお母さんの約束を守るべく、早々にゴミ出しをしに玄関の外へ出たのだった。
 ゴミ収集所に行くためには、団地の中にある小さな公園(滑り台と小さい砂場とブランコしかな い。)の脇を通ることになる。
 その、団地の子が誰も行かないようなチンケな公園に、知らない女の子がいたのだ。
ビーサンをぺったんぺったん鳴らしながら歩いていた、わたしの足が止まった。女の子と言っても、七歳のわたしよりも年上であることはすぐにわかった。小学校高学年くらいの子だ。
 この団地の中の公園は、団地に住んでいる人しか利用してはいけないことになっている。
 つまり、女の子は団地に住んでいる人なのだ。
 それなのに、わたしはその子のことを知らなかった。
 他学年でも団地に子どもが増えれば絶対に気づくはずだった。なぜなら、団地に住む子は例外なく全員、登校班で一緒に登校する決まりになっていたから。
 でも、記憶を正確に思い返してみても、一学期の最後に団地の登校班に新メンバーが増えたような記憶はない。となると、あの女の子は夏休みに入ってから団地に引っ越してきた子どもに違いなかった。
 女の子は、小さなブランコを、これでもか、というくらい漕いでいた。
 立ちこぎでぐんぐん高く空へ飛び出す姿は、このままブランコに乗って飛んでいってしてしまうのではないか、と心配になるくらい、ダイナミックだった。ぎっしぎっしときしむ音を出しながら、華奢な女の子は真っ青な空に向かって飛び出していた。
 わたしが女の子に目が釘付けになったのは、ただあまりに大きくブランコを揺らしていたからだけではない。
 誰も彼もが「なつやすみ」のせいで蜃気楼のように色がゆらぎ、溶けて、くすんで見えるのに、その子だけが、明彩色をしていたからだった。
「あは、きゃははっ」
 その子は驚いたことに、たった一人なのにブランコをこぎながら笑い声さえあげた。
 額の汗の粒をまで輝かせて、その子は笑いながら、体全体で光っていた。汗粒一つ一つが、生きていること自体が楽しくて仕方がなくて、笑い出す声が聞こえるような、輝きを持っていた。
 夏らしい青臭い匂いを強く出して輝く植物や生物と同じように、女の子は明るく光りながら、ブランコをぐんぐんと漕いでいた。
 女の子のその姿は、木大きなも花も何もない、薄暗い小さな公園に偶然落ちていた宝石みたいだったのだ。なんだっけ……そうだ、友達のお家で見た宝石の白鳥の置物にそっくり。    
 確か、スワロフスキーとかクリスタルとかいう……。
 わたしは吸い寄せられるようにじっとその女の子を見つめていた。いっときとして同じ色はない。見れば見るほどその子の色はきらきらと変わっていく。
 どのくらい、その子を見ていたのかわからない。
 気がつけば、その子がわたしを見ていて、わたしもその子を見ていて、そのうち、その子がブランコから降りて歩いてきた。
「こんにちは。わたしミイナって言うの。十二歳だよ。あなたは?」
 昔、おばあちゃんの家にあった風鈴の音色(確か、サハリというものでできた風鈴で、見た目によらず、とても澄んだ色を響かせていた。)にそっくりの声で、その子が言った。
 どっしりと重力がかかったなつやすみの空気を物ともせず、どこまでも透き通った声が響く。
「な、なつき…‥なな、さい」
 その子が自分と同じ言葉を話すことに一瞬だけたじろいだが、慌てて返事をした。その子よりもずっと小さいわたしの声は、すぐになつやすみの空気にゆらぎ、にじみ、消えていく。それでも、その子は笑顔のままわたしの前に佇んでいた。
 ジーンズのショートパンツを履いて、レースがついた白いキャミソールを着ていたその子は、わたしの声を聞くと、嬉しそうに思い切り笑った。
 これが、わたしとミイ姉ちゃんの出会いだった。
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